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3月25日 司法記者クラブでの記者会見
(左から妹瀬戸まどかさん、母石井淳子さん、小池純一弁護士)
13年目にして認められた過労死― 仕事の犠牲になった息子のために母は闘い続けた
 株式会社リクルートで働いていた息子の死は過労が原因だと10数年にわたって訴え続けてきた母親の主張がようやく裁判で認められた。今年3月25日東京地裁は「過重な業務が死亡原因」として、それまで労災と認定しなかった国の処分を取り消した。デジタル編集の激務のなかで倒れた彼の“過労死問題”は本誌で2004年6月から06年6月まで2年がかりで詳しく連載した。今もなお違法な労働環境が蔓延する日本の企業社会のなかで、今回の判決のもつ意味は大きい。
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1.画期的判決に"勝った!"
2.「息子はなぜ死んだのか」問い続けた母
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画期的判決に"勝った!"
 昼前から降り出した雨が、ほころび始めた桜の花びらに降りしきる。数日前までの初夏の陽気とは裏腹に、判決を迎えた3月25日の東京は冬に逆戻りしたかのような寒さに見舞われた。故石井偉(いさむ・死亡当時29歳)の母淳子(65歳)は、長女で偉の妹であるまどか(40歳)とともに北海道から東京地裁にかけつけた。
 午後1時15分、開廷時刻となった東京地裁の526号法廷は、ほんの少し前までのざわめきが嘘のように静まりかえった。定刻よりわずかに遅れて裁判長が入廷する。20数人の傍聴者が席をうめた法廷内に緊張の糸がピンと張りつめ、全員の視線が裁判長に注がれた。
 その空気を察するかのように白石哲裁判長は、
「お待たせしました。それでは、判決の言い渡しを行います」
 と一言添えた上で、判決を言い渡した。

「主文。中央労働基準監督署長が原告らに対して平成12年3月31日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す」

 さらに、理由を付け加えた。
「石井偉氏がくも膜下出血で亡くなったのは、リクルート社による過重業務により、基礎疾患が急激に悪化したためであることは明らかです。ゆえに、業務と疾病には因果関係が存在すると判断しました」

 一瞬の沈黙が流れた後、傍聴者の間から「勝った!」とささやきがもれる。裁判長が退廷すると同時に、法廷内に流れる空気がふわっと暖かいものに変わった。最前列に座っていたまどかの目から涙があふれる。淳子を支えてきた友人や偉の友人たちの顔も紅潮している。それぞれ法廷を出て、その隣にある控え室に入った。
 弁護団長を務める玉木一成弁護士が口火を切った。
「ふつう、判決の理由は説明してくれません。たくさんの傍聴者があったおかげだと思います。国を相手にした行政訴訟は、100かゼロ。勝つか負けるかしかありません。そのなかで、今日の勝訴判決は画期的です。過労死については裁判所の考えも進んでいますし、新しいデータも蓄積されています。よい判決が出て本当によかったです」
 続いて、淳子が挨拶した。
「みなさんに支えられ、ここまでやってくることができました。あの子が亡くなってから、会社の方たちからは『自分の興味のおもむくままに勝手に仕事をして、残業も好んでやっていた』と言われ続けてきました。でも、裁判所は『過重な業務が死亡原因』と認めてくれました。一番、嬉しいのは偉の名誉回復ができたことです。それができないままでは、あの世にいって息子と会えないと思い続けてきました。老いの一徹かと…」
 最後の言葉は拍手でかき消された。

 勝算がある、とはいえない闘いだった。会社の記録に残っている偉の時間外労働は、厚生労働省が過労死認定の基準としている「月平均80時間」を下回っていた。また、くも膜下出血を起こす直前に10日間の夏期休暇をとっていたため、「その間に疲れを回復できたはずだから、業務とは因果関係がない」とみなされる可能性もあった。加えて、恒常的に休日出勤や持ち帰り仕事をしていた形跡があるが、メールの送受信記録など「証拠」となるものはごくわずかだった。
 原告と弁護士らは偉が残したメモ書き、企画書、メールの送受信記録などの発掘を続け、何度も見返し、偉と少しでも仕事のつながりのあった人間に連絡を取っていった。「今もリクルートと仕事のつながりがあるので、裁判とはかかわりを持ちたくない」と拒む元社員も少なくない中で、かつてリクルートで働いていた者たち何人かの協力を得ることができた。中には偉と面識すらない者もいた。
 淳子はかつてこう話したことがある。
「偉は東京の地で、どんな風に生きていたのか。どのような仕事をしていたのか。なぜ、死ななくてはならなかったのか。それが知りたい。でも、リクルートは表面的なことしか教えてくれない。だから裁判を起こすしか方法がない。お金が欲しいわけではない。あの子の命と引き換えのお金などいらない。ただ、真実が知りたい」
 熱意は人を動かし続け、その思いが裁判長に届いた。
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「息子はなぜ死んだのか」問い続けた母
 29歳で過労死した息子と母の物語は、「ある家族の肖像」と題して19回にわたり本誌で連載してきた。興味のある方は、そちらをお読みいただきたいと思うが、ごく簡単にこれまでの流れについてふれ、その上で「判決の持つ意味」を考えてみたい。
 リクルートの社員だった偉が29歳で亡くなったのは、13年前の暑い夏のことだ。北海道で生まれ、北大を卒業した後にリクルートに入社。入社時の社員総会では新入社員の一人として代表挨拶を務めるなど優秀で、かつユニークな人物だったという。
 身体に異変が起きたのは、入社から4年目のことだった。96年4月、偉は『週刊B-ing』編集部から、『Digital B-ing』(現在のリクナビ NEXTの前身)に配転となる。『Digital B-ing』は、求人広告に加えて雇用に関連するニュースや特集記事を掲載した ウェブサイトである。ここで偉に課せられた使命は、アクセス数を伸ばすために、コンテンツの充実などを盛り込み全面リニューアルすることだった。
 今から13年前、インターネットは普及し始めたばかり。関連する情報は少なく、ホームページ制作ソフトも未熟なものであり、担当者は膨大な時間をかけ苦労しながら作業をこなすという時代であった。こうしたなかで偉は、紙媒体からウェブ媒体に移り、慣れないコンピュータ用語や操作方法を独学で学ぶとともに、新しい連載や特集記事をスタートさせるという環境に投げ込まれた。
 配転から2ヵ月後にはサイトの全面リニューアルを行い、以降、毎週水曜日の画面更新に向け仕事をこなしていった。仕事は質、量ともに過重だった。コンテンツ制作に加え、画面の編集作業、HTMLを打ち込むコーディング、画面のアップ作業から販促グッズの作成まで、たった一人で担わされていたという。原告の主張によれば、6月11日から7月10日の間の時間外労働は92時間にのぼる。
 仕事量の増大や精神的な負荷の高まりとともに、疲労はしだいに蓄積されていく。8月に入ると、仕事の外部スタッフや友人に頭痛や吐気を訴えるようになった。これは、くも膜下出血の前駆症状と考えられるが、当時の偉にその認識はなかったと思われる。
 そして8月の末、偉は自宅として使っていた会社の寮でくも膜下出血の発作を起こし、朦朧とする意識の中で自ら救急車を呼び、都内の総合病院に運ばれた。旭川に住む母の淳子が病院から一報を受け、偉のもとに辿り着いた時には既に意識はなく、翌日の早朝に脳動脈瘤の再破裂を起こして脳死となり、4日後に永眠した。
 家族や友だちはもちろんのこと、上司も同僚も涙を流した。告別式の模様はビデオに録画されているのだが、そこでの上司や同僚による弔辞からは人間味あふれる惜別の情とともに、彼がいかに愛される青年であり、優秀な人物であったかということが伝わってくる。

 息子を失った淳子は、茫然自失の日々のなかで「なぜ、息子は死ななくてはならなかったのか」と考え続けた。旭川に暮らしている淳子は、東京で偉が何をしていたかが全くわからない。29歳という若さでくも膜下出血を起こしたとなれば、まず「過労」を疑った。そこで、それを会社に確かめようとすると、事態は一変、リクルートは手の平を返したように冷たくなった。
 当時の人事担当者は〈(偉は)仕事が好きで、凝り性なので、自分の意志で長い時間働いていた。残業が多いのは、ある意味で能力のないということでもある〉といった意味合いのことを淳子に告げたという。
 言外に〈リクルートは労災とは考えていない。ゆえに、申請をすることは不当である。協力はできない〉といった含みがあった。
 そして怒りがこみ上げた。どうしたらいいのか。悩んだ末に労災申請をすることを決めた。夫とは偉が中学1年生、妹のまどかが小学6年生の時に離婚し、苦労しながら二人を育ててきた。ようやく偉の人生の花が開きかけたところに、あるはずだった偉の未来も夢も根こそぎもっていかれた。絶望のなかで自殺も考えたが、踏みとどまった。〈それでは、あの世で偉に合わす顔がない。「好き勝手に仕事をしていて、死んだ」と言われたままでは犬死のようなもの。息子の名誉をはらしたい〉と考えた。
 とはいうもの証拠がない。手帳や取材ノートなどがあるはずだが、自宅にはなかった。リクルートに問い合わせたところ、返ってきた言葉は「少し前に社内で引っ越しがあり(所属部署が異なる階へ移動した際、引っ越し業者に作業を依頼した)、段ボールが一箱無くなってしまった(ので、そこに入っていたかもしれない)」。偉が最後まで使用していたコンピュータに入っていたはずの記録についても、会社側はその存在を明らかにはしなかった。
 いわば暗中模索のなかでスタートした労災訴訟。残されたわずかな資料をもとに労働実態を解明し、協力者を探し続けた10数年だったわけだが、そのあたりの話は、すでに連載に書いてきたのでこれ以上はふれない。
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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。大学卒業後、電子部品メーカー社員を経て、法律系の出版社に勤務。7年半の編集記者生活を経てフリーランスのノンフィクションライターに。労働、食、医療、看護などをテーマに取材活動を続ける。主著に『パンを耕した男』(コモンズ)。「ある家族の肖像」をベースにしたノンフィクションを今秋、コモンズより単行本として上梓する。
 
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