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米国・日系人収容所の歴史から現在を問う 2007年ミニドカ強制収容所メモリアル巡礼記 米国・日系人収容所の歴史から現在を問う 2007年ミニドカ強制収容所メモリアル巡礼記(2)
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3. 広くアメリカの人権問題へつなげる
4. 強制収容所の教訓から現代を見る
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広くアメリカの人権問題へつなげる
  巡礼ツアーと時を同じくして、南アイダホ・カレッジ(アイダホ州ツインホール市)では人権問題に関するシンポジウムが開かれた。このシンポジウムには2004年3月、スペイン・マドリードで起きた列車同時爆破テロで「重要参考人」として連邦捜査局(FBI)に誤認逮捕された、オレゴン州のブランドン・メイフィールド弁護士も出席した。シアトル地域からは、日系人のレガシー活動を続ける非営利団体「デンショー」のトム・イケダ氏が参加、人種、世代に関係なく、現代社会が直面する課題について考える機会になったという。
  2001年9月11日の米国テロ後、イスラム系社会に対する差別が問題視され、一部では第二次世界大戦中の日系社会との類似点を見る者もいる。パトリオット法(愛国者法)の下、人権を無視され、あらゆる個人情報が政府に暴きだされた。まるで真珠湾攻撃のあと、FBIが日系人に対して行った無差別家宅捜索のように。イスラム教改宗者のメイフィールド弁護士はパトリオット法撤廃の裁判も起こしている。


(写真上)ジョー・イケさん(左)の収容所体験に耳を傾けるサミア・エルモスリマニーさん(中央)。
(写真下)巡礼中に行なわれた慰霊祭に臨む退役軍人たち。
  巡礼者の一人、イスラム教徒のサミア・エルモスリマニーさん(43)はアラブ系アメリカ人に育てられ、94年にサウジアラビア人と結婚した。同時テロ後、カリフォルニア州サンノゼの給油所では、「出て行け」と罵声を浴びせられたことがある。英語を母国語とし、同じ米国籍にもかかわらず、入国審査では誰よりも入念に調べられた。彼女の知人の多くも同様の経験をした。
  「人間の心の奥底には、ある『種』が宿っています。これがあるきっかけで弾ける。真珠湾攻撃であったり、9・11であったり、いつでも起こりうることなのです。だからこそ、人種を超え、理解者を増やしたい。今回の巡礼の目的は日系人の生の体験話を持ち帰り、見たもの、聞いたものを伝えること。さもなくば、(歴史)は繰り返されてしまう」。 エルモスリマニーさんは顔を会わせる収容所経験者の声に耳を傾け、現況に照らし合わせ、危惧を抱いた。

(写真上)慰霊祭で涙を見せるマイク・タガワさんはミニドカ収容所で生まれた。現在は平和活動家として活動中。
(写真下)ミニドカ強制収容所史跡で行なわれたメモリアル慰霊祭。
  6月24日。収容者であり、退役軍人のジョージ・アズマノさん(85)が、志願二世兵士の戦没者75人の名前を呼び上げる。収容所跡地に集まる巡礼者の目から涙が伝わる。
  その1時間後、いわゆる「ノー・ノー・ボーイ(*6)」の一人、ジーン・アクツさん(82)が巡礼者の前に立つ。日系社会を二分することになった強制収容所内でアメリカ側から行われた質問、第27項、28項に「ノー、イエス」と答えた理由。その後の刑務所生活、不忠誠のレッテルを貼られた戦後。家族共々、日系社会で不遇を味わった境遇、これらについて静かに語り出す。
「マイノリティーな人種である以上、このようなことは起こりうること。実際に現在の世界では何が起きているか。(歴史を繰り返さないためにも)若者たちは将来の判断を間違えないでほしい」
  日系社会を二分した「ノー・ノー・ボーイ」の影。10分のスピーチを終えたアクツさんには満場の拍手が送られる。
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強制収容所の教訓から現代を見る
 「日本が真珠湾を攻撃したから、我々は強制収容所へ送られたんだ」――。
  私が北米報知に入社して間もない頃、ある取材で日系人に質問した際にこのような答えが返ってきた。この短い言葉は今でも耳から離れない。それ以来だったかもしれない、強制収容所巡礼の旅は念願だった。
  今年の巡礼ツアーには、戦後生まれの若い世代が多数参加した。若い日系三世、四世世代は、家族が経験した収容所の歴史を知らないものも多い。デール・ワタナベさん(42)は父親、そして母親の両親がミニドカ収容所で暮らしたが、尋ねても両親の口から多くが明かされることはなかった。今回「The Minidoka Interlude」という限定版アルバムを手に、初めて家族が生活した区画を知った。
「期間が決まった生活ならともかく、先の見えない中で自分は耐えることができただろうか」。収容者の経験、母国から受けた仕打ち。そのつらさを痛いほど感じた。
  昨年6月、米国陸軍の日系三世のアーレン・ワタダ中尉(*7)がイラク派兵を拒否した時、米国の日系社会の世論は彼の行為に対して賛否両論二分した。そして米国議会でのいわゆる従軍慰安婦問題への日本政府に対する正式謝罪要求には、一部の日系社会関係者からは懸念の声が上がった。理由は日系人が日米関係の影響を最も受ける人種であること。原点にあるのは日系人強制収容所という事実である。世間が「Jap」と叫び、強制収容にためらいを持たなかった65年前の出来事は、日系社会のあらゆる問題の根源に位置する。世代を経て、日本への意識が薄らぐ今もそれは変わらない。
  今年4月、シアトルを訪れたダニエル・イノウエ上院議員が語った言葉が胸に響く。「目の色、顔の形、髪の色の違う世界の人間同士、文化のまったく違う人間同士が、どうやって現在の友好関係を築き上げ、これから保っていくのだろうか」
  今から65年後、その時代の「イチロー」は米国で躍動しているだろうか。未来の「ドリームライナー」は世界を繋いでいるだろうか。
  戦争、原爆、強制収容、差別、人権――。これらに向き合い、語りかける言葉に耳を傾け、未来へ伝え続けようとする。小さな規模ながらも、こうした思いを胸に秘めて行われる巡礼の旅にこそ、その未来が見える気がした。
(提供写真を除き、掲載した写真は筆者の撮影)



*1:特別行政指令9066号
 日系アメリカ人が国家安全保障の脅威になるという口実のもと、フランクリン・ルーズベルト大統領が発令した特別法令。1942年2月19日発令。米国陸軍省に対し、地域を指定し、その地域内のいかなる人にも強制立ち退きを命じる権限が与えられ、この法令の下に日系人強制退去が実行された。その数はカリフォルニア州全土、ワシントン州、オレゴン州の西半分、アリゾナ州の南部の日系人11万人以上に及ぶ。彼らは全米14ヵ所に設置された集合所に拘束され、後にミニドカなど10カ所に設置された強制収容所へ送られた。88年にはレーガン大統領が、強制収容された日系人に対する謝罪と2万㌦の補償金を支払う「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」に署名した。毎年2月19日は米国西海岸中心に「デイ・オブ・リメンブランス」と称し、日系人を中心とした人権活動が広く行なわれる。

*2:刑務所
「トラブルメーカー」と認定され、米国市民権を保持しない日系一世の中心人物を拘留した米国司法省管轄下の収容所。サンタフェ(ニューメキシコ)、ビスマルク(ノースダコタ)、クリスタル・シティー(テキサス)、ミズーラ(モンタナ)がある。各日系団体の中心人物、文化活動に携わる者、新聞編集者など、日本との関わりが強い人物が収容された。

*3:北米報知
 シアトルの日系新聞社。1946年創業。前身は北米時事社(1902年創業、1942年廃刊)。日系一世と戦後日系移民に日本語情報を提供することを主としてきたが、最近は日系二世、三世のみならず、日本に興味を示す一般市民向けの英語紙面にも重点を置く。活動は徐々に縮小も、シアトル唯一の日英バイリンガル新聞としてシアトル近郊の日系社会の声を伝え続ける。海外日系新聞放送協会会員。2004年外務大臣表彰受賞。週1回発行。www.napost.com (現在工事中)

*4:第442連隊戦闘団
 第二次世界大戦時に米国陸軍で編成された日系アメリカ人部隊。ハワイ諸島の日系人と米国本土の強制収容所内の日系人志願兵で構成された。欧州戦線で枢軸軍相手に激闘を繰り広げ、のべ死傷率は314%に達した。米国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊として知られる。同時に太平洋戦線では陸軍諜報部(MIS)に所属した二世兵士が英、日バイリンガルを生かして活躍、戦後は通訳などを務め、日本復興に貢献を果たした。

*5:国語学校
 現シアトル日本語学校。1902年に設立され、現在の所在地(1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144)へは1913年に移転。シアトル日系社会における日本語教育の場として役割を担ってきた。最大生徒数は戦前で1500人に達したという。運営母体はシアトル日系人会。現在は新設のシアトル日本語補習学校などに押され、活動は縮小している。今年中に日系ヘリテージ協会と合併し、同地に日系文化コミュニティーセンター建設を目指すことが明らかにされている。
http://www.seattlejapaneseschool.org/

*6:ノー・ノー・ボーイ
 米国陸軍省は1943年、日系人部隊編成を目的に18歳以上の収容者に「出所許可申請書」と呼ばれる質問を行う。特に兵役への是非(27項)と米国政府と米国軍への忠誠と日本政府と天皇への不忠誠(28項)に関する質問は最重要とされた。
  両者に「イエス」、「イエス」と答えた大半の日系人には、米国軍に志願していく日系二世や、戦後日系史の中核をなす日系市民協会(JACL)のメンバーがいた。これに対してどちらかに「ノー」、または両方に「ノー、ノー」と答えた残りの日系人は「ノー・ノー・ボーイ」と括られ、不忠誠者のレッテルを貼られた。
  その理由は米国への忠誠の有無だけでなく、家族状況、収容所政策の不当性、自らのルーツに対する考えなど、様々な要素が絡んでいた。彼らの多くは日系一世、帰米二世、そして収容所の不当性を訴える二世だった。アクツさんは収容所政策を進める米国政府に異議を唱え、質問27項を「ノー」と答えた。
  アメリカ政府は強制収容政策下において、何度となく「忠誠登録」と呼ばれる同様の忠誠心調査を行い、日本国籍保持者の日系一世と米国籍の日系二世間における溝を深める一因ともなった。日系市民協会(JACL)は60年近くを経た2000年に誤解と謝罪の意を表したが、日系社会内でも差別と偏見が根強く残り続けた。

*7:アーレン・ワタダ中尉
 昨年6月、米国士官で初めてイラク派遣を拒否した、ワシントン州フォート・ルイス基地所属の米国陸軍士官。ハワイ出身の日系三世。「従軍拒否」に加え、イラク戦争の不法性やブッシュ大統領への非難を含めた「士官としてふさわしくない行為」の2件を軍法会議にかけられた。反戦活動家などを巻き込み、日系退役軍人らを含め、大きな論議を巻き起こした。今年2月にフォート・ルイス基地内の裁判所で始まった軍法会議では、米国陸軍とワタダ中尉の間で交わされた事実認定合意書に対する理解の相違が見られ、審理無効が宣言された。米国陸軍は再訴したが、ワタダ中尉側が一事不再理の原則に触れると主張、7月26日に予定されていた第二回裁判の開始予定日は10月9日への延期が決定された。
http://www.thankyoult.org/
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