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Series コラム
石垣島に魅せられて ~移住者の南島ルポ 松村 由利子
11/05/31

第5回 島のパン屋は30軒

沖縄本島から南西に400キロ。サンゴ礁を覆うミントブルーの海、ジャングルやマングローブの濃い緑と一面のサトウキビ畑。ある人はただただ自然に魅せられ、またある人は島ならではの食や文化に入れ込みこの島で暮らす。都会の生活から避難した若者もいれば、島興しに燃える島人(しまんちゅ)の逞しい姿もある。昨年5月、都会からこの島に移り住んだ、歌人でありライターの松村由利子が、島に魅せられた人々を通して、その素顔と魅力を探る。

激戦地の島

 おいしい小さなパン屋さんと、主張ある品揃えの本屋さんがあれば、暮らすのに最高の町である――という持論の私にとって、島に移り住むときに一番悩んだのは、「パン屋・本屋」問題であった。
 島の電話帳を見ると、「書店」には4軒掲載されているが、そのうち2軒は古本屋さんだ。新刊を扱っているのは2軒……本に関しては、早い段階で「アマゾンなどネット通販を活用しよう」と決めた。残るは、パンの問題である。
 私と相棒が石垣島を初めて訪れた2003年ごろ、島にはそれほどパン屋さんが見当たらなかった。ガイドブックに載っている洒落たパン屋さんを訪ねるため、市街地から離れたところへドライブがてら出かけたこともあったが、毎日買うのは難しいと思われた。「あーあ、自分で焼くしかないか。いっそのこと、パン屋を開いたりして」などと、無謀な夢を描いたりもした。
 ところが、2010年4月末に引っ越してきて、島に住んでいる友人を夕食に招いたときのことだ。彼女が手土産に持参してくれたのは、ぱりっと焼き上がったバゲットや、レーズンのたっぷり入った歯ごたえのあるパンだった。おいしい。本格的なパンである。「これ、一体どこで買ったの? 島にはそんなにパン屋さんがないと思ってたけど」と訊ねると、友人はにこにこして、「え? おいしいパン屋さん、たくさんありますよぉ~」と言うのだった。
 いくつかのパン屋さんを教えてもらい、早速買ってみると、どの店もおいしいではないか! いつの間に、島にはこんなにパン屋さんが増えたのだろう。電話帳に載っていないところも含め、2011年5月現在、石垣島には30軒を越えるパン屋さんがある。話を聞くと、「いや、もう石垣島はパン屋の激戦地ですよ!」と苦笑する店主もいる。確かにそれは、2010年春まで私が住んでいた千葉市美浜区よりも、はるかに充実したパン事情といえる。
 そして、パン職人たちの中には、島に生まれ育った人もいれば、いろいろな体験をしてよそから島へ移り住んだ人もいて、それぞれの人生は焼いているパンのように多様である。南の島のパン屋さん事情を調べてみることにした。

本格フランスパンにこだわる

 石垣島へ何度も旅するうちに、気になっていたのは「トミーのぱん」という手書きの小さな看板である。
 市街地から県道79号線を海沿いに走り、美しい川平湾を通り過ぎてしばらく行った山原(やまばれ)というところの道路沿いに、その看板は立っている。あたりは木々が茂り、周囲には建物はない。看板のあるあたりにも何も見当たらないのだ。細い道を入ってゆくと、舗装していない道が下り坂になっている。不安になりつつ下ってゆくと、左に小さな四角い建物が見え、「トミーのぱん」という看板が目に入る。
 旅行者だったころ、このパンを買うのは至難だった。というのも、ここは火曜日と水曜日が定休日のうえ、売り切れると閉店時間の5時になっていなくても終わってしまうからだ。市街地から店までは大体40分なので、何かのついでに行くとしても、かなりおっくうである。ダイビングを終えてから買いにいくと、もう閉まる時間になる。パンだけのために午前中に行くという情熱もなく、ずっと幻のパンであった。
 2010年春に引っ越して間もないころ、島に住む知人がわが家へ遊びに来た。いろいろ話しているうちに、彼が「こっちの方へは結構来るんですよ。『トミーのぱん』を買いに」と言うので驚いた。その人が住んでいるのは空港近くで、店までは車で優に45分はかかるところなのだ。30年以上島に住んでいる人が、そこまでして買いに行くのであれば、私もぜひ行ってみなければなるまい。

「トミーのぱん」の冨永三津夫さんは本場のパンにこだわる

 そう思いつつ転入届を出したり挨拶状を書いたり、と雑事に追われているうち、ある日の夕方、ひょっこりその人が訪ねてきて「ついでだから」と、茶色い紙袋に入ったパンを手渡してくれた。フランスパンの生地のなかに、ゆで卵のフィリングとツナのフィリングが入った2種類のパンだった。どっしりとした飾り気のないパンだと思った。
 調べてみると、この「トミーのぱん」こそ、石垣島における個人ベーカリーのはしりとも言うべき存在であった。店主は京都出身の冨永三津夫さん。名古屋出身の妻、道子さんと1985年に移り住んだという。港湾関係の仕事に携わり、鹿児島県の奄美諸島の徳之島や与論島で働いたほか、西表島や沖縄本島に住んだこともある。「もともと南の方が好きだったんです」と三津夫さんは笑う。
 石垣島へ来た当初はいろいろな仕事をしたが、パンが好きな道子さんが自分でパンを焼き始めたのがきっかけで、三津夫さんは「おいしいパン屋がないなら、自分でパン屋を開いてみるか」と考えるようになった。独学で少し勉強したが、「プロにはプロのやり方があるのだから、きちんと教わろう」と、知人のつてで東京のブランジェ浅野屋で3ヵ月間働いた。
 浅野屋は1933(昭和8)年に東京都千代田区で創業し、パンがまだ珍しかった時代、各国大使館や外交官の家族に重宝がられた店だ。一貫して欧風ハード系の味にこだわる浅野屋で修業した三津夫さんもまた、1990年に開業して以来、ずっと本場ヨーロッパの味に近づくことを目指している。開業して20年以上たった今も、製粉会社などの催すパンの講習会へ年に数回は足を運ぶ。「どういう系統のパンが求められているか、などの情報が島では分からない。日々研究ですね」と話す。
 フランスパンは生地を寝かせる時間が長く、生地づくりから焼き上がりまで5時間はかかる。毎朝3時半には起床し、4時から仕込みを始める。バゲットやバタールをはじめ、ツナや卵、カレーの入ったフランスパン、全粒粉を使ったあんパン、ミルク味のやさしいパン・オ・レなど50種類ほど焼く。

愛情こめてパンを扱う冨永道子さん

 取材で「トミーのぱん」を訪れたとき、旅行者らしき一行がどやどやと入ってきた。フランスの田舎パン、パン・ド・カンパーニュを見て買おうとした人がいた。すると、道子さんが素っ気なく「それは甘くないパンで、全然おいしくありませんよ」と言うので驚いてしまった。お客さんが帰ってから、「いくら何でも自分のお店のパンを『おいしくない』なんて……」と言うと、道子さんは「パンをわかっている人が買うならいいんだけど、そうじゃない人に説明せず、後で『おいしくなかった』と言われたくないんです。せっかく一所懸命焼いたパンなのに」と話した。
 開業した当時は、まだフランスパンになじみのない島の人が多かった。ライ麦パンを買って帰った子の親から、「子どもにこんな古くて固いパンを売って」と電話がかかってきたことは忘れられない。バゲットを買った客から「あのパン、穴があいてるさー」と文句を言われたこともあった。道子さんは「あれには参りましたね」と苦笑いする。
「スーパーで売っているような、やわらかいパンしか食べたことのない人には、仕方ないことだったんでしょう。今も初めに説明しておかないと、『あそこのパンはまずいさー』と言われてしまう」と話す。
 やわらかくて甘いパンが好きなのは島の人に限ったことではない、と三津夫さんは見ている。「お菓子のようなパンか、お惣菜パンみたいなのが売れるんですよね。いま東京でも8割方そうでしょう。日本人の主食はやっぱりごはんなんです。パンは主食じゃない。『何か入っているパンでないと…』という人が多いんですよ」
 ものづくりの大好きな三津夫さんは、ハード系のパンだけでなくクロワッサンやアップルパイなどいろいろなものに取り組む。道子さんはもっぱら販売の担当だ。「この人は作るのが大好きで、手のかかるものを嬉々として焼いていますが、自分ではそれほど食べないんですよ。私は3食パンでも全然平気なのに」と笑う。
 夫婦2人だから何とかやっていける、と話す冨永さん夫妻だが、島の"老舗ベーカリー"として、これからも本格的なフランスパンづくりに取り組み続けるつもりだ。

島からフランスへ、そして島へ

パリのパン屋を思わせるLe Cuipの店内

「本当はお菓子も焼きたいんですよ。フランスのパン屋みたいにね」
 さらりとそう言われて、私は目を見張った。バゲットなどハード系のパンのおいしい「Le Cuip(ル・キュイップ)」で何度目かにパンを買ったときのことだ。そろそろ取材を依頼しようかなと思い、レジで「一人でこんなにたくさん焼いていらっしゃるんですか」と訊ねたとき、店主の上間雄二さんにそう言われ、どぎまぎしてしまった。
 重ねて「えっと……どこで修業なさったんですか?」と質問すると、「僕、フランスと東京で勉強したんです」という答が返ってきた。「Le Cuip」という店名は、フランス語の「焼く」という意味の"cuire"(キュイール)に、「菓子職人」"patissier"(パティシエ)の"p"を付けた上間さんの造語である。パンやお菓子は「焼く」工程が何といっても重要だ。このあたりにも、志が込められているのであった。
 上間雄二さんは1980年、石垣市に生まれた。両親とも同市出身だから、生粋の石垣っ子である。父は市内で菓子店を営んでいる。共働きの両親を手伝い、次男の雄二さんは早くから夕食づくりを手伝っていたという。それがきっかけで「料理って面白いな」と思うようになり、高校卒業後に島を出て、東京の辻調理師専門学校の製菓コースへ入った。そのころまでは「料理人になるか、いずれ親の店を継ぐか」と漠然としか将来を思い描いていなかった上間さんだが、大きな転機が訪れた。フランス留学である。
 辻調理師専門学校には、フランスのリヨン近郊にフランス校が2校あり、上間さんが在校していたころは、2年次の半年をそこで学ぶことになっていた。2校とも古いシャトー(城)を改築したものだが、上間さんが学んだのはレイリュー村にある「シャトー・エスコフィエ」である。16世紀末から17世紀初めに建てられた城は、もともとルイ14世のいとこだった公爵夫人が夏の別荘として使っていたものだという。
 1つのシャトーの中に教室や厨房、寮がそろっており、留学中は毎日が実習の連続である。「レストラン形式」という実習の形は、学生たちが「仕込み」「調理」「客」という3つのグループに分かれ、ローテーションに従ってそれぞれ準備や料理を担当するというものだ。製菓研究課程の上間さんの場合、「6時に出て朝食のパンを焼き、そのパンを食べながら点呼し、昼のデザートの仕込みをする。そして、それが終わったら夜のデザートの仕込み」という日々だった。「その後ミーティングで翌日どう進めるかなど話し合っていると、10時を回ることもありましたね。学生気分は一度に吹っ飛びました」という。
 フランス第2の都市、リヨンは古くから経済と文化が発展し、「美食の都」と言われるところだ。休日にはリヨンの市街地へ出かけ、勉強のため三ツ星レストランの食べ歩きもした。この厳しい実習期間が終わった後に、「スタージュ」という実地研修が待っている。研修先は、フランス各地の一流レストランやパティスリーである。上間さんが派遣されたのは、ドイツとの国境近く、ロレーヌ地方のジャルニという町にある「フレッソン」だった。

フレッソン氏は日本の雑誌にも登場する人気パティシエ

「フレッソン」は1922年に創業されたパティスリーで、上間さんが行った1999年は3代目のジャン=クロード・フレッソン氏がオーナーシェフとして2人の息子と切り盛りしていた。その次男、フランク・フレッソンさんこそ、現在4代目として活躍するパティシエ(菓子職人)である。1968年生まれのフランクさんは、2004年にM.O.F.(フランス国家最優秀職人章)を受章した実力者で、人気パティシエとして何度も来日している。
「この人の存在は、本当に大きかったですね」と上間さんはため息まじりに話す。仕事のスピードの速さと丁寧さ、正確さには舌を巻く思いだった。フランクさんの作ったチョコレートのなめらかな表面が、鏡のように自分の顔を映し出すことには驚嘆したという。
 仕事に厳しい人だった。あるとき上間さんは、コーティングしたチョコレートにピスタチオを1粒ずつ載せる作業をしていて、フランクさんから出来上がったチョコレート300個ほどを投げつけられたことがあった。「中に少し黄みがかったピスタチオがあったんですね。『これは何だ!』と激怒されてしまいました。怖かったなぁ……」
 フランクさんと働くうちにお菓子に魅せられた上間さんは2000年春に帰国し、オープンして間もない東京・麹町の「パティシエ シマ」に就職した。そこで約2年、夢中になって働き、ウェディング・ケーキをまかされるまでになった。ところが、手応えを感じ始めたころ、石垣島で菓子店を経営する父親と兄が相次いで体調を崩した。「戻って店を手伝ってくれないか」と打診され、未練はあったが帰島することにした。

再びパリ~東京~石垣島

 実家に戻り、菓子作りを手伝っていても、心は晴れなかった。自分のやりたいのは古典的なフランス菓子だ。しかし、島ではごく日常的なおやつ用の焼き菓子や、バースデーケーキの需要しかない。また、父と兄にはそれまでのやり方がある。「このケーキの飾り、2ミリ斜めになってる。こうだろ」と言っても、「ちょっとぐらい、いいじゃない」と流されてしまう。それは、沖縄特有の「てーげー(適当)」でもあっただろう。上間さんの中でフラストレーションがたまっていった。島に戻って半年が過ぎ、父と兄の体調がよくなり上間さんの出る幕が減ってきたことも、もどかしさに拍車をかけた。
「もう一度フランスに行こうかな」という思いが日に日にふくれ上がる。かつて働いた「パティシエ シマ」のオーナー、島田進さんに相談したところ、「君はきっとフランスの方が向いているよ」と言われ、2週間後にはフランスへ旅立っていた。23歳の秋だった。
 パリに着いて1ヵ月くらい、職を求めてあちこちを歩き回ったり、手紙を書いたりした。ある日、毎日通っていたパン屋さんから「うちでバイトするか」と言われ、そこの店で菓子作りを担当しつつ、パンの作り方を教わることになった。フランスのパン屋さんには、パンだけでなく多種多様なお菓子が並ぶ。「お店を開くなら、お菓子だけでなくパンもある店がいいな、と思うようになったんです。だから、自分でもパンが焼けるようになりたかった」
 いくつかの店を経験した後、「メゾン・カイザー」の門を叩いた。世界で活躍するパン職人、エリック・カイザー氏に学びたいと思ったのだ。念願のカイザーの店で働き始めて間もなく、カイザーの別の店で修業中の清水宣光さんと出会った。清水さんは、メゾン・カイザー日本支社の立ち上げを手伝ったことで知られる若手だった。同い年ということもあり、2人は意気投合した。会うたびに互いの夢を語り合い、話は尽きなかった。
 上間さんは半年間「メゾン・カイザー」で修業した後、「日本のパンやお菓子のことももっと見なければ」と考え、2004年に帰国した。製菓店に勤めたり、飲食店のコンサルティングの仕事をしたり、といくつかの仕事を経て2006年8月、清水さんと井の頭線の駒場東大前駅からほど近いところに店舗を開いた。店名は「ル・ルソール」、「弾性、活気、ばね」などを意味するフランス語に決めた。
 共同経営という形も考えたが、上間さんの頭には父親のことが浮かんだ。「後で辞めるかもしれないので、清水君のお店にしておこう。できるだけ助けになるよう頑張るよ」――そう告げた。全部オリジナルのパンにしよう、などと初めのうち意気込みすぎて、2人の間がぎくしゃくしたこともあったが、26歳のコンビは寝る間も惜しんで働いた。「パンの味がわかる人、いいお客さんが多かったですねえ」と上間さんはなつかしむ。
 少しずつ店の経営が順調になってきたころから、父親から再び「帰ってこい」と言われるようになった。自分だけのオリジナルのパンを作りたいと思っていたし、ずっと店を続けたかった。「嫌だよ」と突っぱねていた。けれども父が年を取ってきたこと、兄が病気がちだという事情もよく分かった。「やっぱり帰るしかないのかな……」
 2007年10月、上間さんは東京を離れた。飛行機が離陸する間際、窓から外を眺めたとき、「もう自分の理想は追えないな」と思うと涙が止まらなかった。
 石垣島で悶々と父の菓子店を手伝いながら、ふと自分で焼いたパンをショーケースの隅に並べてみたところ、「おいしかったよ」「今日はパン、ないの?」などとお客さんからの反応が相次いだ。「結局、自分の作りたいものしか作れないんじゃないか」。そう思うと矢も楯もたまらなくなった。2008年の年明けから準備を始め、3月には市街地に「ル・キュイップ」をオープンさせた。

焼き上がったシュー生地を出す上間雄二さん

 オープン当時は30種類ほどだったが、今ではハード系、ソフト系、サンドイッチなど合わせて60種類は並ぶ。上間さんの胸には、いつもリヨンやパリの街角のパン屋の様子が浮かんでいる。「品数が多くないと、お客さんは楽しくないでしょう? 選ぶときにわくわくしてほしいんですよ」
 東京と違って島は人口が少ないため、売り上げの波は大きく、原価率は50%と厳しい。1人で製造も販売もこなすため、ひたすら焼くだけとは違う疲れもあるという。経営者としては、お客さんのニーズに合わせた商品も作らなければ、と考え、あんパンやクリームパンなども焼いている。しかし、そればかりだと実家を継ぐのと変わらない。「自分が本当にうまいと思うものを作りたい。僕は職人としていいものを作り続けたい」と歯を食いしばって頑張っている。
 あるとき、客の1人から「君の焼くパンは確かに一流だ。だけど、石垣にはこんなパンは要らないね」と言われ、ショックを受けたこともある。上間さんは「地域性や食習慣、味覚の違いなどはあると思います。ハード系のパンが苦手な人はいるでしょう。でも、本物は必ずわかってもらえるはず。島の人に、もうちょっとこういう味も知ってほしい、という思いがある。それに、パン屋に限らず、島に移住した人たちがいろいろしゃれた店を開いているじゃないですか。生粋の島人でも、こういうしゃれた店ができるんだ、というところを見せたい」と力を込めて話す。
 土日には、タルトやシュークリームなどの菓子を焼くことにしている。「お菓子を焼いていると、本当に楽しくて」と笑顔がはじける上間さんである。

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PROFILE

松村 由利子
(まつむら・ゆりこ)

歌人、ライター。
1960年生まれ。2006年春まで毎日新聞記者。『与謝野晶子』(中央公論新社)で平塚らいてう賞、『31文字のなかの科学』(NTT出版)で科学ジャーナリスト賞を受賞。2011年、『大女伝説』で葛原妙子賞を受賞。

『与謝野晶子』
(中央公論新社)

『31文字のなかの科学』
(NTT出版)

『歌集 大女伝説』
(短歌研究社)

 
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