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「122対0」から10年、敗者は蘇るv (2)
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4.守りきり、歓喜と涙の勝利
5.強豪にぶつかり、負けてなお得るもの
6.地元の高校として、存続する誇りとは
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守りきり、歓喜と涙の勝利
積極的に打って出る
 午後1時5分、ポツリとわずかに雨を感じた曇り空の下、試合がはじまった。先攻の深浦は先頭打者が一塁ゴロに倒れたが、二番のキャプテン佐藤翔太がシャープに右中間を破る二塁打を放つ。いきなりスタンドが沸いた。そして捕逸と四球で、一死三塁のチャンスを迎えた。ここで一塁走者が盗塁とみせかけ、相手内野手の動揺を誘う間に、三塁にいた佐藤がホームをついて、先制点をあげた。
 その裏、青森工業は一死から二塁打を放ち反撃に出たが、続く打者のあたりは三塁ライナー。三塁手がしっかりグラブでとらえ、飛び出した二塁走者もアウトの併殺となり、守備でも応援席を沸かせた。さらに、二回表には深浦は一回と同様の形で2点目を追加した。
好投する増富投手
 深浦の投手、増富はスピードはないが、サイドからのボールはいいテンポでストライクゾーンをとらえて相手をかわし、二回裏は三者で抑えた。ベンチからは「よっしゃー」の声がきこえてくる。その後も深浦の守りは堅く、盗塁を封じたり、ファインプレーでしのぎ得点を与えなかった。逆に六回には安打に相手の重なるエラーも手伝ってさらに2点を追加した。
 スタンドで応援する選手の父母からは、最初は「すごい点差になったらどうしよう」と、大敗を心配していた言葉が出ていた。前年の大会での「25対2」が記憶に残っていたからだ。が、その心配もどこへ、いつしか「まさかここまでやるとは思わなかった」と、気持ちの高ぶりを表す言葉がきかれるようになる。
 一方拙攻もあった青森工だが、徐々に増富の球にバットをあわせ本来の力を出しはじめる。六回裏には長短3安打が飛び出す。これにいままで堅かった守りにエラーが重なって2点を許した。チームを牽引していたキャプテンの佐藤のエラーだけに応援席の表情もこわばったが、ベンチからの伝令も功を奏したのかなんとか踏みとどまり、七回表には逆にバントヒットに盗塁などで5点目をもぎとった。
雨のなか必死に応援する生徒たち
 このころには試合途中から降り出した雨が強くなってくる。その後両者得点なくいよいよ九回裏、青森工業の攻撃を迎える。すると先頭打者がいきなり右翼越えの三塁打を放つ。一死をとった後でセンター前に運ばれ1点を許し「5-3」と詰め寄られる。さらに今度は左翼前に打たれて一死、一、二塁。たまらずナインはマウンドに集合、ベンチからは伝令も来る。しかし続く打者もセンター前にヒットを放ちとうとう満塁となる。
 都市部の実力校を相手に勝利したことなど過去の深浦の歴史でほとんどないといっていい。その記録的な勝利が、いまや風前の灯火になろうとしていた。応援の声にもやや悲壮感が漂う。若い女性教職員たちも必死で声援を送る。深浦を支えてきたのはこうした若い力と年配のベテラン職員だった。
 深浦には若い職員(非常勤など)が多い。就学年齢の子どものいる中堅どころの教師は単身赴任を余儀なくされるのを嫌うのか、こうした僻地の学校には少ない。都市部の学校と比べれば明らかだ。さらに在職年数も都市部の学校と比べれば短い。したがって一般的にまとまった一貫性のある、そしてバランスのとれた教育、指導はしにくい。一時、保護者のなかからそうした状況を批判する意見が出たこともあったが、小さな学校の一部の保護者の声は現場に反映されていないようだ。同じ県立高校でもその教育内容を細かく見れば、単に過疎化、生徒数の減少が理由となっている格差以上の差があることを認める必要がある。
校歌をうたう
 試合の話に戻ろう。一死満塁。長打が出れば同点あるいは“サヨナラ”の場面だ。ここで青森工の打者はレフトにフライを上げた。しっかり捕球するがタッチアップで三塁走者がホームをつき「5-4」。なおも二死二、三塁。しかし、ここで投手、増富が踏ん張った。続く四番打者の打球は三塁前に、三塁熊谷がこれをグラブに収め一塁に送ってゲームセット。
勝利に喜びにわくスタンド
 応援席からは一斉に歓喜の声をあがった。涙ぐむ生徒や父母たちもいる。バックネットを背に深浦の選手たちがスコアボードに向かって並んだ。校歌が高らかに流れ、それが歌い終わると、待ちきれないとばかりに、満面に笑みをたたえた主将の佐藤を先頭に、ナインが全速力で三塁側の応援席前に走り込んできた。
 「よくやったー」
応援席に駆けつける笑顔のナイン
 私は何度か深浦の試合をこれまで観てきたが、スタンドでこれほど熱狂的な喜びを上げている生徒たちを見るのははじめてだった。職員や父母のなかにはまだ涙を拭く姿がある。小さな学校で部活動もままならず、まして全校生徒が目の前で、自分たちの仲間が立派な勝利を上げた。おそらくこういう光景を目にすることはほとんどなかったはずだ。そう思うとこの一勝が野球部だけでなく、学校全体に大きな活力を与えたことはまちがいない。
 「ほんとうによくやってくれました」
応援席に挨拶する大湯監督
 試合後、大湯監督は丸い顔の目尻を下げて喜びをあらわした。
「いやー、鳥肌が立ちました」
 そういったのは、練習の手伝いにと自らグラウンドにも立つ野球部部長の平山学教諭だ。指導という点で言えば、この二人に若い竹内俊悦副部長をまじえたチームワークのたまものともいえる勝利だった。
5
強豪にぶつかり、負けてなお得るもの
 このあと、監督、部長には勝利を祝う電話がいくつも入り、喜びと安堵のなかで夜を迎えた。翌日には、二回戦が控えていたが、ここはただ全力でぶつかって自分たちの力がどこまで通用するかを試すしかないという開き直った気持ちでもあった。というのも、対戦相手は優勝候補の一角、光星学院(八戸市)。過去春夏7回の甲子園出場を果たしている。プロ野球巨人の坂本勇人内野手はこの光星出身である。
 選手のほとんどは関西地方からの“留学”組みで、甲子園のために日々切磋琢磨している。このところライバルでもある同じ私学の青森山田の後塵を拝しているので、今年はなんとしてもという気概がある。
 この光星に対して、もちろん深浦に勝算があるわけではない。が、勝敗はともかく彼らにとっては全国レベルのチームと対戦できるまたとない貴重な機会だった。
 
 夏の日差しが戻ってきた12日の午後、前日とおなじ八戸長根球場で深浦と光星の試合が行われた。光星ナインは専用の大型バスで球場入りした。深浦のワゴン車と比較するとその差はそのまま選手の体格にもあらわれているようで、バスを降りた光星ナインは、すらりと背が高く日焼けした肌が力強さを示している。
先頭に立って声をあげる男子リーダー
 試合前のシートノックをとっても野手の投げる球のまっすぐ糸を引くようなスピードと正確さなど、どの動きを見ても全国レベルとはこういうものかと思わせるものがある。三塁側の光星の応援スタンドからはベンチ入りできない多くの野球部員が大声で声援をはじめた。これもなかなかの迫力だ。
光星の投手になんとか食らいつく
 試合は光星の先攻ではじまった。先頭打者のフライがライト線ぎりぎりのところにうまく落ちて二塁打となった。深浦にとっては不運なあたりだった。続いてバントが安打になり、さらに盗塁と四球でいきなり無死満塁に。ここで四番打者はライトフライに終わったがこれが犠飛となってまず1点。このあとさらに1点を追加された。しかし、最後は盗塁を阻止、2点で抑えたのは上々のできともいえた。
光星戦で2番手で投げる兼平選手
 しかし、二回には光星は実力を遺憾なく発揮、長短5安打に四死球をからめて一気に5点を追加、「7-0」と引き離す。深浦は途中、投手をセンターの兼平にかえて三回はなんとか0点に抑えたが、四回には1点を許し、五回にも3点をとられ「11-0」に。五回を終了した時点で10点差がつけば規定によってコールド負けとなる。
 五回裏深浦は、先頭の兼平がこの日2本目の安打で出塁、しかし反撃もそこまで、後続をぴしゃりと絶たれ、わずか1時間18分で試合を終えた。
光星学院との試合を終えリラックスする
 深浦が光星の繰り出す、エースを含めた左右の3投手にまったく手も足もでなかったかといえば、意外といっては失礼だがそんなことはない。バットのしんで球をとらえることは何度かあったし、5回で3安打を放っている。たまたま、この日球場には大会本部の役員のひとりとして、10年前に深浦高校野球部を率いた工藤慶憲氏が来ていた。
大湯監督(左)に話しかける工藤氏
 裏方の仕事の合間に、深浦の試合ぶりをみていた工藤氏は、「しっかりバットが振り切れていたし、たいしたもんです」と、試合後に大湯氏らを前に、よくやったといわんばかりに笑顔でねぎらいの言葉をかけた。
 光星の方ももちろん手加減などまったくなく試合に挑んでいた。試合前に光星のある選手は「何が何でも・・・」と、勝敗への意気込みをひと言漏らしていた。
 光星野球部を長年にわたって指導してきた金沢成奉監督は、かつて「122対0」に関連して「光星だったらどういう戦い方をしたでしょうか」と私が尋ねたとき、
 「うちとだったら122点まではいかなかったと思う。自由に打たせるが盗塁してまであえて点をとりにはいかない」と話していた。しかし、あくまでプレーは全力でする、バントをしたりしてアウトカウントを増やすようなことはしないとも言った。
 今年の深浦が10年前とはまったく違うことを考えれば、なおさらのこと光星が力をセーブすることなどありえなかった。
 予想通りの完敗のあと、大湯監督は感想をこう漏らした。
 「私の考えている以上に、相手のレベルは高かった。光星さんはメンバーをしっかりそろえて、うちを相手に試合をしてくれたことに感謝します」
 「くやしいですね、あと少しなんとかできたかもしれないと思うと」
 そう真顔で話すのは平山部長だった。一方、選手たちは「強かった」、「見たことのない(投手の)球だった」と、実力の差を肌で感じた。それはある程度のレベルまで自分たちが達したにもかかわらず、上を見ればとんでもないものがいることを実感できた、清々しさを含んだ悔しさといえるかもしれない。
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地元の高校として、存続する誇りとは
「野球部の生徒はとにかく野球も学校生活も一生懸命で、朝も野球のカバンと一緒に教科書の入ったカバンを両手に登校してくる。この姿を見たとき、いままで何十年も教えていて、初めて見る姿だなって思いました。彼らの努力はみんなが認めるところです」
 応援席にいた深浦校舎の奈良岡昭彦教頭は野球部員を高く評価した。
 二日間にわたった試合を終え、深浦ナインが帰り支度を終えたころには午後5時になろうとしていた。「お金もないし、まっすぐかえります」と言っていた一行には、日本海側の深浦まで、4時間以上のドライブが待っていた。「よし、五所川原まで行って休もうか。で、焼き肉か」と、いう部長の声が響く。実際は、体力の消耗も激しく、一時間ほどして休憩したところでミーティングを開いて締めくくりとし、そのあとでコンビニで夕食を買って車内で食べた。とてもいい雰囲気のなかで生徒たちは眠りについたという。
 10年前の夏、青森市の県営球場で大敗した深浦ナインは、当時この夏と同じように2台のワゴン車に分乗して帰路についた。そのとき部員たちのなかでは、「明日からどんなふうに報道されるんだろうか」という不安の声が出た。そのときと比べて、時間は倍もかかったろうが今年のナインがどんな気分で車に揺られたか、想像に難くない。
 
 以上が青森県立木造高校深浦校舎(元深浦高校)の野球部がこの夏どう戦ったのかを、10年前を振り返りながら追ったレポートである。この夏の母校の健闘ぶりを10年前のある野球部員に伝えると、彼は「ほんとですか、青森工業に?」と、驚きを隠さなかった。冒頭に記した「深浦変わったね」というOBの言葉もこの驚きに通じるところがあるのだろう。
 廃校の心配さえ出る母校が、その力を盛り返すようなニュースを聞くのはOBとして気持ちのいいものだろう。ただ、余計なお世話だと言われることを覚悟にひとつ言えば、勝利で歌う校歌は深浦高校時代の校歌ではなく、遠く離れた本校である木造高校の校歌である。いまは歌われることのなくなった深浦高校の校歌を、できればきかせてほしかった。なぜなら、県立高校とはいえ、今も昔もこの学校はほとんど地元と地元の生徒に支えられてきたからである。
 最後に、一、二年のチームで構成されてるいまの深浦ナインが、この秋からそして来年の夏にどう戦うか。学校そのものの進路とともにいましばらく見守っていきたい。
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