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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
新書の「時の人」にきく
03 教養主義の変遷と教養の行方
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4.マルクス主義は当時たしかにリアリティがあった
5.全共闘世代に対する違和感
6.教養主義だからといって教養があるとは限らない
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マルクス主義は当時たしかにリアリティがあった
――
どうして京都大学へ?
竹内
 東大に落ちたんで(笑)。
――
落ちて京都大学ですか?
竹内
 あの当時、法学部、経済学部は難しかったけれど、文学部や教育学部は簡単でしたから。だって、就職はないですから。ぼくはほんとうは文学部に行きたかったんですけれど、親に「文学部なんかいってどうするんだ」って言われて。高校の先生になりたいと思っていたので、ま、教育学部でもいいやと。でも大学にいったら教育学なんておもしろくない。日本の教育の問題なんて全然やらなくて今日はペスタロッチ3ページ読んだとか。それも大事かもしれないけれど、つまらなかった。
――
いわゆる教養主義的な教育学ですか。
竹内
 そうですね。哲学亜流みたいな。そうしたら教養の授業で作田啓一という先生がいて、おもしろかった。ただ一時間目で大きな教室に5人くらいしかいなくて。ギャグもなんにもなかったけれど。
――
当時、マルクス主義あるいは左翼思想というのが、学生の教養とリンクしていたようなところがありましたが、竹内さんはいかがでしたか。
竹内
 反マルクスというのは言いにくかったのは事実だし、ぼくも読みましたよ。ただ、いま困るのは、ぼくの娘が大学院にいってるんだけれど、この間うちにある私の蔵書の『資本論』を見たらしくて、「パパの読んだら、前の方しか線が引いてなかった」なんていわれて。(笑)それにへんな書き込みしてあるのもわかるでしょう。
 話を戻すと、マルクス主義に対してはある段階で疑問だったけれど、いまでも一般化して言えば、社会に対する見方としては、重要で全然古びていないと思う。社会というものが集団間の闘いということは、階級間だけでなくて、男女間やエスニシティーや利害集団の中でも、起こるわけですから思考法として大事なものかと思います。ただ、当時は、思想のある部分の現実への当てはめなんですね。マルクスの枠組みだけで世の中をみてわかったようになるのはいきすぎでしょう。
――
しかし、多くの学生が難しいマルクス主義にそれほど興味を持つようになったのは、今日から考えると隔世の感があります。
竹内
 やっぱり当時はリアリティがあったからですよ。ぼくのいなかで、海難事故とかがけっこうあって、漁師をやってて死んじゃう。残された家族は食っていけない。それでぼくの家にお米借りに来ている人もいましたよ。なにも怠けているわけじゃなくて、日雇い労働に出ている。でも子どもが3人、4人いたら食っていけない。そんなのみたら、「世の中理不尽だ」って思いましたよ。だから、あのころは頭だけで考えたんじゃないと思いますよ。それと、青春というのは、世界を一挙的にわかりたいという気持ちがあるでしょう。マルクス主義はそれにフィットしたんでしょう。
 フランス現代思想などに代表される70年代にはやったニュー・アカデミズムブームが現象として似ているでしょう。でもこれは世の中をよくしたいっていうことより、おれは頭がいいんだということが先に立っているような感じです。でも、マルクス主義は頭の問題もあったけれど、世の中よくしようという気持ちがあった。それでうけたのでしょう。
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全共闘世代に対する違和感
――
『教養主義の没落』のなかに、50年代にキャンパスに浸透していた左翼的教養主義に対する反動として石原慎太郎氏の例が取り上げられています。現在、石原氏は都知事として党派を超えて大衆からの支持があついですが、大衆は彼に反教養主義的なものをみているのでしょうか。
竹内
 うーん、本来は彼も教養主義かと思いますが、大衆は彼のなかに教養主義を見ないわけですね。ただし彼は文学部的な教養主義は大嫌いなわけでしょ。旧派の教養主義への憎しみは強い。都立大学の改革などもその流れなんじゃないですか。
――
全共闘世代については、教養主義に対して愛憎を併存させていると言ってられますが、竹内さんは全共闘世代をどうとらえていますか。
竹内
 全共闘運動があったのは、ぼくが大学院の終わりのころですね。彼らのことをいやになったのは、運動のなかに「ルサンチマン」みたいなものが入っていたからですね。大学教師なんか弱いわけでしょ。それなのに大学のなかで、教師をつるし上げるなんていうのは、要するに家庭内暴力ですよ。依存反抗でしょ。街頭でやる分にはいいだろうが、元祖家庭内暴力ではないでしょうか。それと団塊の世代は一般的に権力志向が強いですね。仕切りたがるんですね。
――
教養主義は、日本では人格修養的な面、言い換えれば禁欲的な面がありますが、これが衰退する一方、日本社会はどんどんアメリカ的になっていくような気がします。プラグマティックな思想を重視するアメリカに教養主義というのはあるんでしょうか。
竹内
 教養を身につけるという点では、アラン・ブルームなんかはアメリカは全然ダメだといっている。教養というのはヨーロッパ型のものだというんですね。しかし、アメリカのいい点は、専門的な教育はしっかりしているところです。翻って日本の教育は、専門教育でもないし、かといって教養を身につけるわけでもないというから、なんだか訳がわからない。だからスペシャリスト育成では、アメリカは優れている。
――
教養とスペシャリストの教育がバランスよくできている国はあるんでしょうか。
竹内
 ひとつは中等教育段階でのエリート教育がヨーロッパやアメリカでしっかりしていますね。アメリカではブッシュなんかが出たプレップ・スクールですね。ああいうところは単に知識だけでなく、立ち居振る舞いを含めた身体的な教育をしますね。日本の教養主義はブッキッシュですが、もっとエリート養成的な面があります。日本でもトヨタが6年制の全寮制学校を愛知県でつくろうとしていますが、一応のモデルではないでしょうか。
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教養主義だからといって教養があるとは限らない
――
「世間」から日本社会をとらえている阿部謹也氏は、『「教養」とは何か』のなかで、教養は単に個人の自己完成を目指すものではなく、世の中に働きかける力を持っていることだというようなことを言っていますが。竹内さんは「教養」をどうとらえますか。
竹内
 教養は、根本的なところで人間の存在条件になっていると思います。人間は意味の病というか、理屈を考えなければ済まない。それが栄光と悲惨をもたらすのでしょう。暴力団だって人から金取るときに理屈をつけるわけでしょ。教養があったから得をするわけではないけれど、教養があれば豊かになるじゃないですか。喜びも深くなるし、悲しみも深くわかるし、人間とセットになっている。なんにもわからないで死にたいと思う人はいないんじゃないですかね。
 教養主義と教養とは違う。教養主義は必死になって知識を所有しようとする。だから教養主義であっても教養のない人はいるし、教養主義ではないが、教養のある人はいる。両方ある人もいる。
――
教養との関連で言えば、いまはどんなテーマに取り組んでいらっしゃいますか。
竹内
 つぎのテーマは丸山真男で、新書を書こうと思っています。彼については、これまであるのは思想史といったいわゆるテキスト分析がほとんどです。でもぼくの専門は社会学ですから、彼の生きてきた時代背景などを含め考察してみたい。ある意味では教養主義のつづきであり、戦後日本社会論でもあります。
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教養主義の没落
『教養主義の没落』
竹内洋著
中央公論新社
「教養」とは何か
『「教養」とは何か』
阿部謹也著
講談社現代新書
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