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「122対0」から10年、敗者は蘇る
 全国各地で高校野球の“地方大会”が開かれているが、10年前青森で「122対0」という歴史的な試合があった。大敗を喫したのは深浦高校(当時)。あれから10年、深浦は分校化され生徒数も激減した。が、野球部はなんとか存続し、この夏殊勲の一勝をあげた。小さな学校の健闘ぶりを、10年前を振り返りながら青森・八戸の球場で追った。
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1.議論を巻き起こした、問題の試合
2.分校化のなかで、元甲子園球児が監督に
3.相手は都市部の伝統校
「深浦、変わったね」
 たったいま試合を終えたばかりのユニフォーム姿の監督に、応援していた若者のひとりがほほえみかけた。まさに彼のいうとおりだった。田舎の、それも全校生徒わずか72人の小さな高校が、この10年で大きく変わった。二日間、二試合を戦い終えたこの高校の野球部の戦いぶりが周囲に与えた衝撃であり喜びを、若者の言葉が示していた。
 
青森工業に競り勝つ
 場所は青森県八戸市にある長根球場。7月11、12日の二日間。高校野球の青森県大会のなかで、県立木造高校深浦校舎は、初戦で青森工業を破り、二回戦では強豪、光星学院と対戦し、コールド負けで敗退した。
 生徒減によって2007年度から木造高校の分校となってこのように名前を変えてしまったが、それ以前の呼び名である深浦高校という名前にについては、高校野球に関心のある人なら記憶にあるかもしれない。
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議論を巻き起こした、問題の試合
 ちょうど10年前、いまやメジャーの大スターになった、あの松坂大輔が横浜高校のエースとして劇的な優勝を甲子園で遂げた、第80回全国高校野球選手権。そのときの一地方大会の第二回戦(初戦)で、当時の深浦高校はとんでもない記録をつくってしまった。「122対0」という得点差で負けた。正確に言えば、対戦相手だった私立東奥義塾高校とともにこのスコアをつくった。
 当時、青森県は七回7点差コールド制(得点差がいくら開いても七回までは試合を終えない)で、初回で39点を許した深浦高校は、途中試合を放棄はせず七回を戦い終えてこの結果となった。その後、全国一律に五回以降10点差、七回以降7点差がついた場合、コールドゲームとした。前代未聞の記録にスポーツ紙のみならず全国紙もこのニュースを、とにかく驚きであると報じた。制度の違いもあるが後にも先にもこの三桁に上る得点差記録は例がなく、将来もまず破られることはないだろう。
 その後、この試合をめぐっては、深浦に対して「最後まで戦い終えたのは偉い」とか「よく耐えた」といった賛辞から「そんなに弱いのなら出る資格がない。相手に対して失礼だ」という批判が出た。一方、甲子園出場経験もある相手の東奥義塾に対しても「手を抜かずに攻め続けたのは立派だ」という意見と「なにもそこまでやる必要はないのでは」という意見もきかれた。
 さらに「攻撃手控え論」のなかには、相手の立場をもう少し考えるべきだという意味と、自軍(勝者)の戦力保持のためにそこまでするのは戦略的に間違っているという意味のふたつがあった。事実、これが原因かどうかわからないが、東奥義塾は実力校ながらその次の試合でよもやのコールド負けを喫するという意外な展開になってしまった。
 また、試合後3年をすぎて、中学の道徳の副読本のなかでこの試合の内容が少々美化されて使われたこともあった。いずれにせよ、「122対0」は、さまざまな論議を巻き起こした。学校や町役場へは激励の手紙などがとどき、学校関係者は生徒たちへの影響も考えてずいぶんとこの対応に追われることになった。
 
 では、どうしてそういうことになったかというと、深浦高校が野球経験の少ない一年生中心のチームで、とてつもなく弱く、かつ途中で試合を放棄しなかったのと、対する東奥義塾がまったく手を抜かずに攻め続けたからである。
 だが、もう少し深くその理由を探ると、教育現場や地域の抱える問題、そしてこの試合にかかわった人間たちの性格が絡み合った結果だったことがわかる。その内容は拙著「122対0の青春」(講談社文庫)に詳しく記した。またこのなかで、試合後いかに深浦高校野球部が立ち直ろうとしてきたかを2003年まで追った。
 その翌年の夏の大会で深浦高校は初の勝利を得た。しかし、相手は野球部員10人で、その半数が高校から野球をはじめ、同じように初勝利を目指すチームだった。
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分校化のなかで、元甲子園球児が監督に
木造高校の分校となった
 全国的な少子化で、学校の統廃合が進むなか、青森県内もその例外ではなく、陸の孤島ともいわれる深浦町にある深浦高校は、生徒数の減少によって07年度から、車でも一時間半近く離れた木造高校の分校になってしまった。一学年一クラスとなり課外活動も縮小、当然野球部も存続が危ぶまれる状態になった。
 しかし、07年に入学した新入生のうち11人もが野球部に入った。監督は前年から赴任した大湯輔教諭。彼は1996年の夏の大会で青森県代表として甲子園出場を果たした県立弘前実業高校の野球部レギュラーの経験を持つ。三塁手で左投げという異色なプレーヤーとして話題にもなった。このとき弘前実業の監督だったのが外崎忠彦氏で、彼は大湯氏より前に最後の深浦高校の校長として赴任していた。大湯氏は、恩師でもある外崎校長のもとで一年でも一緒に教鞭をとりたいという願いから、前任地のとき深浦高校への異動を希望、その結果、野球部の監督もつとめることになった。
07年秋 広いグラウンドで練習に励む
 11人のうち家庭の事情でひとりが退部したが、中学時代は野球経験のある10人は、大湯監督の厳しい指導のもと練習に励んだ。毎日、練習が終わり学校を出るのが8時から9時。都市部と違って通学に際しての交通の便は悪く、本数の少ないJR五能線を利用したり、家族の送り迎えなどに支えられながらの毎日が続いた。
 一年生が中心のチームは、昨年の夏の大会で、強豪の八戸工大一高と対戦して、「25対2」で五回コールド負けを喫した。初回1点を先行したが、その裏19点もとられ、選手のなかには恐ろしささえ感じるものがいた。しかし2点を得る力はこの先の成長を周囲に期待させた。
 その年の秋、翌年はあの大敗からちょうと10年目を迎えることに気づき、私は久しぶりに一年生だけで構成されるこの学校と野球部を訪れてみた。そこで日頃の生活面を含めて選手を指導する大湯監督の考え方をきき、生徒と話をして練習を見学した。深浦の生徒たちの雰囲気は相変わらずで、よその人間に対しては言葉が少なくおっとりしている。しかしその彼らも練習となると大きなかけ声とともにきびきびと体を動かしていたのが印象的だった。
 年が明け今年の春には、3人の一年生が部員に加わって総勢13人となって、一、二年生だけの新チームができあがった。そして、大湯氏の指導がそろそろ形になったころこの夏を迎えた。
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相手は都市部の伝統校
開会式で行進する深浦ナイン
 7月10日、青森市営球場での開会式では、75校がつぎつぎと入場行進をし、学校名を女子高生がアナウンスする。その声は深浦の選手たちが登場したとき「木造高校深浦校舎」と紹介したが、「校舎」という言葉がなんとなく寂しく響いた。深浦以外にも二校が分校を意味する「校舎」という名前で呼ばれた。
 この日2台のワゴン車に分乗した深浦ナインの一行は、深浦町から約2時間半をかけて青森市に到着、さらに次の日は試合会場が八戸市内とあって、この夜は手前の五戸町に宿泊、翌日の試合に備えた。なにしろ深浦から八戸へ行くとなれば、日本海側から青森市を通り、今度は太平洋岸の八戸まで下ることになり、まっすぐ走っても4時間半はかかる。
 初戦の相手は青森工業高校。青森市内にある伝統校で、全校生徒数825人、野球部員は一年から三年まで総勢34人である。勝敗の行方は青森工業に分があると見るのが一般的だろうが、「いや、意外とわかりませんよ」という冷静な声も大会本部内できかれた。
「いままで十分一生懸命やってきたんだから、楽しんでこい」
 試合前、大湯監督は選手たちにそう声をかけてきた。とにかく悔いのないほど練習はやってきた。あとは失策などによって自滅せず、持っている力を出し切ることを彼は願っていた。
青森工業戦に向かう
 11日午前11時ごろ、深浦ナインは球場に到着すると、自分たちの前の試合をスタンドでしばらく観戦していた。緊張とわくわくする気持ちが入り交じるなか、この朝の雨で打球の足が遅くなった土の様子などを確認していた。目の前では八戸商業と八戸北が対戦していた。ともに八戸市内の大きな学校で、スタンドのそれぞれの応援席は生徒たちで埋め尽くされ、ブラスバンドの演奏も高らかに響いてきた。「ああいうの、いいなあ」と、そのブラスの音にナインのひとりがうらやましそうにつぶやいた。
 しかし、深浦でもこの日は、全校生徒が動員さて、早朝にバス2台を仕立てて八戸までやってきた。教職員や部員の両親などもこれに加わり、応援席にはブラバンこそないが、太鼓をまえに男子生徒が先頭に立って声援を送りはじめた。思えば10年前の大敗のときには深浦側のスタンドには地元の応援などないに等しかった。それに比べればまさに小さいながら全校一丸となってメガホンを手に声をあげている。
 両チームが試合前のシートノックをする。青森工業の選手は全体的に身長も高く、三年生が主体で体つきが深浦より大きく見える。しかし、グラウンドでのプレーを見る限り深浦ナインは決して劣りはしない。10年前、シートノックの段階で、深浦の選手たちのグラブさばきに相手方、東奥義塾の選手は「いったいこれでアウトがとれるのだろうか」と心配すらしたというレベルからすれば格段の進歩だ。
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