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Series コラム
石垣島に魅せられて ~移住者の南島ルポ 松村 由利子
11/01/31

第1回 焼きものの島

沖縄本島から南西に400キロ。サンゴ礁を覆うミントブルーの海、ジャングルやマングローブの濃い緑と一面のサトウキビ畑。ある人はただただ自然に魅せられ、またある人は島ならではの食や文化に入れ込みこの島で暮らす。都会の生活から避難した若者もいれば、島興しに燃える島人(しまんちゅ)の逞しい姿もある。昨年5月、都会からこの島に移り住んだ、歌人でありライターの松村由利子が、島に魅せられた人々を通して、その素顔と魅力を探る。

つぎつぎに現れる陶芸工房

 石垣島に引っ越すとき迷ったのは、今の車を持っていくか、売り払って現地で新たに買うか、ということだった。私の家は島の西端近く、名蔵湾と崎枝湾という2つの湾に挟まれたところにある。市街地からは車で約30分かかるのだが、最寄りのバス停を通る路線は1日2便しかないから、車は必需品だ。しかし、持っていくといってもフェリーに載せなければならず、お金がかかる。最終的に持っていくと決めたのは、真っ赤な四駆で島を走ったら、山の緑や海の青に映えるだろうなあ、という至極ミーハーな思いからだった。別に「逃れる」という意味の車名、「エスケープ」が気に入っていたわけではない。

 それまで住んでいた千葉市は、新聞社に入って最初の赴任地である。勤務先が都内に変わっても、何となくそのまま居着いてしまっていた。島を「千葉ナンバー」の赤い車で走ったら目立つだろうなぁ、なんて思いながら、引っ越し準備を進めた。せっかく車を持っていくことにしたので、千葉から鹿児島まで2週間ほどかけてドライブし、鹿児島港からフェリーに車を載せることにした。石垣港までの輸送費は、9万4000円余り。私の航空運賃よりも高いが仕方なかった。
 石垣島をドライブするのに、ナビゲーションシステムはほとんど要らない。というのも、島の道路はとてもシンプルで、空港やホテルに置いてある無料のタウンガイドのマップを見れば、たいていの景勝地に行くことができるからだ。
 島の地図を見ると、私はいつも、東を向いた首の長い鳥のようだと思ってしまう。市役所や警察署、図書館など公共機関のある市街地は、鳥の腹というか足の付け根あたりで、人口もそこに集中している。北に細く伸びた東側の首の部分には、玉取崎展望台、平久保崎灯台など眺めのよいスポットがある。西側の尾は2つに分かれていて、いくつかの湾に囲まれており、私の家もそのあたりに位置する。
 鹿児島港で愛車をフェリーに載せると、那覇経由で石垣島へ向かった。車は2日後に石垣港へ到着するので、それまでは島の知人に車を借りることにした。いよいよ港へ迎えに行って、なつかしの自分の車を対面すると、「本当にこの島で暮らすんだな」という気持ちがこみ上げてきた。
 さて、石垣島に着いてドライブするとしたら、最初に行きたいのはどこだろう。最も有名な景勝地は川平(かびら)湾である。ここは、鳥の尾っぽの付け根部分に当たる。白い砂浜と青い海のコントラストが、湾に浮かぶいくつもの小島の緑と相まって、うっとりするような美しさだ。この世のものではないような、どこか楽園めいた清らかさが感じられる。雲の動きや光の加減によって、湾のブルーは刻々と変わってゆく。どんなに慌ただしいスケジュールで石垣島を訪れた観光客であろうと、この小さな入り江を見ずに島を去ることは多分ないはずだ。
 市街地から川平湾を目指し、島の西側を走る県道79号線を北へ向かってドライブすると、海に出て間もなく、左側に「アンパル陶房」という小さな看板が見える。それからしばらく左手に海を臨んで走り続け7、8分たつと、今度は右側に「石垣焼窯元」という幟が数本立っており四角い建物がある。さらに15分ほど川平湾を通り過ぎ、今度は東へ向かう79号線を走り続けると、右手に「海廊窯」と書かれた看板があり、もう少し行くと「川平焼 凜火」、そして「米子焼」という看板を見つけることができる。
 わずか20キロ程度のドライブで、これほど焼きものを作っている工房と遭遇することに、ちょっと不思議な気がする人も多いだろう。実は、79号線の道路脇に看板は出ていないものの、このルート沿いには他に「北木山焼」「福耳」「石垣島 南島焼」「陶芸 魚(いゆ)工房」などの陶芸工房もあるのだ。
 面積222.6平方キロメートルの石垣島には、全部で24の陶芸工房がある。それも、2つと同じ焼きものではない。いったい、どういうことなのだろう。

多彩な土に魅せられた人々

 焼きものにそれほど興味があったわけではないが、自分の住んでいる近くに、いくつもの陶芸工房があるのは気になる。買い物や用事で移動すると、必ず数ヵ所の窯元の看板を見かけるのだ。島の知人から、石垣島に陶芸工房が多いのは、陶磁器の原料となる良質の粘土や陶石が採れるからだと聞き、島の焼きものについて調べてみようと思い立った。
 まず、「アンパル陶房」の宮良断さんが土に一番詳しいと聞き、訪ねて行った。「アンパル」という変わった名前は、もともと「網張」から来ている。この近くに「名蔵アンパル」という、マングローブ林や干潟から成る湿地があることから名づけたという。2007年に重要な湿地を保全するラムサール条約で指定された湿地としても有名だ。陶房は海を臨む絶好の場所にあり、同じ敷地内の農園のジューススタンドで、眼前の景色を楽しみながらマンゴーなど果物のジュースを飲むこともできる。
島の土について訊ねると、宮良さんは「島は地質的に複雑で、土の種類が多いんです。同じ地層に真赤な粘土と真っ白な粘土が含まれるなど、10m離れただけで色も性質も全く違う粘土が採れる場所が珍しくない。日本中の土をひとつの島に詰め込んだような感があります」と説明してくれた。

アンパル陶房の磁器のポット

 生まれも育ちも石垣島という宮良さんは、陶芸を楽しむ母の傍らで幼いころから粘土遊びに熱中し、土に慣れ親しんできた。その作品は、高麗青磁を思わせる透明感と、すっきりと美しい形が特徴だ。宮良さんの場合、原料の土は、川平湾の近くから自分で陶石を掘ってきて精製している。
 精製するには、いくつもの工程が必要だ。まず、粘土を日に干してから細かく砕く。それから、水に漬けてごみなどを取り除く「水簸(すいひ)」と呼ばれる工程によって、土の粗さ、細かさを分ける。その後、沈澱した粘土から水分を取り除き、均一になるように練る。練った粘土は、数ヵ月から数年寝かす。その手間を惜しまないのは、「市販の材料を使えば、成分が分かっているので扱いやすいが、自分だけのオリジナリティーを表現したい」からだ。
 石垣島で採れる土は、川平の陶石のほか、南部の冨崎や東部の大里、白保、北部の玉取崎などの粘土が知られるが、他にもいろいろな土があると期待されている。島のほぼ中心にある於茂登(おもと)岳周辺は火山活動によって持ちあがった地層で、いろいろな化学的変化を起こしている。年代的にもさまざまな「タイムカプセルのような地層」だと宮良さんは話す。
 しかし、実際に土を採るのは、容易なことではない。個人の所有地だったり、御嶽(うたき)と呼ばれる聖域だったりして、立ち入ることさえ難しいところも少なくない。静岡県から夫と石垣島に移り住んだ「陶工房 天竺」の寺田奇佐子さんは、「山に入って土を探していたら、『マンゴーを盗りに来たのか』と怒られたこともありました。暑い時期には、草が生い茂ってヘビが出そうなところもあって大変です」と話す。寺田さんの工房は、「アンパル陶房」から市街地に向かう途中、海沿いに曲がった冨崎の小高いところにある。自宅と隣り合った工房のデッキには、粘土の入った大きな袋が水気を切るためにいくつもぶら下がっていた。
多くの陶芸家は、道路工事や河川工事で掘り返している現場があれば必ずのぞいてみる。そして、よさそうな土があると、分けてもらって試しに焼くという。その土が焼きものに向いていることが分かると、頼み込んでトラックで工房まで運んでもらうこともある。「ものすごくいい土が見つかったのに、工事が終わると埋められて、もう手に入らないということも多いんです」と寺田さんは嘆く。
 こうした苦労をなくそうと、いま島全体での取り組みが始まろうとしている。

焼きものを島の産業に

石垣島やきもの祭りの会場

 2010年11月、石垣市で「第1回石垣島やきもの祭り」が開催された。島内24ヵ所の陶芸工房のうち20ヵ所が参加し、会場には個性あふれる陶磁器が並べられた。ナイーヴ・アートのような素朴な味わいの鉢もあれば、色彩あざやかな魚や花が絵付けされた皿もある。参加者の中には島に生まれ育った人も、他県から移り住んだ人もいる。「やきもの祭り」は、島に暮らす陶芸家が一堂に会する初めての試みだった。
実行委員会の中には「人が集まるだろうか」と懸念する声もあったが、2日間の来場者は2600人と、予想をはるかに超えた盛況ぶりだった。私もこれまで数ヵ所の窯元しか見たことがなかったので、会場でそれぞれの作風を見て楽しんだ。
「炎の芸術 新川焼」は多彩な色遣いが特徴だ。代表者の神谷嘉弘さんは「一色では面白くない」とマーブリングなどの技法を用いて、独自の表現を試みる。公務員として働きつつ、石垣島で最も長く陶芸に取り組んできた一人だ。このところ、釉薬が縮れて表面がぼつぼつと凹凸になった「カイラギ」に取り組んでいる。「昔の茶人が好んだ風合いなんです」と笑顔を見せた。
 真っ白な釉薬をかけた器が印象的だったのは「北木山焼」だ。作者の高嶺英喜さんは、「石垣島には雪が降らないので、雪をイメージした器を作りたかった」と話す。「北木山」というのは、石垣島も含まれる「八重山諸島」を指す異称だと、あとで知った。
 温もりの感じられるマグカップや平皿、動物の形をした愛らしい箸置きなど、特に必要ではないものでも、つい買いたくなって困った。訪れた人たち皆そうだったようで、「祭り」の売り上げはよく、出展者の中には展示した器を完売したところもあったという。
「やきもの祭り」の発端になったのは、前年に数人の陶芸家が共同展示会を企画したことだった。展示会の計画を知った石垣市が「せっかくなら全島の陶芸家に参加を呼びかけては」と乗り出し、実行委員会が発足した。ちょうど市の商工振興課が、島内の窯元を紹介する「陶芸工房めぐりハンドブック」を製作したばかりのタイミングだった。ハンドブックを作っている職員らから「石垣にはこんなにたくさんの陶芸工房があるんだね」と驚きの声が上がり、「島の人にも知ってもらい、産業としてバックアップしたい」と話が進んだ。
「やきもの祭り」の準備に陶芸家たちが集まると、数人から「原料となる土をどこで手に入れればよいか分からず困っている」という切実な悩みが聞かれた。他県から移り住んだ人は原料を手に入れるつてがなく、自分で掘り出すか、信楽焼など陶磁器の産地などから購入するしかない。島外から取り寄せると、原料よりも送料の方が高くなることも多い。粘土ではないが、私もネットショップで8000円程度のフロアソファを買おうとしたら、送料が1万円かかるというので、仰天して注文を取り消したことがある。手ごろな価格で作品を販売するには、原料費を抑える必要があるのだ。
 焼きものを産業の目玉の一つにしようと考えた市は、原料の土が採れる場所への合同見学会を計画し、最終処分場の一角に島内2ヵ所の土を保管するストックヤードを設けることにした。また、県の工業技術試験センターに土の化学組成や耐火度の分析を依頼するほか、社会福祉法人「大浜工房」に土の精製、販売を委託するなど、陶芸家の利便を図る試みに取り組み始めた。「大浜工房」は、もともと障害者の働く授産施設として発足し、陶芸品などを作ってきたことから粘土づくりにも携わるようになった。
 施設長の津嘉山航さんは、「島の土を使った食器があちこちの飲食店で使われるようになれば、窯業だけでなく、観光にもプラスになるでしょう。島全体の産業振興と障害者の自立が共に実現できれば、本当に素晴らしい」と、事業の拡大に意欲を見せる。
「やきものまつり」が終わってから、地元紙には開催を評価しつつも「本土出身の業者が多いせいか作風が本土風の焼き物になっている気がした」「石垣島の素朴さと温かみ、味わいに少々欠ける」と残念がる来場者の声が掲載された。
 確かに会場には窯元それぞれの個性あふれる作品が並んだが、「石垣島で焼かれたという息吹」が何を指すのかは、はっきりしない。というのも、300年ほど前に石垣島で作られていた焼きものは途絶えてしまったからだ。「八重山古陶」と呼ばれる陶器が、かつて島にあったことを知る人も少ない。移住者も含め多くの陶芸工房が栄える一方で、八重山古陶についての研究も今ようやく始まろうとしているのである。

琉球王朝と八重山古陶の謎

 琉球王朝時代、仲村渠致元(なかんだかり・ちげん)という優れた陶工がいた。1724年に首里王府から、八重山諸島での陶芸指導をするよう命じられ、石垣島に赴任した。彼が島で開いた黒石川(ふーしなー)窯と、阿香花(あこうばな)窯の2つが「八重山焼」の始まりとされる。
 沖縄の焼きものは2つに大別される。釉薬をかけずに焼かれた荒焼(あらやき)と、釉薬を用いて荒焼よりも高い温度で焼かれた上焼(じょうやき)の2種類だ。1990年代に黒石川窯跡の発掘調査に携わった、石垣市教育委員会文化課の阿利直治さんによると、ここから出土した陶片のほとんどが釉のかかっていないものだったため、「八重山焼は粗悪な荒焼」という見方が定着してしまったという。
 窯跡からは釉薬のかかった陶片もわずかながら見つかったが、釉薬がはがれかけている「めくれ」を起こしたものばかりだった。それは窯で焼いたときに灰が付着して化学変化を起こし、偶然に釉薬の役目を果たした「自然釉」であり、陶工が意図して釉薬をかけた「施釉」ではないだろうと思われた。「つまり八重山焼は、技術的に低いものだったと考えられていたんです」と阿利さんはいう。

18世紀に焼かれた黒釉渡名喜瓶。「八重山古陶--その風趣と気概--」展図録より

 ところが2004年秋、沖縄県浦添美術館で「沖縄の古陶」展が開催された際、骨董店主や個人蔵でそれまで未公開だった「八重山焼」とされる瓶や碗など数点の美しい作品が展示された。その中には、釉がしっかりと付着した上質で趣のある「上焼」が含まれていた。この展覧会を見た早稲田大学文化構想学部の丹尾安典教授(美術史)は、八重山焼の沖縄本島の名窯で焼かれたと分類されているものの中にも、「八重山焼」が交じっているのではないかと考えた。
 そして、「黒石川窯跡から出土した陶片の中で、釉のかかったものだけ見せてほしい」と石垣市教委に申し入れた。連絡を受けた阿利さんは複雑な思いだった。八重山の人間としては、かつて八重山で作られた焼きものが、沖縄本島で作られていたものよりも技術的に劣るものである荒焼ばかりだという事実が残念でならない。粗悪な陶片を見られるのは、決して面白いことではなかった。その半面、今回の自分たちの調査結果に何か疑問が持たれているのであれば、それもまた不本意なことに思えた。「何もありませんよ」。島を訪れた丹尾さんに対して、阿利さんはそう言ったという。
 丹尾さんの方は、「考古学の研究者が見るのと、美術の研究者が見るのとでは、視点が異なる。報告書では施釉された陶器はないということだったが、実物を見ないと分からない」と考えていた。そして、異なる専門領域の研究者が協力すれば、新しい事実を発見できるかもしれないと期待して石垣島へ足を運んだのだった。合同チームが半年かけて釉薬のわずかに残る陶片を仔細に検討した結果、初めに「荒焼」と判断された中に、明らかに意図して釉薬がかけられたと思われるものがいくつも見つかった。阿利さんは素直に「いや、参りました」と言った。すがすがしい気持ちだった。
「石垣島で焼かれた良いものは、琉球政府のあった沖縄本島の市場に出回ったため、窯場には残っていなかったのかもしれない……」。これまで考えもしなかった可能性が浮上してきた。仲村渠致元は優れた名工だった。丹尾さんは「彼に連れて来られた腕のよい弟子が、石垣に残った可能性もある。また、才能ある石垣の陶工が彼に教わったとしても不思議ではない」と見ている。
 文献によると、石垣島に来た致元は後に磁器を王に献じ、琉球王朝で磁器が多用されるようになったきっかけになった。丹尾さんは、致元が石垣島に派遣されたのは、王に磁器制作を託されたためだったのではないかと推測している。というのも、磁器の原料となる土が採れるのは、琉球諸島の中で石垣島だけなのである。そう言えば、「アンパル陶房」の宮良断さんは、美しい青磁の器を焼いている。宮良さんの生真面目な表情が、若き仲村渠致元のイメージと重なって思い出された。
「単に焼きものの技術を伝えるだけの目的であれば、当時、最も高い技能を備えた致元を派遣する必要はない。彼があしかけ3年も石垣島に滞在したのは、磁器制作という特別な任務があったからではないか」。丹尾さんは、300年前の琉球に思いを馳せる。
 今のところ、致元の開いた窯跡の発掘調査は黒石川窯跡しか行われていない。島内にある、もう1つの阿香花窯跡の発掘は、予算の問題などから未調査のままだ。阿利さんは「もし発掘できれば、これまでに見つかった事実をつなぐミッシングリンクとなる発見があるかもしれない。八重山焼とは何ぞや、という答えを見出すには、阿香花窯元の発掘が重要だ」と話す。丹尾さんも「八重山古陶の研究は、沖縄全体の陶器史を考え直すものになるだけでなく、交易や産業の歴史にも問題提起する契機になり得る」と、早期の発掘調査を待ち望む。発掘調査が予算の関係で凍結されてしまうのは、石垣島に限らないが、何とも惜しいことに思える。

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PROFILE

松村 由利子
(まつむら・ゆりこ)

歌人、ライター。
1960年生まれ。2006年春まで毎日新聞記者。『与謝野晶子』(中央公論新社)で平塚らいてう賞、『31文字のなかの科学』(NTT出版)で科学ジャーナリスト賞を受賞。2007年、歌集『鳥女』で現代短歌新人賞、2009年、「遠き鯨影」30首で短歌研究賞を受賞。

『与謝野晶子』
(中央公論新社)

『31文字のなかの科学』
(NTT出版)

『鳥女』
(本阿弥書店)

 
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