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新書で考える「いま」 旬の話題や気になっている問題。もっと知りたいとおもったとき、まずは新書にあたってみる。そこで出合うだろうおすすめの1冊を中心に「いま」を考えてみる。
第140回 『バッシング論』

「風」編集部

NEW 19/07/31

誰のための「謝罪」

 これは一体、誰のための「謝罪」なのだろう、そう思わされる会見が最近多い。引率され街中を散歩中の保育園の園児たちが交通事故に巻き込まれてしまい、園児 2人が亡くなった事故の直後、憔悴しきった園長に対して、保育園側にも過失があったかどうか問いただすような質問があった。事故の再発防止のために、事実関係について聞き取りをすることはもちろん重要だが、それは、果たして事件当日である必要があったのだろうか。マスメディアの対応に慣れていない「素人」に対してあのような公開の形で会見をやるべきだったのだろうか。
 芸能人や有名人の不倫が明らかになると騒ぎになるのは、昔からあることだが、それが犯罪でないかぎり、ここまで犯罪者のような扱いを受けることはなかったように感じる。仕事を降板させられたり、(家族や相手ではなく)世間に向け「謝罪」させられる。ああいう場で男女間の不義を責め立てる記者たちは、そうした経験は一切ない、清廉潔白な方々ばかりなのだろうか。
 そして今大きな話題となっているのが、お笑い芸人たちをめぐる反社会的勢力との「闇営業」問題である。当初彼らは問題となった相手から「金銭をもらっていない」とウソの釈明をしていたため、批判の声が大きくなっていった。彼らが所属する事務所社長も、当初は「全員解雇」と厳しい通告をした。
 それが一変、人気芸人たちの記者会見により、事務所が関知していたこと、真実を語ることを止められていたこと、そもそも芸人たちが事務所から相当不利な条件で働かさせられていたこと、などが暴露され、逆に事務所社長にバッシングの矛先が変わっている。
 そもそも、「反社会的勢力」と呼ばれる人々とビジネスをしてはいけないというのが「正しい」ルールだとして、彼らは名札を付けて歩いているわけではない。初めて名刺交換をする際に、「あなたは反社会的勢力の人ではないですよね?」と確認すればよいのだろうか。最初から知っていて取引したのならともかく、後から「反社会的勢力」だということがわかった場合、ペナルティーは当然必要かと思うが、有無を言わせず即・永久追放するという対応は妥当なのだろうか?

正義観からのバッシングの先にあるもの

 このようにバッシングの標的は次々に変わり、謝罪と反省を強いられる。その対応をあやまると、バッシングは過熱する。「謝罪と反省に明け暮れ」る昨今の日本社会を危惧しているのが、『バッシング論』(先崎彰容著、新潮新書)である。バッシングの標的は、不祥事を起こした企業であり、事件を起こした加害者であり、女性記者に対しセクハラ発言を繰り返したエリート財務官僚である。
 しかし、筆者が問題にしているのは、批判されるような事件を起こしたその人たちではない。事件に対する正当な批判を超え、声高にバッシングするスキャンダル報道と、それを肯定する「世間」、つまり我々一人ひとりである。
 セクハラは当然許されない。しかし、その詳細を明らかにし、興味本位を超え「マジメに」議論していたマスコミの様子について、彼らは「マジメ」で「美しい」社会をつくろうとしているのだろうか、と著者は不安に感じている。自らの正義観から不祥事を摘発する側は、「正しいこと」をしていると信じている。正しくない行いをした人は(我々の気が済むまで)謝罪すべき、(我々の気が済むまで)徹底的に糾弾すべき、(我々の気が済むまで)社会的に抹殺することもいとわない。
 正義の暴走の先には何があるのか、何が起きてきたのか、と著者は歴史を振り返りつつ警告する。「正しい社会」「美しい日本」を求めた「善意」の暴走に、もっと危機感をおぼえてもいいかと思う。

(編集部 湯原葉子)

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