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世界のサッカーを見続けて35年 ワールドカップの生き証人たちが語る 世界のサッカーを見続けて35年 ワールドカップの生き証人たちが語る(2)
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4. 情報源は外電のみ、映像なんて全くない
5. W杯は「警戒厳重」!! スタジアムの前に整列した戦車
6. 日本人のファンが増えた'90年イタリア大会
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情報源は外電のみ、映像なんて全くない
■司会
 今と違って、情報の少ない時代には、事前の準備にもそれなりの苦心があったのではないですか。
■荒井
 74年大会の時は、サッカー専門誌の情報が中心でしたね。映像がないんだから。だからこそ、ワールドカップがサッカーの見本市だったわけです。
■牛木
 映像情報は本当に少ない時代でね。新聞社も情報はまず外電でしたね。朝日はロイターとAP。読売はAPとフランスのAFP。毎日はUPIとAFPでしたか。
■荒井
 UPIもAPもサッカーが少ない。ロイターは英国だからサッカー情報が一番多い。
■牛木
 山ほど来る外電の中から、スポーツに関するものだけ運動部に来るので、そこから参考になりそうなものを集めておくんです。発表の場がないから、サッカー専門誌に載せるんですね。横のもの(英語)を縦(日本語)にして発表する。(笑)
■中条
 1962年チリ大会のころも、外電のサッカー情報はほんとうに多かった。ワールドカップ前には、またどんどん増えるんだけど、使うところがない。結局どこにも載らないから誰も知らない。たとえば、66年の視察団が、西ドイツとイングランドの試合を見ていたら、反則か何かでゲームが途切れたとき、ベンチから小柄な男が飛び出した。
「あれっ、クラマーさんだ!」って(笑)。日本からドイツに帰ったあと、彼は西ドイツチームのコーチをしていたので不思議はないんだけど、情報がないからその程度だったんですね。
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W杯は「警戒厳重」!! スタジアムの前に整列した戦車
■司会
ベルリン・オリンピックスタジアム
 最初に伺いました74年西ドイツ大会で、牛木さんは律儀な運営面に触れられましたが・・・。
■牛木
 その前、1970年のメキシコ大会は運営も結構良かった。たとえばメディアのバスはオレンジ色で、分かりやすい。しかも2台待っていて、一台が満員になると予定通りでなくとも発車する。もう一台が時間通りに動き出すという具合。ところが西ドイツ大会では、満員になっても予定時刻にならないと車を出さない。怒り出した人もいてね。
■中条
 ドイツ人は、決め事をきちんと守るんだね。満員スシ詰めでも、なかなか動き出さなかった。駐車場でも、そこいらに勝手に止めさせてくれない。きちんと奥のほうから誘導していく。整理能力があるのかな。融通はきかないけど。
■司会
 1974年大会のプレー面での印象はどうですか。
■中条
 西ドイツの初戦、ベルリンでの試合で、ポウル・ブライトナーがロングシュートを決めて1対0でチリに勝った。翌日のビルト紙なんて一面に大きな赤字の見出しで「ダンケ・シェーン、ポウル!」ですよ。印象深いですね。
■荒井
 大会前、多くの人が地元のドイツに目を向けていて、「ネッツアーか、オヴェラートか」って話題になっていたけど、事前の情報をあれこれ見ていると、どうもネッツアーはないな、ドイツはオヴェラートでくるな、という気がして記事にも書きました。でも、私はなんとなくオランダに注目したんです。1970年大会はビデオで見たけど、のんびりとした印象がある。しかし、74年のオランダのトータルフットボールは、とにかくエポックメーキングだった。
■牛木
 荒井さんのいうとおり、メキシコは高地だったこともあって、プレーものんびりとしていた。西ドイツ大会は、もっとガチガチとした感じで、そこにトータルフットボールが登場した。ポジションチェンジの激しい動きで、プレッシングをかける。ボールを囲い込む。
■荒井
 あのオランダのトータルフットボールが、サッカーを変えて、今につながっていると思いますね。特にクライフですよ。2次リーグの東ドイツ戦で、クライフがスパイクを換えるため一度外に出た。そしたら東ドイツのマーク相手が、タッチラインで、ずっと立って待ってるんだもの。
■中条
 そうそう、雨だったからポイントの長いスパイクに換えたんだね。決勝戦でも、西ドイツのフォクツがクライフを密着マークした。現地の新聞には、「フォクツは、トイレまでもクライフを追いかけていっただろう」と書いてあった。(笑)でもトータルフットボールは、クライフがいたからこそできたのかもしれない。
■荒井
 78年のアルゼンチン大会にクライフは出場せず、オランダはヨニー・レップたちが中心になり、やはり74年とは変わっていた。74年のときは、このままいくと、いつかディフェンダーやフォワードやミッドフィールダーというポジションがなくなるのでは・・・と思っていたけど、いまだにそこまでは行っていませんね。私は今でも、74年のオランダを引きずっています。
■中条
 74年の決勝を「たいしたことない」という人もいるけど、ぼくは印象に残っている。それに74年の東西ドイツ対決ね。一回しか出ていない東ドイツがよりによって西ドイツとぶつかった。何度も出ているのにドイツとブラジルは、なかなか当たらないのに。イングランドとアルゼンチンもよく対戦するね。組み合わせの妙というか。
■牛木
 ヨーロッパの人はオランダのプレースタイルを知っていただろうけど、我々は現地へ行って初めて見たんです。アヤックスとかフェイエノールトとか、もちろん外電を通じて知っている。でも映像ではない。今と違ってテレビ放映がないからね。
■荒井
 南米の人も知らなかったと思いますよ。それに、74年、78年の大会で現地へ行って驚いたのは警備ですね。86年のメキシコもそうですが。
■中条
 銃を持った国境警備兵がいたね。
■牛木
 74年のベルリンの競技場には戦車があったよ。競技場を背景に戦車を前に入れた写真を撮ろうとして、尋問された。あの写真さがしても出てこないんだよねえ。(笑)
■荒井
 ドイツのスタジアムにはシェパードがいたのを覚えています。
■中条
「警戒厳重」はワールドカップのキーワードです。(笑)火薬犬もいるし、セキュリティ対策はいつも万全ですね。でも、戦車はおどしだね。
■一同
 そうですね。
■荒井
 アルゼンチンの競技場は、金網と堀ね。
■中条
 あの堀を乗り越えて乱入してくるのがいるから不思議ですね。(笑)警備が厳しいと、係りの顔見知りのおまわりさんにも、いちいちカードを提示しなくてはならなかった。
■荒井
 いちばん警戒したのは90年大会のフーリガンじゃなかったですかね。常に別にされていてね。
■司会
 フーリガンは、警備の人の言うことを聞くんですか。
■荒井
 聞かないけど・・・それでもね。(笑)
■牛木
 サッカーのために弁護すれば、1972年のミュンヘンオリンピックでテロがあり、その2年後にワールドカップだったから、警戒がことさら厳重だった。でもゲリラもサッカーが好きだから、大会期間中は何も起きないという説もあった。アルゼンチンのときは、ゲリラが休戦宣言をした。サッカーのほうが大事なんだね。(笑)
■中条
 アルゼンチンは、軍事政権でね。大会前にプレスセンター前で爆発なんてニュースがはいってきて、こりゃ危ないかなあ、なんて話してた。でも大会になるとピタッとやんだね。あるパーティで、当時の大統領が来ていて、ぼくはサインをもらったよ。のちに彼は牢屋にいれられたらしい・・。(笑)
■荒井
 74年のドイツも地元は喜んだけど、78年のアルゼンチンもすごかったですね。
■牛木
 アルゼンチンの人は、お酒飲まなくても騒げるんだね。(笑)
■中条
 町中でタンゴ踊りだしたりね。楽しいね。
■牛木
 79年の東京でのワールドユース大会にアルゼンチン監督のメノッティが来たとき聞いたんだけど、78年に優勝した夜、FIFAのパーティを終えて、監督と選手が普段着に着替えて町中にくりだした。でも誰も気づかないんだって。喜んで騒ぐのに夢中なんだね。
■荒井
 ドイツのときは、パレードの通る家の窓から顔出して、みんな手になにかもって振っていましたね。
■中条
 整然と騒いでいた!(笑)
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日本人のファンが増えた'90年イタリア大会
■司会
司会の明石真和さん
 今は、日本から報道陣だけでなくファンも押し寄せる時代になりました。みなさんが取材をつづけてこられて、日本人が目立つようになったのはいつの大会からでしょうか。
■荒井
 1990年イタリアですね!会社辞めても見に行くっていう人がいました。バブルでね。景気がいいから、会社辞めても、また別の会社に入ればいいという感じでしたね。
■中条
 今でも95%のファンは、日本!日本!って騒ぐけど、残りの5%はサッカーワールドカップを見に行くんですね。そういう連中がいる。例年レアル・マドリードを見に行っても、必ず日本人がいる。男性も女性もいる。インターナショナルにサッカーが好きなんだね。暴力のないフーリガンみたいなもんだ。(笑)そういうファンが出てきたのが、1990年大会かもしれないなあ。
■荒井
 ツアーもありましたしね。
■牛木
 やはり1990年かな。行ってみたら日本人が多かった。1966年は「技術研修団」だったのに。(笑)
■荒井
 イタリア大会に来ていた日本人ファンは、「ダイヤモンド・サッカー」世代が、海外へ旅行できるようになった時代なのかもしれませんね。
■牛木
 なるほど、そうかもしれないなあ。
■中条
 テレビ番組として放映された三菱ダイヤモンドサッカー(東京12チャンネル=当時)についていえば、そのきっかけは、明治時代の外務大臣陸奥宗光さんのお孫さん(陸奥陽之助氏)が、英国からフィルムを入手して、使えないかって聞かれたので、三菱化成の社長だった篠島秀雄さん(東京帝国大学サッカー部主将として活躍)に相談して買ってもらった。あの番組は世界のサッカーを日本に広めたという点で隠れた功績だね。あれで目覚めた若者は多いよ。
■牛木
 影響大きかったね。ぼくも中条さんに呼ばれて、いっしょに陸奥さんのところでフィルム見せてもらった。そしたら、ちょうど1年前のもので、ゴールキーパーのファイブステップスルールが変わったあとだった。これじゃ規則が変わっているからダメですよ、っていったら、陸奥さんが「もう買っちゃったから、いいよ・・・」って。(笑)
■中条
 あの番組は、最初ぼくが解説で出ていたんだよ。海外へ行くとき「サッカーの中条さんですね」と声をかけられたこともある。当時デスクだったから、新聞社の仕事との都合がつかなくなって、それで岡野(俊一郎)に譲ったんだよ。
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  新書マップ参考テーマ

デットマール・クラマー(Dettmar Cramer)

「日本近代サッカーの父」。
1925年、ドイツ・ドルトムント出身。元サッカー選手。ドイツ国内の複数のクラブでプレーした後、コーチ業への道に進む。1960年、日本サッカー協会の依頼により、東京オリンピックを控えた日本代表の指導のために来日。基本練習を徹底的に教え込み、釜本邦茂や杉山隆一らを育てる。東京オリンピックでのベスト8、メキシコオリンピック銅メダル獲得の基礎を築いた。1967年から1974年まで、FIFA公認のコーチとして世界各地でサッカーの指導にあたる。その後もバイエルン・ミュンヘンなど、監督としていくつかのクラブチームを率い、監督引退後は指導者の育成を行なっている。2005年、日本サッカー協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」第1回受賞者になる。

トータルフットボール

1974年サッカーW杯でオランダ代表が用いた戦術の俗称。個々の選手が思いのままにポジションチェンジを繰り返す。現代サッカーに多大な影響を与えた。

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