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「食」への不安が止まらない。相次いで発覚した食品の“偽装”、未だ解決しない中国産毒入り餃子問題。その上原油・小麦相場の高騰が生む、身近な食品のたび重なる値上げ。こうした世の中の動きを反映してか、ここ数ヵ月の間「食の安全」をテーマにした新書が相次いで刊行された。これらを読み日本の「食」の実態を知れば知るほど、背筋が寒くなる思いだが、一方で消費者が学ぶことで「食」の不安を払拭でき、市場に踊らされずに生活できることがわかってくる。
『日本の「食」は安すぎる/「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない』の著者は、「農産物流通コンサルタント」というあまり見慣れない肩書きをもつ。大学在学中に「畑サークル」を設立し、キャンパス内外で野菜の栽培にいそしんできたという。以後、生産・流通・販売という三つの立場から農産物と関わってきた。
消費者至上主義が問題を引き起こした
ミートホープのひき肉偽装問題が発覚した際に、当時の社長が「半額セールで喜んで買う消費者にも問題がある」と発言し「責任を転嫁するのか」と市民やマスコミに猛反発をくらった。本書の著者は、偽装行為は悪いが、この発言自体はみんなが吟味すべきではないか、と指摘。後を絶たない食品偽装事件は、「製造業者が独断で行った不正」だけではなく、「安いモノ」を求める消費者の力が増したことによって、「製造業者が不正を行わざるを得ない状況に追い込まれた」結果でもあると見ている。また、小売り店では食品は消費者にとってあくまで「商品」であって、作り手の「顔」が見えず、生産者の生活を想像することが難しい点をあげ、これも消費者が安さばかりを求めてしまう一因ではないか、と指摘する。
消費者側の問題をさらにあげれば、一般に消費者は「無添加」の食品を望みながらも一方で「日持ち」のいい食品を求める。こういう傾向が強まると、業者としては傷みに関するクレームや返品のリスクをとるよりも、法的基準内で添加物の使用を増やすのでは、と危惧する。
著者は「新鮮で安心、美味しい食べ物は高い」というあたりまえのことを、われわれ「消費者」に思い出させるために、身近な食品(豆腐、漬け物、ハム、など)の具体的な例をとって説明していく。“本物”の作り方を知ることで、「安すぎる」ものが何を犠牲にしているのかがわかるというのだ。
また、食品に関する知識を手にしているのであれば、今後はスーパーで買い物をする際に、買うか買わないか、30秒考える。裏側をひっくり返して表示をよく見る。これだけで食品を選択するスキルが上がってくるはず、という。
そして「よいものなら高くても買う」という商品が見つかったら、「買い支える」ことによって小売店、製造業者に「こういうものが欲しいのだ」というメッセージを送ってほしい、消費者の「購買」という権力を正しくつかってほしい、と著者は強く訴えている。
牛乳を余らせない時代に
2006年に北海道で大量の生乳が廃棄処分されたニュースは記憶に新しい。「日本の牛乳は安すぎる。そして、日本の牛乳は余りまくっている」という現状をふまえて、著者は「牛乳をもっと飲んで」という消費拡大一本槍の業界の方向性に疑問を投げかける。一方、生産量、頭数を減らせば、借金を抱えて牛を飼う酪農家がたちゆかないことを心配する。残された道は「高くても消費者が納得する牛乳」を生産し、結果として頭数を減らすこと、ではないかと考える。
その例として、四国の山間部で放牧している牛の牛乳を紹介する。ここの牛たちは乳量は少ないが、山の草を食べてのびのび育つのであっさりとした味わいがあるという。輸入穀物が「安く」安定して入手できるかどうか、先行きが不安になってきているいま、酪農の将来のためには、国内産の飼料でまかなえるような規模にしていくことも現実的に考えなければ、と提言する。
国内産飼料による畜産の例は、ほかにもあげられている。青森県では減反政策によって休耕となった田んぼで、鶏の餌に適した専用のコメを作るという試みがされている。このコメを食べて、狭い鶏舎ではなく広い地面で放し飼いにする、いわゆる「平飼い」で育てた養鶏である。コメを鶏に食べさせるのは一見贅沢なようだが、田んぼは余っているのだし、どの国でも自国で豊富にとれるものを家畜に与えているのだから不自然ではないという。
全国各地をまわって、自信の食を探す
これが実現すれば餌のコメ代は国内に還流され、輸入飼料依存から脱却し、いざとなれば人間がそのコメを食べることもできるので、世界的食糧危機の備えにもなる。まだ実験段階で、単純に計算すると現状では一個100円程度になってしまうというから、このままではこだわりの卵としてもかなり高い。しかし、卵は「物価の優等生」と言われ続けて、30年間ほとんど値上がりしていない。実際に販売するとなれば、より「適正な」価格となるかもしれない。
著者の提案する事例は、地道に全国各地をまわって探してきた結果というだけあって、説得力があるが、作り手の思いが伝わってくるような「よい食」を、自身のブログの中で紹介している。(http://www.yamaken.org/mt/kuidaore/)
最近では講演に出かけると担当者が彼のブログを読んでいて、ここぞと思う場所へと案内してくれるらしい。専門家である著者は、地元の人が自信をもってすすめる食がまだまだあるということに感心しながらも、すばらしい理念で食に関わる人々が苦しい経済状況に置かれていることを知り、少しでも何とかしていきたいという情熱をもっている。
本書は消費者に対して、商品としての食に対する「啓蒙の書」だが、人間が生きていく上で必要な「食」とはなにかという根本的な観点から現代の食文化への反省を促しているのが、『冷蔵庫で食品を腐らす日本人/日本の食文化激変の50年史』(魚柄仁之助著、朝日新書)である。
食糧自給率が39パーセント、現代日本の食卓は、輸入品に依存して成り立っている。その一方で、「不要な買いだめ」「作り過ぎる料理」などによって、食物をゴミとして捨てている現代の歪んだ食生活を厳しく批判するところから本書は始まる。
トランクルーム化した冷凍冷蔵庫をなんとかしろ!
巨大化、ブラックボックス化した冷凍冷蔵庫にストックされたまま食べられることのない食材。新鮮な食材がいつでも手に入るのに、自分の必要量を把握せず、食べきれないほど買い込んで、傷みかかった食材を「もったいない」といって食べ続ける毎日は、おかしくないか?そんな食生活は豊かなのか?と読者に問いかける。さらに食べることを他人任せにし、ないがしろにする態度に警鐘を鳴らしている。
とはいっても、食生活は子どもの頃からの積み重ねもあるので、一朝一夕には改善できることではない。いつからか「食育」が教育現場に必要、と言われ始めてきた。何をもって「食育」とするのか模索中、という感もあるが、戦後50年で食生活が激変し、食に関する知識や情報が氾濫するなか、「食」は家庭にまかせておけというのは無理な話、と著者も言う。ただし、家庭では理想的な食事を与えられ、教室の中で先生から「正しい」栄養の知識を教えてもらっていても、その後自立した食生活をできないような「食育」ならば結局は親や先生の「自己満足的」なものに終わってしまうのではないか、と指摘する。
そんな著者が「『食育』ってこんなものかな」、と考える例は、ある女子高校生に対してマンツーマンで料理について教え込んだ体験の話だ。レシピはなく、何を食べたいか、作りたいか、本人に決めさせる。そしてまずは師匠(著者)が料理するところをじっくり観察させるところから始める。習った料理は必ず自宅で何度かおさらいし、家族にも評価をしてもらう。もちろん食材の買い物も師匠の後について行き、食費の計算を行う。料理教室の何倍も厳しいが、その分身に付くのも早く、数ヵ月で日常的に必要な料理の技術はマスターしてしまう。
不登校だった彼女は、この体験をきっかけに食や料理に興味をもち新しい目標をつかむことができたようだ。実践主義の著者が掲げる「食育」の目標は、「自分の食生活を自分でコントロールできる能力を身につけさせること」である。
持続する台所生活とは
本書では、食べきれない野菜を干す、魚の切り身をみそに漬ける、などの一手間で冷蔵庫に頼らず食材を長持ちさせ、おいしく食べられる例を紹介している。一見「おばあちゃんの知恵」のようだが、著者の場合、一通り実践したのちのことで、合理性もとことん考えられている。結局は「必要なだけ買って、足りないくらいしか料理するな」というのが基本だ。
食費が毎月いくらかかるかはわかっていても、自分がひと月に何をどれだけ食べているか、どれだけあれば足りるのかを把握している人は少ないのではないか。思えば現代人は価格や経済性で食べるものを決めすぎているのかもしれない。本質的に必要なものは何かというのを考えてみるのもなるほど必要だろう。
食品の値上げ、輸入食品への不安にもむやみにあおられないために、まず「身の丈に合った食生活」の「身の丈」を知ることが、大人の食育第一歩かもしれない。冷蔵庫をスッキリさせるところから始めてみてはどうだろう。
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