文章化したら炎上した「村」のルール
『村の社会学/日本の伝統的な人づきあいに学ぶ』(鳥越皓之著、ちくま新書)は、日本の「村」に蓄積され、文字化されずに伝承されてきた、生きるための知恵に注目する。本書でいう「村」とは行政単位である地方自治体の村ではなく、江戸時代から続くような「集落」であり「村落」や「むら」「ムラ」などと表記される、地元意識の強い地域のことを示している。「村」での独特の人づきあいというと、閉鎖的で前近代的とみなす見方も多い。都会の人が嫌がる、草刈りなどの共同的労働や、しきたりや作法という名の「ローカル・ルール」がなぜ現在にもあるのか。日本のあちこちの農漁村で伝統的に使われてきた「つとめ」「炊き出し」はなぜ必要とされてきたかの経緯を語る。
現代、過疎化が進んで伝統的なコミュニティの存続が危ぶまれている農山漁村の地域もあれば、いくつかの自治会(町会)をまとめ行政のテコ入れにより小学校単位での地域組織の強化をしている都市部の地域もある。都市部の住人にとっても、「村」(集落)的なコミュニティは、地域生活をつつがなく送っていくための「生活組織」として重要な要素であることが多い。
「村」のルールは文章化されていないことが多いが、文章化されていなくても村人の頭の中にそのルールは記憶されている。「村」のリーダーとなる人物は、そのルールの中で「スジを通すことと」と、それだけではうまくいかない「ホンネ」との間でうまく折り合いをつけられるかが重要だ、と著者は指摘する。
先日、「都会風を吹かすな」といった内容を含む、移住者への「7か条」を広報紙で公表して物議を醸した「村」社会もある。「そんなルールがあるとは聞いていない」と、移住してから地域で揉めるよりは、事前に文章化して知らせた方が親切だと判断した結果なのかもしれないが、それはそれで無用な軋轢を生むこともある。本書でいうところのスジと本音の中間での落とし所が重要、ということがわかる興味深い事例である。
地球環境汚染への対策と同様に、インターネット上の情報も、不確かな情報が大量に氾濫する「情報の環境問題」への対策が急がれる。そう警告するのが、『ディープフェイクの衝撃/AI技術がもたらす破壊と創造』(笹原和俊著、PHP新書)である。
ディープフェイクとは、「高度なAI技術を用いて合成された、本物と見分けがつかないほどリアルな画像、音声、映画」のことである。ディープフェイクの悪用が大きな問題になったのは、2018年、ポルノビデオの顔を有名人の顔などとすげかえた「偽ポルノビデオ」が多数投稿されたことがきっかけだった。
メディアで動画や音声を公開されることが多い政治家や起業家、芸能人など、合成音声、合成動画を作成するためのディープボイスを作られやすく、実際に合成音声や合成動画を用いた詐欺事件も多発している。顔認証による本人確認を「ハッキング」される事例など、一般の人にとっても脅威になりつつある。関連企業は、技術開発を急ぎこうした詐欺に対抗しようとしているが、なりすましによる詐欺を完全に防ぐことは難しいという。ディープフェイクが悪意のもとに使用されることで、ポルノ、ネットいじめ、詐欺、政治的誤報、事実の歪曲、印象操作など、様々な社会問題が既に生じている。
本書では、ディープフェイクに使われる技術を中心として、関連する技術の歴史や仕組みを紹介する。本物とディープフェイクの見分け方も指南しているが、よりリアルで精細で、人間の目には見分けのつかないディープフェイクが出てくるのも時間の問題だ、という。人間では真贋を見抜くことも難しい情報が氾濫する「情報環境」の信頼度を取り戻すことはできるのか。ディープフェイクの危険を回避しつつ、アートなどその恩恵を享受するためにはどうすればよいかを検討する。
2022年3月には、「偽ゼレンスキー大統領」が、ウクライナ国民に向け「降伏」を呼びかける動画が公開されたがすぐに偽物と見破られた。この事件はディープフェイクが戦争に用いられた最初の例だが、見事に火消しした例でもある、と著者は指摘する。ウクライナ政府はこうした動画をロシアが作成している可能性を想定していたという。
今後、より精度の高いディープフェイクが登場することは十分考えられる。ディープフェイクの存在は避けられないものとして、フェイクによる撹乱が起きても、短時間で回復できるような「レジリエント」(柔軟な、適応力のある)な情報生態系をめざすべき、とうったえる。
2021年夏の東京オリンピック・パラリンピックの開会式の楽曲制作を担当していた小山田圭吾氏は、その発表直後に、過去の雑誌記事に掲載された学生時代の「障害者いじめ」問題がSNSで炎上し、数日で楽曲制作担当の辞任を余儀なくされた。
『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか/現代の災い「インフォデミック」を考える』(片岡大右著、集英社新書)の著者は、この騒動の検証を精力的に進めてきたブロガーの記事や多くの関係者の証言をもとに、当初発表された雑誌記事には事実誤認が多く含まれていたことを検証している。
「障害がある同級生への壮絶ないじめを武勇伝のように語っていた」かのように、発言の一部を誇張して歪曲された露悪的な雑誌の記事はどのような編集意図で掲載されたのか。それが何年も後にどのように拡散され、2021年夏に大騒動を起こしたのか。誤情報・偽情報が感染症のように拡散する「インフォデミック」という「災い」を考える。
現在この件ではファクトチェックも行われ、小山田圭吾氏について検索すると、「彼の過ち」とそれ以外が区別され整理されている。
2021年夏に「大炎上のきっかけ」となったあるツイートによると、小山田圭吾氏という人物に興味を持って検索した結果、過去にも匿名掲示板で話題となっていた「いじめ記事」に辿り着き、「2分で」最悪の人物像を信じ込まされるような状況になっていたという。ウェブ空間における誤情報・偽情報の修正についての議論の必要性をうったえる。
『データ思考入門』(荻原和樹著、講談社現代新書)では、現代社会で「データに強くなる」ために必須である、「データ可視化」の基礎的な内容を、専門知識がなくても理解できるように解説している。データを正しく読めること、効率的に、効果的に情報を伝えるために適切に「可視化」するための基本的な考え方を教えている。
世間でよく見る各種のグラフには、データの軸を不適切に省略したり、自説に都合が良い部分だけ切り取るなどして、受け手の印象を操作してしまうケースも多いという。データ可視化の基礎的な知識がなく、意図的でなくてもこうした操作を行なってしまうと、相手を誤解させたり、周囲からの信頼を大きく損なうことにもなる。漫然と作成したグラフと、データの意味や構造を踏まえ、工夫して作成したグラフではその価値が天と地も違ってくる、と指摘する。日々目にするデータの意味を知り、グラフによる誇張や印象操作に惑わされないためにも、データ思考の基礎を知っておきたい。
また、データ可視化は、使い方を誤ると差別や偏見を助長するという危険な面もあるという。実際の炎上事例などをもとに、差別や偏見を生まないためのデータ可視化の作り方についても解説している。業務でデータ可視化を行う人はこうした視点にも留意すべきだと忠告している。
やる気スイッチを入れるのは「脳」
仕事でも、勉強でも、スポーツでも、常に「モチベーション」を高く維持できる人ばかりではない。自分だけでなく、子供や部下など身近な他人に対しても、モチベーションをどうやって上げるか、モチベーションを下げずに、「やる気」を起こさせるにはどうしたらよいか、悩む人は少なくないだろう。
『モチベーション脳/「やる気」が起きるメカニズム』(大黒達也著、NHK出版新書)では、脳の仕組みと、モチベーション、つまり「やる気」がどうつながっているか、最新の学説をもとに解説する。意欲がない(ように見える)人は、「やる気がない」「能力が低い」と思われがちだが、実験によるとそうではないということがわかったという。
運動(行動)開始の前には、「動くぞ!」と思う「意識的な運動意図」があるが、脳内の活動を見てみると、この「意識的な運動意図」の前から、脳では「無意識的に」行動を起こす準備が始まっているのだという。つまり、やる気があるから行動できるのではなく、脳が「やる気スイッチ」(「意識的な運動意図」)を入れたために、やる気を「実感」して行動できる、ということがわかってきているのだという。モチベーションに関する脳の仕組みから、無意識的なモチベーションを上げ、維持する方法についての理論を知った上で、自分なりのやり方を見つけるのが一番だと指南する。
最新の疫学データによると、「心の病」に一生涯のうちに一度でもかかる確率は80%だという。『「心の病」の脳科学/なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』(林(高木)朗子著・編集 ; 加藤忠史著・編集、ブルーバックス)では、脳科学の最新の知見をもとに、「心の病」がどうして生じるのか、どこまで研究が進んでいるのかを解説している。最新の脳科学で、新たな発見があるが、脳の仕組みはまだ完全な解明までは程遠い。複雑で緻密な人間の脳だからこそ、わからないことが山ほどあり、その機能の不具合が「心の病」となって現れてくる。脳の変化によって、「心」にどのような影響が出るのか、遺伝精神疾患研究の最前線も紹介する。
PTSD治療の研究で、古い恐怖記憶のフラッシュバックを防止するのに(恐怖記憶を忘れさせる)、認知症にも効果がある薬を使った臨床試験が進められているという。物忘れの症状がある認知症を遅らせる作用と、PTSDによる恐怖記憶の忘却を促進するという治療は正反対にも思えるが、作用する脳の場所は共通しているのかもしれない。メカニズムはまだ良くはわかっていないが有効性が期待されているという。
小学校での英語教育が始まり、早期英語教育への関心が高まっている。世の風潮は、「英語教育は早く始めた方がいい」「読み書きだけではなく、会話練習も重要」というものだが、『早期教育に惑わされない!/子どものサバイバル英語勉強術』(関 正生著、NHK出版新書)の主張はそうした風潮とは少し異なる。小学校のうちからやるべきことだけでなく、他のことを犠牲にしてまで「やる必要がないこと」を中心に伝えていく。
著者はオンライン予備校「スタディサプリ」で英語を教える、人気講師。小学生向けから大人向けまで英語教材の著書も多数である。その著者が、早期英語教育について語る著書で、「常に「英語以外」のことも念頭に置くべき」と主張している点が興味深い。大人の多くが、英語は「できた方がいい」と考えてしまうが、英語学習ばかりに注力することによって失われるものは必ずある。
小学生までは「英語嫌いにさせない」ことが重要だが、だからと言って「歌やロールプレイ」で遊ばせていればよいというわけではない。昨今流行りの「読む、聞く、話す、書く」のいわゆる「4技能」について、すべてを「バランスよく学習」するのは効率が悪いので、まずは「読む」に注力することが重要という。「リーディングがすべての基本。読めないものは書けないし、聞けない。」「土台がしっかりしていればスピーキングは大学に入ってからの練習で十分」だという。
「受験英語は(ビジネスなど実践の場では)役立たない」という人も多いが、高校までの内容が無駄なのではなく、「量が足りていない」「効率が悪い」ことがほとんどだという。大人の英語学習者も参考にしたい内容だ。
ウクライナ「以外」にも目を向けるべき理由
ロシアがウクライナに侵攻してから1年が経過した。『ウクライナ戦争をどう終わらせるか/「和平調停」の限界と可能性』(東 大作著、岩波新書)は、ウクライナ戦争終結への課題を探りつつ、ウクライナ戦争勃発により、大きく変化してしまった世界状況で、日本が果たすべき役割を模索していく。著者はNHK出身の研究者で、これまでベトナム、アフガン、イラク、シリアなど、大国から軍事侵攻をされた側の調査や取材経験があり、平和構築への実務にも携わってきたという。2022年夏には、サウジアラビア、トルコ、モルドバで現地調査も行っている。
本書では、ウクライナ侵攻終結への道のりを、これまでの戦争がどう終わってきたかを振り返り、国連に期待される和平調停・仲介への動きがどうなっているかを解説する。一方で、欧米の圧倒的関心と外交資源がウクライナのみに費やされている今、パキスタンの大洪水で家を失った人々への支援や、東アフリカや中東で起きている干ばつ被害を受けた人々への食糧支援といった人道支援も、極めて難しくなっている現状を報告する。日本は、中東やアフリカなど第三世界で起きているグローバルな課題の解決のために、主体的な役割を果たすべきではないか、としている。著者が「グローバル・ファシリテーター」(世界的対話の促進者)と呼ぶ、日本の役割を提言する。
安倍元首相銃撃事件を機に、旧統一教会の政治への影響が急遽浮上してきた。『新宗教 戦後政争史』(島田裕巳著、朝日新書)では、宗教と政治の関わりを考察する上で、とりわけ日本では大きな存在である、新宗教と政治の関係について着目している。近代以降出現し、拡大してきた種々の新宗教は、その出現と拡大には、日本社会のあり方が反映されている。特に、天皇や天皇制とのかかわりは大きいが、戦前と戦後でそのあり方は大きく変化した。敗戦により天皇が「神の座を下りた」からである。戦後、国家神道体制は否定され、政教分離の原則が確立された。日本人は、象徴天皇制を受け入れたが、新たな「神」を必要としていた。そのため、新宗教が活発に活動を展開する余地が生まれた、と著者は指摘する。
旧統一教の実態と、政治にいかに入り込んでいったか、そのルーツから振り返る。現代日本で宗教分離、政治と宗教を語る上で外せない、創価学会の実態も詳しく見ていく。今後、新宗教と政治との関係を解決していく上でも、日本人が新宗教に何を求めてきたかを知り、新宗教はなぜ政治に関わるのかの理由を改めて知っておく必要がある、としている。
『占領期カラー写真を読む/オキュパイド・ジャパンの色』(佐藤洋一著 ; 衣川太一著、岩波新書)では、1945年から1952年、日本にやってきた占領政策関係のアメリカ人が撮影したカラー写真を、歴史的観点に加え、写真技術史的観点、メディア史的な観点などさまざまな角度から分析して紹介する。これらの多くは、アメリカの大学図書館などがデジタル化するなどして近年になってインターネットで公開、あるいは本書で掲載された写真の多くの入手先であるインターネットオークションに出されるようになったものである。
占領期に撮影された写真は、オフィシャル写真、メディアで占領関係者が私的に撮影したものも多く含まれており、その色の鮮やかさだけでなく、新聞雑誌などで公表された報道写真とは異なる「視点」に驚かされる。
教科書や資料などで私たちが目にしてきた占領期日本の写真は、マッカーサーと昭和天皇の有名な「ツーショット」を筆頭に、「白黒」のものがほとんどで、当時カラー写真は「高価で貴重」でほとんど存在しないものだと思っていた。しかし、既にこの時期のアメリカ人は、戦後すぐ本国から持ち込んだものや、その後日本国内で調達が可能になったカメラや資材を潤沢に使用し、大量のカラー写真を撮影していたことが、日常風景を含め気軽に撮影されていたことからわかる。「戦勝国」と「敗戦国」の間にある、物量・文化的ともに圧倒的な格差を何よりも物語る。
本書掲載のカラー写真には、カラースライドとして保管されていたものも含まれる。ガラス板に挟んで保管する習慣があったスライドは、70年後の今でも褪色や劣化がほとんど見られず、美しい状態を保つことができているという。マウントにも撮影者・撮影場所のメモが残されるなど、研究資料として価値が高いものもある。しかし、本書で紹介されたようなスライド写真は、芸術作品(写真美術館などに保存される)と歴史資料の谷間のような扱いであり、劣化しないように適切に保管できる収蔵期間は現在のところ日本には存在しない、という。歴史資料としてカラー写真・カラースライドをどのように保存・継承していくか、これからの課題であるとしている。
(編集部 湯原葉子)
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