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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series フォト&エッセイ
遠いパラダイス 藤原 章生
05/10/15

第15回 ハリケーンとレイシズム

冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そう考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族、人種に閉じこもり始めた。人々が鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

ビロクシの仏教寺院で出会った
スティーブさんと姉のキムさん

 這い上がってきた者らしい負けん気の強さが顔に刻まれている。元南ベトナムの難民、スティーブ・グィエンさん(40)は目の辺りを紅潮させ、アメリカ南部のことを、まさに吐き捨てるように言った。
「ここの白人は本当にひどい。今でも、黒人や我々、ベトナム人を露骨に差別する。20年たっても何も変わらない。昔と同じだ。ここは同じアメリカでも別の国のようだ」
 別の国? どこを指しているのだろう。仮にアメリカ南部がレイシズム(人種主義)のひどい世界だとして、それをアメリカではないどの国にたとえればいいのだろう。ついこの前までなら、南アフリカ共和国の名が挙がったことだろう。
 90年代前半、メキシコのグアダラハラで、大学の教員らと政治談議をした。
「メキシコの人種差別、先住民差別はひどい」
 という話になると、決まって誰かが
「でも南アフリカのような国もあるし」
「アパルトヘイト(人種隔離)ほどのことはない」
 と語り、一同うなずくのが常だった。当時の私も含め、そのうちの誰一人として南アフリカを知らないのに、「もっとひどい世界もある」とそれぞれが自分たちを慰める材料にしていた。
 その後、私が暮らした南アフリカはアパルトヘイト後ということもあるが、日々の暮らしを見る限り、人種的な緊張をあまり感じない、割と大雑把な世界だった。確かに生真面目なほど人種分けを徹底しようとした制度はあったものの、それは国家が生み出したタテマエであり、社会やその一員である個人の意識は別のものなのだ。

 スティーブさんは1981年5月、ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)を発った。いわゆる「ボートピープル」の一人だ。父親は南ベトナムの軍人としてベトナム戦争に従軍した。このため76年の南北統一後、家や財産全てを奪われ極貧を強いられた。母をベトナムに残し、父とスティーブさん、そして姉のキムさんの3人が難民としてボートに乗り込んだ。
「一つの船に私たち3人が乗り、転覆すれば、お母さんを残して全員が死ぬことになる。お前たちか私のどちらかは生き残ろう。私は別の船で行く」
 そう言い残し、子供2人を見送ったのが父の最後の姿だった。
「おそらく船がやられ、死んだのでしょう」
 とスティーブさんは淡々と話す。
 スティーブさんと姉は52人がすし詰めとなった小船で海を漂い、何とかタイにたどりつくことができた。途中、海賊に襲われたが、幸いにも貴金属を盗られるだけで済んだ。
 姉弟はタイの難民キャンプ、フィリピンの米軍基地を経て、82年5月、政治難民として米国に受け入れられた。当時16歳だったスティーブさんは「ABCもわからなかった」という。このため、姉とともにミシシッピー州の町ビロクシで暮らし始めたころは、大変な思いをした。
「ビロクシの公立中学に通ったが、ひどいいじめに遭った。学校にいたのは13、14歳の白人の子ばかりで、いつも『イェン、イェン』とからかわれた」
「イェン、イェン」とは?
「ベトナム語の音を口真似してからかうんです。教室に入ればイェン、イェン、廊下ですれ違いざまにイェン、イェン、講堂での集会では何人もでイェン、イェン。でもこちらは何も言い返せない。英語が話せないんですから。考えてみてください。あなたが10代のころ、いきなりベトナム人ばかりの教室に入れられ、からかわれ続けたら、どんな思いがするか」
 10代前半とは、異端をはじき、いじめる残酷な年ごろだ。
「大人からも町ですれ違うたびに『なんでこの国にいるんだ』『自分の国へ帰れ』と言われた。でも、やはりアメリカだ。必ずいい人がいる。『今は我慢してとにかく高校を卒業しなさい。そうすればなんとかなるから』と励ましてくれる先生がいた」
 高校を卒業するとスティーブさんは「もうこんな所には戻るまい」と誓い、一人中部のカンザス州に移り、いまはアジア系のレストラン数店に60人の従業員を抱える実業家となった。
「今でも、南部に来ると緊張する。このビロクシの町を見るたび、あのころの嫌な思いがよみがえる」
「イェン、イェンもまだ収まらない。信じられない。子供は最初から肌の色で人を差別したりしない。親のまねをするだけだ。おそらくベトナム系を見たとき、親が『イェン、イェン』と言うのだろう。だから、いまも子供たちは私たちを見ると同じことをする。私は自分の子供がもし黒人を見て『ニグロ』などと言ったら、怒鳴り散らすだろう。でもここでは親たち、年寄りたちが、そんな侮蔑感情を子に伝える。南部は本当にひどい」
 親もなく一人で苦しみ、這い上がった人の言葉だけに、「一般化はできないでしょう」と反論することはできなかった。彼が語る南部評はやはり一つの真実なのだ。

水没した住宅街を進む米陸軍の捜索隊
05年9月8日、ニューオーリンズ東部

 8月末、米国南部をハリケーン「カトリーナ」が襲い、私は堤防決壊で浸水したニューオーリンズ市などルイジアナ州と、やはり暴風で村々が吹き飛ばされたミシシッピー州をレンタカーで走り回った。
 初めての地に行くとき、私はできるだけ先入観を押し殺そうと努める。自分の中のイメージがときに障害になるからだ。それでも、「ディープサウス」と呼ばれるこの辺りには、どうしても暗いイメージがつきまとう。それは多分、映像のせいだろう。南部を舞台にした映画でまず思い浮かぶのは『ミシシッピー・バーニング』(88年、米国)だ。公民権運動が盛んになる60年代の南部が北部の人間の目で描かれていた。そこでは、夜陰にまぎれ白人至上主義者が黒人を吊るし首にしていた。米国の汚名の歴史を描いたというより、いまも残る人種差別を浮き上がらせた印象だった。
 もう一つ思い浮かぶのは、若いカップルをなぶり殺しにした男を改心させる尼僧を描いた映画『デッドマン・ウォーキング』(95年、米国)だ。死刑執行の寸前、男(ショーン・ペン)はスーザン・サランドン演じる尼僧にようやく罪を認め、初めて真実を語る。その5分間ほどのシーンでのショーン・ペンの独白、涙が溢れ出すスーザン・サランドンの瞳が記憶に残る作品だった。映画の舞台はルイジアナ州で、人種差別を描いたものではないが、尼僧のつとめる教会や、悩み疲れ果てた彼女が見つめる車窓の景色に、荒々しい人間性が重なるようだった。
 映画のテーマはいずれも目新しいものではない。ストーリーだけを文字で追えば、それを身近に感じえない者には「まあ、そうだろうな」「でもまあ、仕方ない」といった感想しか残らないかも知れない。だが、映像には俳優が演じるリアリズムと、映し出される遠景や細部がある。きっとそれが、観る者の琴線に触れる、つまり新しいテーマに出会ったような錯覚をもたらすのだ。映画に貫かれていたのは、暴力や衝動を抑えきれない人間の業のようなものだった。

 そんなイメージを抱えて訪れた南部は思ったより暑苦しく、太陽がことのほか高く思えた。そして、人々は優しかった。
 ただ、それはわずかな滞在者の印象に過ぎないので、それでこの地の人柄を語ることはできない。誰しもよそ者にはやさしく振舞う。被災者ら取材相手も、店員も、会う人会う人がみな善人である。昨年10月にフロリダ州を回ったときも感じたが、米国に移住してすでに10年になるメキシコの知人が言うように「米国人は基本的に人がいい」。

避難所の子どもたち
05年9月7日、バトンルージュ

 それにしてもこのディープサウスの人種意識とはどんなものなのだろう。
 私が拠点にしていたバトンルージュは、人口40万人ほどの小さな町だが、緑に囲まれた小ぎれいな住宅街と、ペンキがはげた木造の家が並ぶ町並みに分かれている。
 ラテンアメリカの町のようにソカロ(中央広場)と呼ばれる町のへそがないため、どこにいっても猥雑な雰囲気がない。東西に走るガバメント通りに瀟洒な市庁舎が立ち、中心街とみられるその近辺にどう新しくみても50年代に建てられた古い木造の家々がひしめいている。
 町がまだ小さかったころは白人の住処だったのだろうが、いまはほぼ100%黒人住民がそこに暮らす。そして、主な白人たちは郊外のやや広めの住宅街に移り住んだようだ。その「黒人街」には座って食べられるレストランはほとんどないが、小エビのフライなどケージャン料理を食べさせるテイクアウトの店がぽつぽつあり、店を仕切るのはなぜかベトナムやフィリピン系などアジア人が多い。
「南部はやはり貧しい。中南米と変わらないじゃないか」と思いながら車を白人地区に進めると、道が低い丘陵に入ったとたん緑が増え、米国の地方にならどこにでも見られる広々とした住宅街となった。スターバックスや米国最大手の書店バーンズ・アンド・ノーブルの入るモールもある。アパルトヘイトのように法制化されているわけではないし、例外はいくらでもあるが、両者の住み分けははっきりしている。
 こうした住み分けは、フロリダも含む南部の小さな町の一つの典型と言える。昨年、フロリダ州東部のデイトナビーチを訪ねたときはもっと露骨だった。内陸に比べ黒人の多いこの町では昨年の大統領選で、一部の住民の有権者登録所が白人の多い隣町に変えられた。それまで近場で登録ができた黒人有権者たちはバスに乗り、普段行くことのない町まで出向かなければならなくなった。9割が民主党支持と言われる黒人の投票行動を阻むものだ、という訴えがあり、私は現地の黒人街を訪ね歩いた。表通りからそれると、アスファルトは落ち葉や木の実で覆われ、そこは打ち捨てられた別荘地の林道のようだった。つまり、町の中心近くにありながら車の往来が少なく、50年代の風景をそのまま残したような一画だ。風情があるとも言えるが、発展を是とするなら明らかに遅れた地域だった。
 人種によって住む場所が分かれる。まあ、そんなものかとも思うが、米国はもう少し人種が交じり合っているはずだと思い込んでいるよそ者には、やはり意外に思える。

救出作業にあたるミシガン州の救援部隊
05年9月6日、ニューオーリンズ

 ハリケーン被害や救助のあり方を「人種」というキーワードで切るのは容易でない。簡単に答は出ないだろう。結論を出すには、米国の社会構造とその発展過程に踏み込まねばならない。天災が起きたとき、取り残されるのは貧困層やお年寄り、病人、身障者だ。
 ジェシー・ジャクソン師ら黒人の活動家は、
「避難民に黒人が多いから連邦政府の救援が遅れた」
 とくり返した。
 しかし、貧者への救援が遅れることと、貧者に黒人が多いことは並列した別の問題だ。その2つをあえて絡めようとすれば、なぜ黒人は貧しいのかという問題に突き当たる。そうなると、洪水現場だけを見て答が出る話ではない。白人、アジア系、ヒスパニック、黒人の順で収入に差のある米国の社会構造に立ち入らねばならなくなる。

 そんな話をフロリダ州の知人、ジムさんにするとこんな答が返ってきた。本シリーズの8回目に登場するいわゆる「宗教右派」で共和党支持の全盲のジムさんは、電子メールを音声で聞ける装置を持っており、いつもすぐに返事をくれる。
「米国で何か問題が起こると、常にレイシズムが一つの役割を担いはじめる。他の人種はみな自分たちのことは自分でやるのに、黒人は全般的に、いつも誰かに指示され、誰かに助けてもらうのをただ待っている。ミシシッピー州には、今回、全てを失ったベトナム人たちがいるが、この国にそう長くは暮らしていない彼らは自分たちでこの事態に対処しようとしている。一方の黒人はもう何世代にもわたってこの国に暮らしているのだ」
 その後、政治的な話を一通り記したジムさんは、いつものように聖書から「汝の敵を愛せ。汝を呪う者をたたえよ」(Matthew 5:44)などの引用を示した上で、こう締めくくる。
「自分は黒人の友達とともに育ち、彼らと同じくらい貧しかった。もちろん全ての黒人を一緒くたにするつもりはない。もし僕たちがみな肌の色などに目もくれない存在(color blind)なら、よほどいいのに。もちろん盲人(blind)になるよりね!」

浸水の被害を受けた仏教寺院
右端がチク・ハン・ダトさん
05年9月9日、ビロクシ

 ミシシッピー州のベトナム系コミュニティーを訪ねたのは、ジムさんからそんな助言を得たからだった。
 ベトナム系はビロクシの町の一番東はずれの通りに小さく固まっていた。家々がペシャンコにつぶれ、がれきとなった通りを行くと、一階建ての仏教寺院があった。確かに、ジムさんの言う通り、全米のベトナム系企業や仏教団体からの援助物資が山積みされ、ベトナム系住民30人ほどがすでに建物の修復作業にとりかかっていた。すぐそばの家々で「国の援助はどこだ」と看板を掲げ、じっと座り込んでいる人とは対照的に見えた。
 そんな彼らからこんな話を聞いた。
 インディアナ州の僧侶でビロクシ復旧の代表をつとめていたチク・ハン・ダトさん(40)によると、死に物狂いでシェルターに駆け込んだ僧侶ら40人が、ビロクシ市が用意していた避難施設への立ち入りを拒否されたという。
「ここは重病人だけのシェルターです。別の場所を探してください」
 と市の職員に冷たく扱われたそうだ。
 40人は寺院に帰り、天井まで浸水する中、屋根裏部屋へ逃げ込み、なんとか命拾いした。そして翌日、ようやくシェルターに入れてもらえたという。市の対応にレイシズムはなかったのか。そう聞くとチクさんは、
「それはセンシティブ(繊細)な話なのでなんとも言えません。ただ、言えるのは私たちの声はまだ圧倒的に小さいということです。ジャクソン師のように声高に何かを叫んでも、私たちの声はそうそう影響力を持たない」
 と答え、抗議する気はないようだった。
 仏教寺院に寝泊りしていた40代の女性は、大波と風で家を失った。シェルターのことを彼女に聞くと、突然ぽろぽろと涙を流し始めた。そして、とつとつと話していた英語はベトナム語に代わり、隣で聞いていたチク僧侶がこう解説した。
「彼女はシェルターに泊まっていましたが、怖くて仕方なかったのです。周りにいるのはみな違う人たちばかりで。みな叫んだり怒鳴ったり。何をされるかわからないと。今でも食べものをもらいに行きたいのに、シェルターに近づくこともできない」
 町の白人たちの多くは自家用車で近郊のモーテルや身内の家に身を寄せ、シェルターに残ったのは貧しい黒人ばかりだった。チクさんら州外のベトナム系住民が被災地にかけつけたのも、同胞をシェルターから「救い出す」ためだった。
「それは人種差別ではありません。ただ、彼らと私たちとは文化が違うのです。私たちベトナム人、特に彼女のような人は何事にも受け身で、ああいう場にいると、『食べ物を分けてください』と言えないのです」

テキサスから来ていた米陸軍の部隊
05年9月8日、ニューオーリンズ中心街

 そんな折、私は、南部に暮らす姉を助けようとこの仏教寺院に来ていた冒頭のスティーブさんと出会った。そして「南部はレイシズムがひどい。別の国みたいだ」という言葉を聞いたのだ。
 確認できるはずもない。そう思いながらも、最初にシェルターへの立ち入りを拒否した側の言い分を聞くため、あちこち探しまわり、ようやくビロクシ市役所の広報担当の女性を見つけた。彼女は深刻な顔で受けとめた。そして、
「ちょっと待ってください」
 と言って市庁舎の2階にいる上司を呼びにいった。
「日本の記者? 英語話せるのか?」
 ビンセント・クリール広報部長は、女性にそう問いかけながら階段を下りてきた。
「質問は一つだけ。すぐ頼むよ」
 とまっすぐに私の顔を見た。出来事を彼にかいつまんで話すと、しばらく考えてからこう答えた。
「それは入れるべきだった。あのひどい状況ならね」
 私が予想していたのは、全面否定だった。「まさか、そんなことがあるはずはない」と返ってくると思っていた。だが、クリール氏は私の話を疑うことも、さして驚くこともなく、「それは十分あり得ることだ」という顔つきだった。あまりに素直に認めるので、私はこの人物が救援のため、よその役所から来ているのかと思ったほどだ。
「あなたはここ、ビロクシの人ですか」
 そう聞くと、氏は少し語気を強めた。
「そう。私はここで生まれ、ここで育った。ここの人間だよ」
「シェルターへの入室を拒否したのはあなた方、市の職員ですか。それともよそから来ていた人ですか」
「そのときは赤十字の職員もいた。いや、だが、そういうことがあったとすればこれは誰がやったにせよ市の問題だ。我々の責任だ。やはり市がその人たちを受け入れるべきだったんだ」

落ちてきたレンガで大破した乗用車
05年9月8日、ニューオーリンズ

 真っ暗な道をがれきをよけながら戻り、僧侶のチクさんに役所の話を伝えた。
「そうですか。認めましたか」
 と僧侶は静かにうなずいた。
「正式に抗議しないのですか」
 と私が言うと
「いや、もう過ぎたことです」
 とすぐに答えた。私はなぜ彼がそうあっさりと諦めるのか知りたくなった。
「でも、こういう社会では主張しないと相手に伝わりませんよ」
「・・・」
「あなた方は黙っているから軽く扱われるんじゃないですか?」
 そう食い下がると、やはりボートピープルとしてこの国に渡ってきた僧侶のチクさんは
「私は仏教徒です。全ての争いを否定していますから。ラブ・アンド・ピースですよ」
 と答えた。
「でも、主張しなければ差別はなくなりませんよ。それでいいんですか」
「私はそれがなくなるのを、ただ望むばかりです」

ボートに自転車などを積んで回る
「ニューオーリンズ居残り組」の人々
05年9月6日

 なんてことだ。仏教徒とはそんなものか。それで気が済むのか。あんな状況で、締め出されながら文句一つ言わない。下手したらみんな死んでいたのに。まるで負け犬じゃないか。
 じゃあ、この自分ならどうする。やはり激しく抗議するだろう。だが、それでどうなる。それで、自分や自分の家族、同胞が少しは差別を免れるようになるだろうか。では、どうしたらいいのだ。やはり、変に目立たず、おとなしくしている方が懸命なのだろうか。彼らもいずれ気づくときが来ると・・・。
 多分、その方がいいのかも知れない。
 ミシシッピーからルイジアナへの帰り道。高速道を飛ばしながら、私はそんなことを考え続けた。あの柔和な僧侶の顔が頭から離れなかった。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。
北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。05年、第3回開高健ノンフィクション賞受賞。

主な著作:
『世界はいま どう動いているか』
(共著、岩波ジュニア新書)

世界はいまどう動いているか

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