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 第136回 『京大的アホがなぜ必要か』

「風」編集部

NEW 19/03/31

『京大的アホがなぜ必要か/カオスな世界の生存戦略』
(酒井 敏著、集英社新書)

「卒業式のコスプレ」と学術の危機

 卒業式シーズン、「ふざけたコスプレ」で参加する学生の姿が例年話題になる大学がある。「ハロウィンが流行るずっと以前から卒業式が仮装大会」だったという、京都大学である。ハロウィン同様、アニメキャラクターのコスプレもあるが、時事ネタ、自虐ネタのような「仮装」も毎年注目を集めている。今年でいえば、「先日東京拘置所から保釈された際のカルロス・ゴーン氏の変装」の扮装や、「学生自治寮からの退去を命じる大学職員」の扮装がネットやテレビでも紹介されていた。
 言わずと知れた名門大学だが、優等生的な東京大学と比べて、「ひと味違う変な大学」という自他ともに認めるイメージがあり、それでいて「ノーベル賞受賞者」も多く輩出している京大が、このようなふざけた行動を容認しているのはなぜだろうか。それには、意外にも深い理由がある、としているのが『京大的アホがなぜ必要か/カオスな世界の生存戦略』(酒井 敏著、集英社新書)である。
 著者の酒井氏は京大出身の京大教授。地球流体力学を専門とし、「カオス」と呼ばれる分野に詳しい。「京大の自由な学風を地でいくもっとも京大らしい京大教授」と自称しているくらいなので、相当な「変人科学者」なのだろう。
 しかし、その「変人教授」自らが「京大変人講座」と銘打つ連続講座を主宰しているのは、理由がある。京大を京大たらしめる「変人」が許される自由な文化が薄れつつあり、著者の言うところの「京大的アホ」の存在が、危機的な状況にあるからだという。

「京大的変人」を絶やしてはいけない理由

 著者は京大の理学部に入学した40年以上も前、当時の先生に「アホなことせい」と言われて衝撃を受けたという。京大の教員たちが学生に本気ですすめる「アホなこと」つまり「京大的アホ」とは、卒業式での仮装大会のようなパフォーマンスではなく、学生の本分である学問や研究のあり方に関わるもの。著者は、ここでいう「アホ」の対立概念は「賢い」ではなく、「常識、マジメ」だという。つまり、「アホなことせい」というのは、常識にとらわれるな、物事をマジメに考えているだけではダメだということを意味している。
 すぐに成果が出そうな研究、今すぐ何かの役に立ちそうな研究、常識的手法による研究ばかりしていては、つまり、誰かの後追いをしていては、オリジナルな研究成果は得られない。かといって、誰もいない道なき道を「自由」に進むのは勇気がいる。常識的に考えて、「そんなことをやってもムダ」「そのやり方は非常識」といわれるような回り道や失敗を、果てしなく、何万回も繰り返したその先に、たった1回の大成功があるかもしれない。
 ほとんどの挑戦は失敗に終わり、「アホやな」と笑われて終わりである。やれば確実に結果が出そうな常識的な研究の方が、「ある意味では楽」と著者はいう。非常識な「アホ」を正当化するには、常識的なものさしでは評価しにくい。常識や効率にこだわらない京大的な唯一の評価基準が「おもろいか、おもろくないか」だともいう。一見何の役に立ちそうもないがやってみる価値はありそう、「おもろい」と思える何かがあれば評価される。学生を支えてきたのは、京大のそうした寛容な文化だった、と著者はいう。

「効率化」や「選択と集中」が学問の危機を招く

 学生をコントロールしようとせず、自由に放任してきた。学問の自由を象徴する「最後の砦」ともいえる京大にも、さまざまなプレッシャーが押し寄せている。
 1990年代、東大を除く全ての国立大学は、「二年間も何の役に立つのかわからない教育をしているのはムダ」という世論を説得できず、「教養部の解体」という「改革」に着手した。国立大学が独立法人化された2004年以降は、大学にも競争の原理が持ち込まれ、「競争のないぬるま湯の環境ではいけない」「何の役に立つのかわからない研究ばかりやってないで、成果を出して社会に還元しろ」という圧力が高まった。さらに、近年、産業界だけではなく政府(文科省)が「選択と集中」のスローガンで学術研究(研究資金)に露骨に格差をつけるようになってきている。
 著者によれば、研究者は、ある程度の自由があれば、少ない予算でもしぶとく色々工夫して、手持ちの機材を流用するなどして乗り切ったり、「ガラクタ」をためておいてそれが思わぬところで役に立つアイデアの素としてきたりした。
 ところが、最近の科学行政は、「選択と集中」という名目で、「すぐに成果が出る分野」には潤沢な予算を投入する一方で、すぐには研究成果が出にくい分野への投資を容赦なく削減するようになっている。しかも、研究費や研究機材の「目的外使用」を厳しく制限するようになっている。
 研究費や研究機材の目的外使用を制限する、ということは、税金などから拠出される研究費を「もらう」上では一見当たり前のように考えられる。もちろん、研究費の私的流用などは論外だが、「この機材にはこういう使い方をする」「このテーマの研究はこの実験(のみ)を行う」という固定した概念では、自由な発想、常識を超えた研究成果は生まれないのではないか。著者は、学術の低迷に、この「目的外使用の制限」が与える影響は大きい、と指摘している。
 学問とは、時にムダであり、回り道であり、それまでの常識とは違うアホなことを果てしなく繰り返した先にあるのだ、ということを京大は(少なくともこれまでは)身をもって示してきた。他大学では怒られそうな卒業式のコスプレが許容されてきたのも、その自由は最大限尊重する、という大学からのメッセージだと思う。
 ひたすら効率のよさを求めて(すぐに金になる)成果を求める社会の圧力や、若者のちょっとした失敗も見逃さない世間の風潮は、大学や学生たちから挑戦への意欲を奪い、学問の間口を狭めている。京大的アホの存在を許容できるかどうか。日本の学術的研究の可能性は、社会の学問・研究の自由に対する寛容度にも左右されるのではないかと感じる。

(編集部 湯原葉子)

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