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分校、また夏に挑む
 全国的な猛暑のなか各地で繰り広げられた高校野球の地方大会も終わり、あとは甲子園を迎えるまでになった。過去2年にわたって、本誌では青森県の津軽地方にある"分校"、木造高校深浦校舎の戦いぶりを伝えてきた。かつて記録的な大敗を経験した同校は、生徒数の減少のなかでも新入部員が入り、なんとか今年も大会出場を果たした。結果は初戦敗退だったが、部の存続と合わせて来年へ期待をつなぐことができた。
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1.歴史に残る第80回大会の記録
2.物議を醸した「122対0」
3.野球をつづけることを選んだ深浦ナイン
4.部員が足りない……分校の厳しい現実
 少子化、過疎化により、その存続すら危ぶまれる僻地の学校で、部活動をつづけさらに強化していくのは、常勝の学校が甲子園を目指すのと同様に至難のことである。全国各地にあるこうした野球部の一つである、青森県立木造高校深浦校舎の今年の夏はどうだったのか。また、同じような他の県内の分校はどう戦ったのだろうか。
 その前に、深浦をこれまで取り上げてきた理由と、その背景や部の変遷をおさらいしておきたい。
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歴史に残る第80回大会の記録
青森大会の開会式で整列する選手たち
 夏の高校野球の地方大会は、北海道と東京だけがそれぞれ二つに分かれて行われるほかは、各都道府県単位で行われ、最終的に49の学校が甲子園へのキップを手にする。大会への参加校の数は、1998(平成10)年の第80回大会に史上最多の4102校となり、その後減少傾向にあり、今年は全国で4028校が参加した。
 振り返れば、この98年の大会で、神奈川代表の横浜高校が、現在メジャーリーグで活躍するあの松坂大輔投手を擁して春の選抜大会についで優勝し、史上5校目の春夏連覇を果たした。おまけに松坂は、決勝戦では"ノーヒットノーラン"を達成。さまざまな意味で記録と記憶に残る大会だった。
 この年は、もう一つ別の意味で驚くべき記録が、青森大会で誕生した。それが、「122対0」(7回コールド)という史上最多の点差の試合だった。当時の深浦高校が東奥義塾と対戦し、負けた結果この記録が生まれた。
 深浦高校は、津軽地方のなかでも日本海側に位置するいわゆる僻地の小規模校で、これに対して東奥義塾は甲子園への出場経験もある伝統校の一つだった。当時、東奥義塾野球部は部員38人で投手は5人そろえていた。一方深浦の野球部員は10人で、野球経験者は4人、そのうえ1年生が6人という構成だった。
 この年より数年前から深高野球部の力は県下で最低レベルだった。しかし、深浦も昔から弱かったわけではない。軟式野球部時代には県で優勝するほどの実力があった。そこで硬式へ転換しようという動きが出て、86年硬式野球部が誕生したのだが、皮肉にもこのあたりから生徒数の減少もあって力が低下していった。さらに94年からは指導者が定着せず、部活も形だけになるなかで98年を迎えた。
 そこで、名門の東奥義塾とあたったのだから完敗は明らかだった。東奥義塾は一方的に攻め、その上、格下の相手に対してバントをするといった、よく言えば力をセーブする、悪く言えば、"手を抜く"作戦を一切とらず、全力で深浦をねじ伏せた。こうした力関係のなかでこの記録は生まれた。
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物議を醸した「122対0」
 スポーツ新聞は、一面でこの記事を掲載、全国紙でも大会主催者の朝日新聞は一面で、他社も社会面で報ずるなど、一地方大会の初戦の結果がこれだけ話題になったことは異例中の異例だった。
 この試合をめぐっては、直後からさまざまな議論が交わされた。深浦高校に対しては、「よく最後まで試合を投げずにがんばった」といった賛辞もあれば、「そんなに弱いのなら出る資格がないのでは」といった批判も飛び出した。また、東奥義塾に対しても「相手があれほど弱くても手を抜かず全力でよくやった」とほめる意見もあれば、「なにもあそこまで攻めることはないのでは」といった外部からの批判や「次の試合のことを考えたら力をセーブしておくべきだ」という"身内"からの苦言もあった。
 ほかにも、試合だけから判断して、当事者の事情や地域の背景もわからず、勝手な議論がメディアでもつづいた。野球や教育に多少なりとも関心のある人なら、高校野球のあり方やスポーツにおける勝敗の意味については、それぞれある種の価値観を持っている。深浦対東奥義塾の試合についての反応を見ると、どうしてもこうした価値観が前面に出て、ともすると乱暴な議論となり、どうしてそれほどまでの大差になったのか、その背景には何があったのかといったことへの考察を含めた議論はほとんどなかった。
「一生懸命練習してきた相手に失礼だ」などと、テレビで息巻く芸能人もいた。これとは反対に、この試合の話は、道徳の教材としても使われた。最後まで試合をつづけたところに勝敗を抜きにした「がんばる力」のようなものを生徒たちに考えさせるのが狙いだったようだ。
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野球をつづけることを選んだ深浦ナイン
 どちらも、事実の表層しか見ていないというのが、取材をしたものとしての感想であり、関係者も同じ思いだったろう。弱いけれど彼らも練習はしてきた。しかし、野球にかける熱意がどれほどだったかはわかならい。なにがなんでも必死に相手に食らいついていこうという姿勢が彼らにあったのかといえば、それも疑問だ。
 当事者の選手たちは、こうした外部の反応に恐れや戸惑いを感じた。しかし、そこは地理的にも都市部から離れた地方のまちのいいところで、情報の嵐を間接的に受けるなかでやがて自分たちのペースを取り戻す。そして、あれだけの大敗をし身の程を知った上で彼らはまた野球をつづけることを選んだ。
 まさにどん底だった状態からチームは少しずつ力をつけていった。99年夏の大会では「54対0」のコールド負け、そして2000年には、実力校相手にこれもコールドゲームながら「19対4」という成績を残した。
 その後、校長も指導者も何人かかわりチーム力は一進一退。生徒数は以前からの予想通り減少をつづけ、深浦高校は2007(平成19)年から独立した学校ではなくなり、木造高校深浦校舎という分校になった。他にも生徒数の減少が見込まれるいくつかの高校が同様に分校化されていき、いまもその統廃合計画は進んでいる。
深浦校舎
 文字通り解釈すれば、ただ学校の建物のことを意味する「校舎」という名称については、違和感がある、という声を関係者からずいぶん聞く。言葉に敏感な人なら誰でもそう思うだろう。校舎と学校が意味するものは異なる。夏の大会でも、球場に響く女子高生のアナウンスで「○○校舎の攻撃は……」などという言葉がしっくり来ないのは当然だ。
 建物を示す「校舎」なら、いざというとき「廃止」への抵抗感が少ないという思惑があるのではないかという意見が出てきてもしかたない。全国的にも学校の統廃合は、避けられない問題だが、それを理由に統廃合される側に対しての扱いが他校と公平を欠いたり、生徒たちの権利が損なわれるのであれば、そちらの方が問題だろう。
 深浦のような小規模校で指導する先生たちもまた、規模の大きな学校と比べれば、工場でいう"多能工"のような役割を負っている。また、若い先生が多く、臨時講師の割合は7割にも達する。しかし幸か不幸か、大規模校では若くしてはできないような経験も、生徒一人一人を相手にできる現場だからこそ可能になることも事実だ。
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部員が足りない……分校の厳しい現実
 野球の話に戻ろう。ここ数年、青森県の高校野球は、青森山田と光星学院という二つの私立を軸に、甲子園へのキップが争われてきた。公立勢も健闘するが、いま一歩のところでこの壁を打ち破れていない。その公立のなかでは、校舎化(分校化)された学校も増えてきた。
開会当日、にぎわう青森市営球場
 今大会では、昨年より1校少ない73校が参加したが、分校に限ってみると、西津軽の木造高校深浦校舎をはじめ、下北半島の陸奥湾側に位置する大湊高校川内校舎、同じ下北半島でも津軽海峡に面した田名部高校大畑校舎、そして津軽半島にある青森北高校今別校舎が、昨年同様チームをつくって参加した。
 また、昨年度の平内高校は、今年度から青森東高校平内校舎となって大会にのぞんだ。陸奥湾の沿岸に位置する平内町は、ホタテ漁が盛んで若い漁業関係者も増えて、朝野球も盛んだという話をかつて私は取材したことがあった。その時、この町には津軽三味線の第一人者だった初代の高橋竹山氏が居を構えていたことを知り、ご自宅にお邪魔し、同氏に音楽の話を聞かせてもらうという貴重な体験をした。
 平成22年度末で廃校が決まっている七戸高校八甲田校舎は、昨年まではなんとか部員をそろえて来たが、今回は参加することができなかった。昨年夏が終わった段階で、全校男子が9人という状況で、「なんとかこれでチームを作って」という気持ちも指導者のなかにはあったが、やはり難しかったようだ。


 こうした弱小校のチームは、戦力アップより先にまずは部員の確保をしなくてはならない。深浦は、昨夏の大会が終わり3年生が抜けた段階で、1、2年生合わせて7人となり秋の大会は出場をあきらめた。
 今年度の新入生も定員を割り現在生徒数は69人。しかし、野球部に限っていえば5人が入部、これで総勢12人となり態勢を整えた。
 新入部員のなかには、深浦に入学した理由として、「去年の夏の試合を見ていて、結構強かったのでここ(深浦)でやろうと決めた」と、話す1年生もいた。野球部の活躍が彼に深浦への進学を決めさせたのだ。
 昨夏は、初戦で同じ分校の川内と対戦、接戦の末勝利をものにした。つづく2回戦は、八戸にある八戸北という、学校の規模はもちろんのこと実力も勝る相手だった。しかし予想以上の善戦で、あわや逆転かというところまであと一歩と迫った。こうした戦いぶりを1年生は見ていたのだ。
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