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第120回 『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』『料理は女の義務ですか』

「風」編集部

NEW 17/11/30

『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』
(佐光紀子著、光文社新書)

家事は「きちんと」というプレッシャー

 食器洗い乾燥機、ロボット掃除機、洗濯乾燥機。最近、注目度が高いこれらの家電を業界では「新・家電三種の神器」と呼んでいるという。夫婦共働きが当たりになりつつある現代、家事の時短を助けるさまざまなツールへの需要が高まっている。
 家事負担を減らすだけであれば、料理や掃除は簡単にして適当に手を抜いたり、必要に応じて外注したり、「時短」を実現するという方法はいろいろと選べるようになってきている。しかし、「時短」を手抜きと思われるのではないかと気にしたり、お金を払って外注することに引け目を感じる人などもいる。家事や育児に費やす時間が減っても、「自分はきちんとできていない」というストレスは減っていない人が私の周りにも多い。
 それは、女性が家庭の外で仕事を持つようになってもなお、「家事・育児は家庭で(無償で)ちゃんとやるべき」という意識が世間に根強いからではないか。また、女性たち自身が、そうした意識に縛られているせいではないか。家事を「ちゃんとしなければいけない」という高すぎる理想が日本人を苦しめている、として「完璧家事亡国論」を展開しているのが、『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(佐光紀子著、光文社新書)である。
「完璧家事亡国論」というと大げさに聞こえるが、家事は誰にとっても一生ついてまわることであり、子育ては関係ない世帯でも、介護について考えずにすむ人は少ない。
 高くなりすぎてしまった「理想の家事」を手放し、誰にでもできる、最低限必要な家事のスキルについて学べる社会がのぞましいのではないか、と著者はうったえる。

日本の家事が複雑になる理由

 著者は以前から、重曹や酢といった「自然素材」を使った掃除術に関する著作が多く、いわば「家事・お掃除術専門家」として有名である。その彼女が、「日本人は家事をやりすぎではないか」という本を書くのは、意外なことのようにも思える。翻訳家として外国の友人が多い立場から、日本人女性ばかりが家事に苦労しているのはなぜか、さまざまな観点から分析することを思いいたったという。
 日本女性の家事負担に最も大きく影響しているのは、男性の家事時間が各国と比べて最も少ないことだが、平均して各国と比べて2時間半以上長く働いている日本人男性ばかりを責めても仕方がないかもしれない、としている。
 そのうえで、「家事術」や「掃除術」では解決できない、日本人ならではの根本的な課題を検討していく。

 日本の家庭料理は、日常的に和洋中とメニューが多彩で、扱う食材、食器や調理器具も他国と比べて圧倒的に種類が多い。食器洗い乾燥機が普及し、何食分かをまとめて洗うほうが合理的であっても、毎食後すぐに洗わないと「だらしがない」と言われることを気にしてしまう。
 戦後、モノのない時代を生き抜いて来た時代の教訓から、「もったいない」としてモノを捨てることに抵抗がある人が多い。狭い家で今はもう使わないモノが溢れかえっているために掃除がしづらくなっている。
 非常に細かいことだが、新しいものや文化を次々に取り入れてきた一方で、古い習慣やモノもそのまま捨てずにきた生活様式が、日本の家事を複雑にしている例もある。
 トイレ用のスリッパを区別して用意している家庭は多いが、それは日本独特のものでもある。
 昔、日本ではトイレは「ご不浄」であり、室外に置かれていたものであり、室内になっても「お外感」を残したいという意識の表れでは、としている。昭和のころ、玉砂利や玉砂利風のタイルにサンダルを履いて使うトイレがあったが、それは「お外」である、という演出ではという指摘に、目からウロコである。もちろん、衛生上の問題もあり、家庭によって好きずきであるが、「トイレのスリッパを洗うのが苦痛」というくらいなら、昔の名残であるだけのもの、使わなければよいのである。


料理と「愛情」は分けて考える

 
同様に、便利な社会で忙しく暮らすのになぜ、女性たちは料理をやめないのかというテーマをとりあげているのが、『料理は女の義務ですか』(阿古真理著、新潮新書)。著者も、「料理は愛情を伝える」ということが強調されすぎているのではないか、という。かといって、著者は、家事の「完全」外注には、寂しいものがあるのでは、と反対している。料理や家事を分担する、というよりは、家族一人一人に、生活の一部である家事に「参加させる」という意識で、できるレベルで、できることをやっていけばいいのでは、と提案する。
 夫や子どもに家事をやらせても、かえって面倒になるだけ、と分担に消極的な女性も多いと思う。掃除でも料理でも、「きちんと」「要求通り」にできないなら、多少大変でも自分ひとりでやってしまったほうがいい、というのはあるかもしれないが、それでいいのだろうか。
 私(筆者)が、これから、より深刻な問題になると思っているのは、「きちんと」家事をこなす主婦たちが生んでしまった、「家事スキルゼロ」の人たちの将来である。熟年夫婦や、親と同居する独身者など、長年にわたり専業主婦が家事を一人で担っていた世帯で、主婦が高齢になり家事ができなくなったり、病気で入院したり突然亡くなったりすれば、家族が日常生活に支障を来たすことは十分予測できる。
 主婦自身も高齢になり、それまで当たり前にこなしていた家事ができなくなったり、手の込んだ料理ができなくなることも増えてくる。しかし、彼女たちは、家族に家事を代わってもらったり、便利な家電を使ったりすることはもちろん、「他人にお金を払って家事をやってもらう」ことに強い抵抗があるため、外注という解決策をとりづらい。「自分の仕事を奪われる」という意識で長年家事を抱え込んできた人は、自分よりレベルの低い家事の出来に満足できないこともあり、家事を「うまく手放す」ことができない。
 家事の負担を減らすためには、まずこれまで当たり前だった「理想の家事」は忘れること。一手に家事を引き受けてきた人の負担を、家族で分担するなどしてほどよく減らしていくこと。スキルゼロだった人の家事能力を上げていくと同時に、要求する家事レベルをそこそこ満足できるレベルに下げていくこと、そういう発想の転換も必要ではないだろうか。便利な家電の開発や家事外注サービスの普及だけでなく、できることがあるはずだ。

(編集部 湯原葉子)

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