しかし、彼らの両親、祖父母の思いは違った。市民権保持も土地保有も許されなかった移民一世たち。政府からはスパイの嫌疑をかけられた。苦労して築き上げてきたものを失った悲しみ、怒り、絶望。頼りとすべきリーダーたちの多くは、収容所とは異なり刑務所
(*2)へ収監されていた。収容所内の権限は二世に移っていき、世代交代が進んだ。すべてを失った一世たちは徐々に声を失っていった。
シアトルの日系新聞社「北米報知
(*3)」には、その前身である北米時事社が戦時中に発行する日刊紙、「北米時事」が残っている。情報は新聞かラジオに頼っていた当時、同社は日系一世にとっての拠り所だった。
当時の紙面をめくると、強制退去に関した記事が日々掲載されている。非常事態の中でも「落ち着いた対応を」と訴え、シアトル日系社会の混乱を防ぐ努力がうかがえる。抵抗活動などがなかった点からも、このメディアの貢献度は少なくないのではないか。
その一方で、「敵軍」という名で紙面に記す日本軍の進撃も伝え続ける。マレー半島上陸、シンガポール陥落――。1942年3月11日には「大東亜共栄圏構想」に関する特集記事を掲載。そして翌日の廃刊をもってシアトルから日本語メディアが消えた。数ヵ月後、日系人たちに強制退去命令が下される。日本語に頼った一世たちはこの間、どのような情報を頼りに、自らの立場を決めていたのだろうか。
日系二世のアイリーン・シガキさん(68)は、一世のつらさを身を持って知る一人。当時の記憶として鮮明に思い出されるものは、一世の父親の姿だ。「英語記事やラジオで米国の戦局有利を聞けば、『これはただのプロパガンダ。嘘の情報だ』と話していました。幼いときに移民し、米国で教育を受け、英語も堪能だったのですが。本当に苦労して、つらい時期だったと思います」
同じく二世のフミコ・ハヤシダさん(96)は当時、シアトル近郊のベインブリッジ島で生活を送っていた。1942年3月31日、ベインブリッジ島のハヤシダさんら日系人227人は退去命令を受け、ピュアラップの集合所へ移送された。その後マンザナー収容所(カリフォルニア州)を経て43年にミニドカへと移された。
ハヤシダさんの住居は最南東部にあたる第44区画だった。夏は気温が華氏100度(摂氏37度)を越え、冬は水溜りが凍った。強い風が吹けば砂塵が舞う。ガラガラ蛇やサソリに脅え、生後間もない乳飲み子を抱え、遠出もできなかった。
「運河を渡った瞬間に涙が出てきました。ただひどかった。本当にひどかった」――。今年の巡礼者で最高齢の彼女には当時を思い返す言葉はこれ以上見つからない。
ミニドカ収容所史跡では現在、2つのプロジェクトが計画されている。アライさんらが中心となり進めている「一世メモリアル」プロジェクトは、第442連隊戦闘団
(*4)の活躍など、二世世代に焦点が充てられがちな日系史において、約3800人の一世収容者の足跡を残そうと、収容所跡地付近にメモリアル広場建設を計画している。
一方、国立公園局は、当時の第22区画にあたる128エーカーの土地を農場主から借り受け、史跡の拡張を計画する。その暁には史跡内に強制収容所を再現し、メモリアル化を図る。米国連邦下院議会では現在、法案化へ向けた議論が進めれられている。これらの活動は日系三世が中心。一世の記憶が風化する前にその記録を残したいと痛切に願うものだ。
巡礼を終え、シアトルへ向かう道中でのこと。日系人たちが収容所へ移送され、そして新たな生活へ向け旅立った線路が延びる。農場、街から離れると、緑は消え、見渡す限りの荒野が広がる。60年前と変わらない、収容者たちも目にした光景なのだろうか。
地元の住民に尋ねると、アイダホ州ボイジー郊外のフリーウェイ沿いにはスガという日系人農家が戦後から農場を構えているという。無から開拓し、美しい農地を広げる彼らには、尊敬のまなざしが向けられていた。
そのほかにもオンタリオ、ウィザーといったアイダホ州とオレゴン州の境に点在する町々には、シアトルへたどり着くことなく、この地に根付き、農業を営む日系人家族も多かった。また一部はアメリカ東部、中西部へと新たな生活を求めて行き、シカゴをはじめとした東海岸の日系社会の発展に関わっていく。
シアトルへ戻った人たちについて言えば、生活は楽ではなかった。住宅難から国語学校
(*5)の教室を生活の場とする家族もいた。それでも得た自由は、何にも変え難いものだったに違いない。鉄条網で外界と隔離されることも、銃を向けられることもない世界。戦後、家族とウィザー郊外へ移ったエド・ヒロオさん(71)はこう話す。「どこにでも行ける、何でも買える。(家族とも)自由な気持ちになれた」
強制収容所体験者だからこそ重みを持つ言葉でもある。