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写真提供 Wing Luke Asian Museum Photograph Collection
米国・日系人収容所の歴史から現在を問う 2007年ミニドカ強制収容所メモリアル巡礼記
「北米報知」記者 佐々木 志峰
 第二次世界大戦中11万人以上といわれる在米の日系人・日本人が住み慣れた土地を追われ約3年にわたる強制収容所での生活を強要された。あれから65年、体験者の多くがこの世を去った今、悲劇を風化させまいと企画された「ミニドカ巡礼の旅」。今年で5年目を迎えた「収容所への旅」に同行し、日米の狭間にあって戦争に翻弄された人々とともに人種・人権問題を考える。
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1. 蘇る、列車で連行された記憶
2. 苦境にあった日系一世のメモリアルを
マリナーズ・セーフコ・フィールドとイチローの看板。
 2007年7月。アメリカ北西部の都市シアトル周辺では、日本に関連した明るい話題が続く。同市北部近郊都市エバレットの航空宇宙会社ボーイングの工場では8日、次世代旅客機「787ドリームライナー」の完成式典が行われた。全日本運輸、日本航空などが受注した夢の翼は、来年にも日本上空を飛び交う姿が見受けられるだろう。
  そして13日、シアトル・マリナーズがイチロー外野手と5年間で総額9000万ドル(約110億円)といわれる大型契約を結んだ。今後5年間、2012年までイチローはシアトルに留まり、ファンを魅了し続ける。城島健司捕手を含め、チームのマーケット戦略において欠かせない日本。30日にはジャパン・ナイトと称する日系イベントも催された。日本も日本人もこの地ではアメリカ社会になじんでいる。
  しかし今から溯ること65年。1942年7月の時点でのシアトルと日本との関係は、といえば、現在とまったく逆にあった。ボーイング社は大型爆撃機メーカーの地位を築き上げ、工場では爆撃機B-29の開発が日々進められていた。これらはやがて、日本上空を襲来し、街々を爆撃し、人々の命を奪い、さらには広島、長崎に原爆を落とした。
  65年前。この地には日本人の姿はおろか、日系アメリカ人の影さえ見当たらなかった。厳密に言えば、この地で生活することが許されなかったのだ。最大で2万を数えたといわれるシアトル地域の日系コミュニティーの栄華は、真珠湾攻撃、そして1942年2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領による特別行政指令9066号発令(*1)によって終焉を迎える。この法令が引き金となり、カリフォルニア州全土、ワシントン州、オレゴン州の西半分、アリゾナ州南部の日系人・日本人11万人以上は、10ヵ所に設置された強制収容所に入れられた。シアトルやオレゴン州ポートランドなどを中心とした該当者たちは、アイダホ州南部にあるミニドカ収容所に送られた。
  黒髪、黒い目をした彼らは数ヵ月後、強制退去命令を受け、土地、財産、ビジネス、ありとあらゆる物を没収された。手元に許されたのは、スーツケース2つのみ。彼らはシアトルの南ピュアラップ市の集合所で数ヵ月間拘留された後、42年8月半ば、列車に揺られ米国奥地の荒野へと運ばれていった。「何が起こるのか、いつ家には帰ることができるのか」――。その後3年にわたる砂漠の生活のことなど、知る者はいなかった。
  このミニドカでの記憶を今に留めて置こうと、5年前に始まった巡礼の旅には今年、シアトルを中心に約150人が参加した。チャーターしたバスに乗って行くグループのほか、独自に飛行機、車で向かう巡礼者たちが、シアトルから南東へ約600マイル(約1000キロ)離れたアイダホ州ミニドカへと向かった。
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蘇る、列車で連行された記憶
シアトルからバスで約3時間。水気のない荒野が姿を現す。
 2007年6月22日、朝6時。早朝のシアトルを出発するバス。高速道路の両側にはヒマラヤ杉が青々と朝靄の中、幹を伸ばす。ノースウエスト特有の朝曇り空、気温は華氏60度(摂氏15度)以下。上着がなければまだまだ冷える。
  片道12時間のバスの旅で、この景色は単なる序章にすぎない。「ミネドカ巡礼の旅」は始まったばかりだ。数時間後、やがて緑は消え、木々は背の低い茂みに姿を変え、むき出しになった岩や黄色い大地が顔を覗かせる。さらに南東へ数時間。雲ひとつない青空からは太陽が照り付ける。気温は華氏90度(摂氏32度)に達した。
  荒野の間から2本の線が目に入る。道路と平行して走る線路に、このバスに乗る旅の参加者のひとりジョー・イケさん(81)が、ミニドカの収容所へブラインドが完全に下ろされた列車で連行された当時の記憶を呼び起こす。
「(ブラインドの隙間から)煙がどんどん入ってきました。窓を閉めるには暑すぎたし、咳き込む人も多かった。本当にひどかったものです」
  猛暑のなか、真っ直ぐ延びる線路を煙を立てて走る蒸気機関車。それに比べれば、バスの旅は快適だ。オレゴン州を抜け、目的地のアイダホ州へ。やがて荒野は一転、青々とした農地へ変わる。ポテト、コーン、小麦、そして牧草地。この巡礼の旅を企画した団体「フレンズ・オブ・ミニドカ」のジェリー・アライさんによれば、1960年代にこの地に立ち寄ったときはこのような農場はなかったという。

(写真上)運河に面した収容所の待合室跡。時折外出の許された収容者がバスを待ち、また訪問者が入所許可を待つために利用された。
(写真下)強制収容所時代に使用されていた倉庫。扉の部分は神社の鳥居を意識したデザイン。
  しかし、収容所時代に日系人・日本人が泳ぎ、魚を求め釣り糸を垂れ、3年間を過ごしたという運河は当時と変わることなく、水量も豊富に大地を蛇行していた。バスは小さな橋を渡り停車場へ。目の前には収容所を監視していた守衛舎と来訪者の待合室の跡地が現れた。赤レンガ作りの建物こそ、鉄条網に囲われた一大コミュニティーの入り口。最大で約1万人を収容し、住居用建物、学校、病院、消防署、野球場など、全44区画3万3000エーカーを誇ったミニドカ強制収容所は、第二次世界大戦時、アイダホ州第4の人口を誇った「日本人街」だった。
  07年現在、ミニドカ収容所史跡として残るのは消防署跡や倉庫などわずかなバラックだけだ。

(写真上)Idaho Farm & Ranch Museumに再現された収容所のバラック住宅。
(写真下)荒野に建設されたミニドカ強制収容所(当時)。
写真提供 Wing Luke Asian Museum Photograph Collection
 

しかし、ミニドカ収容所史跡の近くにあるツインフォール市には「Idaho Farm & Ranch Museum

」があり、当時のバラック小屋を再現、展示している。巡礼の一行はこの博物館を訪れた。そこには鉄製の簡易ベッドや居間に置かれる旧式のストーブがある。イケさんによれば、部屋のタイプは大、小2種類あり、家族の規模によって割り当てられたという。板張りの部屋同士のプライバシーはないに等しかった。
  当時の収容所学校の教室も再現されている。戦後60年を過ぎ、70歳以上になる収容所経験者の多くが、当時は収容所内の学校に通い、仲間たちとボールを投げ、野球を楽しみ、走り回った。クリスマスが近づけば、ヨモギを摘んで飾りを作った。シアトルにある非営利団体「日系ヘリテージ協会」が発行する短編集『Omoide(思い出)』の一部では、こうした収容所での思い出が日系二世、三世によって綴られている。
  周りはみな知った顔。鉄条網に囲われ外に出ることは許されず、監視塔から銃を突きつけられている現実を忘れれば、友人と毎日顔を会わせ、どのような場所も遊び場に作り上げることができた。

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苦境にあった日系一世のメモリアルを
戦時中の北米時事
 しかし、彼らの両親、祖父母の思いは違った。市民権保持も土地保有も許されなかった移民一世たち。政府からはスパイの嫌疑をかけられた。苦労して築き上げてきたものを失った悲しみ、怒り、絶望。頼りとすべきリーダーたちの多くは、収容所とは異なり刑務所(*2)へ収監されていた。収容所内の権限は二世に移っていき、世代交代が進んだ。すべてを失った一世たちは徐々に声を失っていった。
  シアトルの日系新聞社「北米報知(*3)」には、その前身である北米時事社が戦時中に発行する日刊紙、「北米時事」が残っている。情報は新聞かラジオに頼っていた当時、同社は日系一世にとっての拠り所だった。
  当時の紙面をめくると、強制退去に関した記事が日々掲載されている。非常事態の中でも「落ち着いた対応を」と訴え、シアトル日系社会の混乱を防ぐ努力がうかがえる。抵抗活動などがなかった点からも、このメディアの貢献度は少なくないのではないか。
  その一方で、「敵軍」という名で紙面に記す日本軍の進撃も伝え続ける。マレー半島上陸、シンガポール陥落――。1942年3月11日には「大東亜共栄圏構想」に関する特集記事を掲載。そして翌日の廃刊をもってシアトルから日本語メディアが消えた。数ヵ月後、日系人たちに強制退去命令が下される。日本語に頼った一世たちはこの間、どのような情報を頼りに、自らの立場を決めていたのだろうか。

  日系二世のアイリーン・シガキさん(68)は、一世のつらさを身を持って知る一人。当時の記憶として鮮明に思い出されるものは、一世の父親の姿だ。「英語記事やラジオで米国の戦局有利を聞けば、『これはただのプロパガンダ。嘘の情報だ』と話していました。幼いときに移民し、米国で教育を受け、英語も堪能だったのですが。本当に苦労して、つらい時期だったと思います」
収容所生活について語るフミコ・ハヤシダさん(右)。
  同じく二世のフミコ・ハヤシダさん(96)は当時、シアトル近郊のベインブリッジ島で生活を送っていた。1942年3月31日、ベインブリッジ島のハヤシダさんら日系人227人は退去命令を受け、ピュアラップの集合所へ移送された。その後マンザナー収容所(カリフォルニア州)を経て43年にミニドカへと移された。
  ハヤシダさんの住居は最南東部にあたる第44区画だった。夏は気温が華氏100度(摂氏37度)を越え、冬は水溜りが凍った。強い風が吹けば砂塵が舞う。ガラガラ蛇やサソリに脅え、生後間もない乳飲み子を抱え、遠出もできなかった。
「運河を渡った瞬間に涙が出てきました。ただひどかった。本当にひどかった」――。今年の巡礼者で最高齢の彼女には当時を思い返す言葉はこれ以上見つからない。

  ミニドカ収容所史跡では現在、2つのプロジェクトが計画されている。アライさんらが中心となり進めている「一世メモリアル」プロジェクトは、第442連隊戦闘団(*4)の活躍など、二世世代に焦点が充てられがちな日系史において、約3800人の一世収容者の足跡を残そうと、収容所跡地付近にメモリアル広場建設を計画している。
  一方、国立公園局は、当時の第22区画にあたる128エーカーの土地を農場主から借り受け、史跡の拡張を計画する。その暁には史跡内に強制収容所を再現し、メモリアル化を図る。米国連邦下院議会では現在、法案化へ向けた議論が進めれられている。これらの活動は日系三世が中心。一世の記憶が風化する前にその記録を残したいと痛切に願うものだ。

  巡礼を終え、シアトルへ向かう道中でのこと。日系人たちが収容所へ移送され、そして新たな生活へ向け旅立った線路が延びる。農場、街から離れると、緑は消え、見渡す限りの荒野が広がる。60年前と変わらない、収容者たちも目にした光景なのだろうか。
  地元の住民に尋ねると、アイダホ州ボイジー郊外のフリーウェイ沿いにはスガという日系人農家が戦後から農場を構えているという。無から開拓し、美しい農地を広げる彼らには、尊敬のまなざしが向けられていた。
  そのほかにもオンタリオ、ウィザーといったアイダホ州とオレゴン州の境に点在する町々には、シアトルへたどり着くことなく、この地に根付き、農業を営む日系人家族も多かった。また一部はアメリカ東部、中西部へと新たな生活を求めて行き、シカゴをはじめとした東海岸の日系社会の発展に関わっていく。
  シアトルへ戻った人たちについて言えば、生活は楽ではなかった。住宅難から国語学校(*5)の教室を生活の場とする家族もいた。それでも得た自由は、何にも変え難いものだったに違いない。鉄条網で外界と隔離されることも、銃を向けられることもない世界。戦後、家族とウィザー郊外へ移ったエド・ヒロオさん(71)はこう話す。「どこにでも行ける、何でも買える。(家族とも)自由な気持ちになれた」
  強制収容所体験者だからこそ重みを持つ言葉でもある。
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PROFILE

佐々木 志峰

1976年東京都生まれ。立教大学法学部、オレゴン大学ジャーナリズム学部卒業後、04年からシアトル日系新聞社「北米報知」記者として、日、英両語の編集に携わる。邦人、日系人問わず、幅広いテーマでシアトル日系コミュニティーを追う。
shihou@napost.com
 
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