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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
世界のサッカーを見続けて35年 ワールドカップの生き証人たちが語る
 日本でワールドカップなど見向きもされなかったころから世界各地の大会を訪れ、取材にあたったジャーナリストたちがいた。30年以上前から記者として“世界”を見てきた中条一雄、牛木素吉郎、荒井義行の3氏にワールドカップの歴史的現場について語ってもらった。(敬称、一部略)=司会・まとめは明石真和氏、本誌編集部=
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1. とにかく行きたいW杯!! たとえ自費でも、出世がなくても
2. スポーツ取材は、野球が主役、サッカーは脇役の時代
3. 記者章があればどの試合でも見られた
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とにかく行きたいW杯!! たとえ自費でも、出世がなくても
■司会
 日本のサッカージャーナリズムの草分け的存在であられる3人の皆様にお越しいただきました。ドイツワールドカップを間近にひかえて、雰囲気もだいぶ盛り上がってきております。この機会に、過去のワールドカップを現場で取材なさってきて感じられたことや、ご意見などお聞かせ願えればと思います。ドイツでの開催は1974年以来になります。32年前の大会のご感想からお聞かせください。
■中条
中条一雄さん
 あの時は、まだ東西冷戦のさなかだったから、西ドイツでの開催だったね。ぼくは1954年スイス大会で西ドイツが優勝して、戦争で負けたドイツ国民に好影響を与えたというのを聞いていたけど、半信半疑だった。それが1974年に優勝した西ドイツを実際に見て、ほんとうに納得したね。
■牛木
 ぼくは運営面にも注目していました。70年メキシコと比べ、ドイツ人らしく非常に律儀だ、という印象がある。
■荒井
 牛木さんは70年のメキシコ大会も取材されたけど、私は74年が初めてだった。この時はなぜかピンときて、オランダを追いかけていたら、期待以上の大活躍だったなあ。(準優勝だった)
■司会
 当時、ワールドカップを取材する状況はどうだったのでしょう。今年の大会では、日本からもたくさんの報道陣がドイツに押しかけると思われますが・・・。
■牛木
 1964年の東京オリンピックを前にドイツからクラマーさんが来て、世界のサッカー状況を伝えてくれました。ワールドカップでいえば、1966年のイングランド大会を、日本代表が欧州遠征の帰りに観戦していますね。
■中条
 そうそう、あのころ毎年のように、若い長沼健監督、岡野俊一郎コーチに率いられた日本代表が欧州遠征していたからね(後に長沼、岡野両氏は、ともに日本サッカー協会会長になった)。
■牛木
牛木素吉郎さん
 その1966年大会に、日本代表だけでなくワールドカップ視察団が出かけたんです。当時は外貨割り当てがあったので、事前に通知しておかなくてはならなかった。各地のサッカー関係者に連絡して、視察団を組織した。そのなかに中国新聞の河面道三さんという方がいました。ですから記者として出かけたわけではなかったのですが、現地を見て報道したという意味では、河面さんの報道が最初じゃないかなあ。
■中条
 河面君は、旧制広島高校でぼくの後輩だよ。インターハイの決勝で、ぼくがロングシュートをボンッって打ったらバーに当たって、それを彼が押し込んで優勝したんだ!その彼が1966年ワールドカップに行ったので「いいなあ・・・!」ってうらやましかったね。(笑)
■司会
 ワールドカップを取材されたのは、(日本が銅メダルをとった)68年メキシコオリンピックの影響がありますか。
■牛木
 それはないと思う。66年に行けなかったので、70年のメキシコは行くぞって。ぼくだけじゃなくて、みんなそう思ってたんじゃないのかなあ。(笑)1970年大会に、初めて日本から記者登録をして出かけたわけです。
■司会
 いろいろご苦労もあったと思いますが。
■牛木
 どうしても行きたかった。でも会社ではまだ若手だったから、部長は「行かせない」と。そこで朝日や共同通信をけしかけたんですよ。で、休暇をとって行ったんです。読売の私と、朝日の大谷四郎さん、共同通信の鈴木武士君、日刊スポーツの谷口博志君、それにサッカーマガジンの堀内征一君の5人ですね。それに岸本健君かな。彼は記者じゃなくて大会組織員会のカメラマンだった。
■司会
1974年W杯前に西ドイツ代表が吹き込んだレコード『サッカーは我らが命』
 その4年後の1974年西ドイツ大会は、みなさん方がそろって特派員として取材されたんですね。
■荒井
 いや、特派員じゃないですよ。みんな自費参加です。
■牛木
 そう、1970年のときもそうだけど。
■中条
 ぼくは特派員!会社丸抱えだったから、大名旅行だった。(笑)
■荒井
 うち(毎日新聞社)は82年まで特派なしだった。すべて自費でしたね。
■牛木
 ぼくが読売で特派員になったのは86年大会からだったかな。もうこっちも古株だしね。
■司会
 みなさんのような大手の新聞社でもそうだったんですか。
■中条
 そう、朝日だって二度つづけて特派員になるのは大変なこと。だからワールドカップは、出世をあきらめて行くんだよ。(笑)4年間は周囲を説得する期間だった。
■荒井
 私はちょっと違って、行けることは行けるんだけど、とにかくお金は出ない。
■中条
 出世は?(笑)
■司会
 もし荒井さんが行かなかったら、どうなりましたか。
■荒井
荒井義行さん
 私は、「絶対行かせてくれ!」って言ってました!(笑)我々のころは各社にサッカー記者がひとりかふたりの時代です。毎日の場合は、岩谷俊夫さんが亡くなって、私が社会部から回されたんです。
■牛木
 今ではヨーロッパにサッカー記者が常駐している時代ですからね。
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スポーツ取材は、野球が主役、サッカーは脇役の時代
■司会
 サッカージャーナリズムという点からいえば、銅メダルをとったメキシコオリンピックが大きいと思うのですが。
■荒井
 オリンピックは、必ずしもサッカー専門家が取材するわけじゃないからね。
■牛木
 そう、社会的な関心が高いし、サッカーだけじゃないから。
■中条
 オリンピックは本社からの原稿の注文が多いんだ。2、3人しか取材者がいないのにあらゆるスポーツをカバーしなくてはならない。目が回る忙しさだ。サッカー専門記者は、(銅メダルの試合を)見ていないんじゃないかな。
■牛木
 読売もメキシコオリンピックは、サッカー専門記者ではなかったですね。
■荒井
 あと、当時は野球ね。昼サッカー、夜ナイターのプロ野球っていうのがかなりありましたね。
■牛木
 ぼくもプロ野球は、よく見ましたよ。
■中条
 そりゃ、ジャイアンツだから!(笑)
■牛木
 スコアブックもって、キャンプから取材しましたね。都市対抗も入れて年間170試合くらい見たことがある。
■中条
 ぼくは駒沢球場の東映フライヤーズ専門でね。時たま後楽園に手伝いに行かされるとウナ丼が出たりする。「こっちは、(待遇が)いいなあ!」って。野球以外にも力道山対木村政彦や、ボクシングの白井義男も見たな。古いのバレちゃうね・・・。(笑)
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記者章があればどの試合でも見られた
■司会
 お聞きしてますと、サッカーがマイナーな時代に、苦労して周囲を説得し、現地へ出かけられたわけですが、記者章があれば、どんな試合でも見られたんですか。
■荒井
 どこでも行けました。
■牛木
 制限はなかったよね。
■荒井
 74年の西ドイツのときは鉄道も半額になりました。
■中条
 でも、今年はタダだって。
■荒井
 ドイツはそこまでやるんですよ。
■牛木
 ぼくは飛行機を手配していたけど、鉄道が半額と分かってキャンセルしましたね。
■中条
 西ベルリンだけは、「陸の孤島」だったから飛行機を使ったなあ。
■司会
 何試合くらい見たんですか。
■荒井
 できるだけ多く見ますね。(笑)本大会参加国が32になってからは20試合くらい、いやもっとだな。
■牛木
 4年前の日韓大会で言うと、スケジュールを調整すれば最大限24試合見られたんです。ぼくは都合で2試合見られなかったから22試合でしたね。2試合のうちのひとつは3位決定戦でした。だいたい3位決定戦はあまり面白くないというのが定番で、しかも韓国での試合だったから・・・。
■中条
 3位決定戦はおもしろいよね!
■荒井
 おもしろくないですよ!(笑)
■中条
 日韓大会のはおもしろかったよ。
■牛木
 韓国対トルコを、史上最高の3位決定戦という人もいますね。
■荒井
 でも3位決定戦はパス・・もありですよね。
■牛木
 そうだね。
■中条
 年取ってくると、はしょる試合も出てくるね。申請方法も変わってきた。プレスのカードがあっても、試合を見るのは別にチケットが必要で1試合ずつ申請しなければならない。希望者をコンピュータで抽選し、選ばれた者しか見れなくなった。
■牛木
 74年大会のころは、記者章が取れればどの試合でも見られた。98年フランス大会から、グループリーグの試合でも、試合ごとに申請するようになった。
■荒井
 優先順位がありますよね。
■牛木
 国際通信社、試合当事国の新聞社とメディア、同じグループリーグの試合・・・といった具合ですね。フランス大会はひどかった。AFP(フランスの通信社)が仕切ったので、各国の全国紙とローカル紙の区別がつかなかったり・・・。
■荒井
 イタリア大会もひどかったですよ。コンピュータが出始めたばかりで混乱して、最後は手作業でやってましたね。大会が進むにつれ、手際がよくなっていったけど。
■中条
 訳の分からない雑誌などの取材者がふえてきたんだね。今じゃ、記者章があっても、競争が激しくてお目当ての試合を見られない時代になった。
■牛木
 以前は、自分の国が負けると、報道陣もみんな帰ってしまったから、大会終盤には記者は最初の半分くらいになった。でも、今はテレビ放映があって、国の人がずっと見てるから、記者たちも取材をつづけるため、帰国できなくなった。
■司会
 みなさんでも、チケットが入手できなくて一般席でごらんになることもあるのですか。
■牛木
 ダフ屋を利用した記者もいるよね!(笑)
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PROFILE

中条 一雄

1926年生まれ。朝日新聞記者(1953年ー86年)。早稲田大学人間科学部講師(87年ー96年)。現在フリーランス・スポーツライター。サッカーワールドカップを74年大会から2002年大会まで8回取材。
主な著作:
『サッカーこそ我が命/ワールドカップを楽しむ旅』
(朝日新聞社)
『たかがスポーツ』
(朝日新聞社)
他、多数
サッカーこそ我が命/ワールドカップを楽しむ旅
PROFILE

牛木 素吉郎

1932年生まれ。元読売新聞(東京)運動部記者。ワールドカップを70年メキシコ大会で日本人の記者としてはじめて取材、以後毎回現地で取材。「サッカーマガジン」誌に66年の創刊以来、時評を連載中。現在、ビバ!サッカー研究会主宰。
主な著作:
『ワールドカップのメディア学』
(共編著、大修館書店)
他、多数
ワールドカップのメディア学
PROFILE

荒井 義行

1937年横浜生まれ、早稲田大卒。65年毎日新聞社入社。70年から東京本社運動部、74年西ドイツ大会から連続8回W杯を取材。高校時代、選手権神奈川予選に優勝したが、西関東代表決定戦で韮崎高に敗れ、全国大会に出場できなかったことを根に持ち、後輩の指導にこだわっている。
主な著作:
『なるほどザ・ワールドカップ』
(旬報社)
『サッカー必勝大作戦/50ポイントレッスン』
(あらいりょうじイラスト、草土文化)
他、多数
なるほどザ・ワールドカップ
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。現在駿河台大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。本誌にて、「ドイツとドイツサッカー」を連載(06/04/15最終回)。
「ドイツとドイツサッカー」
 
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