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Series コラム
石垣島に魅せられて ~移住者の南島ルポ 松村 由利子
11/01/31

第1回 焼きものの島

島の風土が人を創作に向かわせる

 琉球王府から派遣された名工、仲村渠致元のように、石垣島で窯を開こうと、他県から移り住んだ人は多い。島の土はもちろん、美しい海や山に魅せられ、「ここで焼きものをつくりたい」という願いを持つようになった人たちばかりだ。私自身、島の自然にひかれて住むようになったので、それぞれの体験について興味津々で聞いた。
「石垣島 南島焼」の奈美ロリマーさんは、香川県に生まれた。学生時代に陶芸の先生に弟子入りしたが、ニュージーランドにホームステイしたのが縁で、地元の陶芸家のところで修業するようになった。やがて、ポール・ロリマーさんと知り合って結婚し、1980年から旅行中にたまたま立ち寄った石垣島に住むことに。ポールさんも18歳から陶芸を始めた人だった。

色彩鮮やかな南島焼の皿

 夫から「ここに住もう」と言われたとき、奈美さんは戸惑った。しかし、市の博物館に展示されていた八重山古陶を見て、「ああ、ここで焼きものがやれるに違いない」と直感したという。ポールさんは何度も「すごい」と繰り返して、古い陶器に見入った。夫婦で自転車に乗り、島のあちこちの土を見て回ると、よさそうな粘土があることも分かった。島で焼きものを手がけているところは、まだ2ヵ所くらいしかなかった。屋根を吹き飛ばしてしまうような台風のすさまじさに圧倒されたりもしつつ、だんだん島の暮らしになじんで行った。
「自転車で走っていると、サトウキビを山のように積んだ2トントラックが、でこぼこ道でよく横転してましたよ。いつも、その辺にいる人たちと力を合わせてトラックをもとに戻しました。ありがとう、ありがとう、と言われてね。面白い島やなあと感じました」
 夫が外国人であるため、住み始めても近所の人からはほとんど声をかけられなかったという。移住後1年して初めての子が生まれると、とたんに皆にこにこして話しかけてくれるようになった。「これだけ違うんかな、と思いました」と奈美さんは笑う。もうすぐ更年期、という年齢で島に移り住んだ私には、とても羨ましい。新しい土地になじむには、小さな子がいるのが一番だ。でも、人それぞれに違ったタイミングと縁があると思うしかない。
 奈美さんの工房は、川平湾を過ぎて間もなく山の奥へ入ったところにある。南島焼は、赤土主体の粘土で作った素地に、白い化粧を施して絵を描くのが特徴だ。伸びやかな筆で描かれたクマノミやアカショウビン、ブーゲンビリアなどが生き生きとしている。南島焼のファンは、海のものが描かれた食器を好んで注文するが、ここ数年、奈美さんは石垣島の植物に改めてひかれるようになった。散歩の折などにスケッチしては陶器に描いている。「ある時ふと、ここにあるもの、自分の目に留まったものを全部描いてみよう!と思ったんです」
 温暖な気候の島では、どの季節にも何かしら花が咲いたり実がなったりする。私も島の植物を知るために本を買ったが、なかなか名前が覚えられない。スケッチ帳を見せてもらいながら、ああ、もっと勉強しなければ、と思った。奈美さんは「歩き回るたびに、何か新しいものと出会う。それが自分のエネルギーの源になっている。いつか島にある植物をすべて描いた焼きものを作り、展示会を開くのが夢です」という。
「川平焼 凜火」の窯は、「南島焼」からさらに、79号線を東に向かった山の中腹にある。神奈川県出身の渡邊裕さんがここを選んだのは、山が好きだったからだ。神奈川といっても、生まれ育った津久井郡(現・相模原市緑区)は、海のない北西部に位置する。山歩きが好きであちこち歩いた渡邊さんは、「緑があると落ち着くんです」という。
 初めて石垣島を訪れた19歳のとき、島の自然に魅了された。何か感じるものがあった。毎年のように訪れ、沖縄県内の他の島にもほとんど足を運んだが、やっぱり石垣島が一番よかった。96年に島に移り住み、飲食店を開いたのがきっかけで陶芸を真剣に志した。自分の店で使う食器を作りたくなったのだ。
 沖縄本島の陶真窯で3年間修業した後、2003年夏、自分の窯をスタートさせた。陶真窯は、沖縄の代表的な古窯のひとつ、壺屋焼の流れをくむ窯元だ。ちょうど石垣島で焼きものをやめる人がいて、登り窯を譲り受けた。いつもはガス窯で焼いているが、年に1回登り窯で作品を焼くのが楽しみだ。薪を焚いた天然の火によって、全く予期しない色や風合いが生まれるのが面白くてならない。

登り窯に薪をくべる渡邊裕さん

 2011年1月7日、窯の扉の前に米と泡盛と塩を備え、祈りを捧げる渡邊さんの姿があった。「うまれしみそーれ」――よいものを生まれさせてください――と唱え、少し杯に口をつけてから泡盛を窯に注ぐ。火の神へ捧げる祈りである。私も杯を渡され、恐る恐る窯の前に立った。「うまれしみそーれ」とつぶやくと、厳粛な気持ちにさせられた。渡邊さんはそれから少しずつ薪をくべ、窯を熱してゆく。50時間から60時間かけて焼くので、3日間は手伝ってくれる人と交代で睡眠をとって火を守る。1200度になった窯の入り口からは、太陽の表面を思わせるオレンジの炎が見える。どんな色や模様が生まれるか、焼き終えるまでは分からない。ひたすら薪をくべ続ける。私が「何百年前の人たちも、こうやって焼きものを作っていたんですね」と話しかけると、渡邊さんはややあって「本当に。温度計もマニュアルもなくて、どうやって焼いていたんでしょうね」とつぶやいた。私たちはしばらく黙って、レンガのすき間から見える高温の火を見つめた。
 焼き上がると、窯が自然に冷えるのを待つ。焼いた時間と同じ時間そのままにしておくのがよいという。1月12日午後、出来あがった作品を窯から出す作業が始まった。大きな壺や平皿からマグカップ、箸置きまで、大小さまざまな焼きものを並べてゆく。対になったシーサーもある。全部で400点以上になるだろうか。素手で受け取ると、どれもほの温かい。「生まれさせる」という言葉を実感した。
 なぜ石垣島だったのだろう。渡邊さんにも、それは分からない。ただ「石垣島は作ることが好きな人が集まりやすいところではないか。美しい自然とのんびりした環境が、人を創作に向かわせる」と話す。製作するのは、あくまでも普段づかいの食器でアートではない。「自分は『うつわ屋』。家庭で使ってもらえる、手になじむものをこの島で作り続けたい」と話す。

ないちゃーの器、パリで青く輝く

海を思わせるブルーが印象的な石垣焼

 石垣島に他県から移り住んだ人は多いが、全く苦労がないわけではない。地域になじむには、年月も努力も必要だ。時には地元の人たちとの摩擦が生じることもある。
県道79号線で川平湾に向かう途中にある「石垣焼窯元」の当主、金子晴彦さんは、海の美しさに魅了され、この地に移り住んだ。窯元が開かれたのは1999年である。
 もともと福岡・博多に生まれ育ったが、小学6年生のとき、一家4人で鹿児島最南端の与論島に移り住んだ。写真家だった金子さんの父は、撮影の仕事で南西諸島に通ううちにすっかり島に魅せられたのだという。そこには、かつて共に特攻隊に志願し、南洋で最期を遂げた仲間への思いもあったようだ。そして、貧しい与論島の状況を見て「何か新しい地場産業を育てられたら」と陶芸に取り組み、陶器とガラスを融合させた焼きものに挑戦し始めた。
「写真家だったから、かえって陶芸の"常識"にとらわれずに挑戦できたんでしょうね」と金子さんは話す。陶器とガラスでは融解や凝固の温度が異なるため、焼きあげた後に冷えて固まる段階で、ずれが生じて割れてしまう。工芸の世界には、七宝焼のように金属の上に釉薬をのせて焼き付けてガラス様にしたものはあっても、陶器とガラスを融合させたものは不可能と考えられていた。金子さんの父は試行錯誤の末に2つを融合させ、魅力的なブルーを陶器に焼きつけることができるようになった。
 与論島は人口6000人で、面積はわずか20平方キロ。あまりにも小さく、産業として焼きものを成功させるのは難しかった。与論島の新しい産業に、という父の願いは結局かなわなかったが、金子さんは半ばそれを継ぐ形で、石垣島に新しく窯元を開いた。石垣島を選んだのは、与論島と同じように海が美しいこと、そして釉薬のもととなる土が豊富なことも大きな魅力だった。「美しいものを作って、世界へ羽ばたけ。日本の宝である海を表現した皿を見たら、どんな人も必ずそこへ行きたくなる」――。それが、がんで亡くなった父の遺言だった。
 窯元に「石垣焼」と名付けたのは、陶器とガラスを融合させた独特の手法で焼かれた焼きもののブルーを、島のイメージと結びつけたかったからだ。
 調べてみると、石垣島には金子さんよりも前に開業した窯元がいくつかあり、「石垣島」「石垣島焼」という名称を冠した陶芸工房もあった。しかし、「石垣焼」という名称で商標登録したところはなかったので、金子さんは当時の窯業組合長に承諾を得たうえで申請したという。ところが、いざ看板を掲げると「よそから来た人間が、どうして『石垣焼』という名前を使うのか」という声が上がった。
 私は引っ越してきて間もないころ、他県からの移住者は「ないちゃー(内地から来た人)」と呼ばれることを島の人から教わった。あるとき私は、島で生まれた20代の女性が「自分はしまんちゅ(島人)だけど、お父さんは島ないちゃー」と言うのを聞いて驚いた。彼女の父親は、既に30年ほど石垣市民として生活しているのだが、ようやく「ないちゃー」から「島ないちゃー」に格上げされたに過ぎないのだ。そうか、「しまんちゅ」にはどう頑張ってもなれず、島ないちゃーになるにも相当の覚悟が要るんだ……。金子さんの話を聞きながら、そのときのことを思い出し、何だか自分が地元の人から反発を受けたような気持ちになってしまった。

ろくろを回す石垣焼窯元の金子晴彦さん

 しかし、ろくろを回しているときの金子さんの表情は、幸せそうだ。「ろくろを回し土をさわっているとき、いつも『自分は地球をさわっている、地球とつながっている』という感じがするんです」と話す。
 金子さんは、次々に新しいことに取り組んでいる。2005年に名古屋で開かれた「愛・地球博」では、「環境がテーマの博覧会に、沖縄の海を著した皿はぴったりだ」と、直径三尺(約90cm)の大皿づくりに挑戦した。2009年には「石垣島の海だけでなく、山も表現したい」と、陶器に木の葉を焼きつける「木の葉天目」の碗に挑戦した。木の葉天目をつくるには、ケイ素を多く含むムクやケヤキなどの葉が適しているが、島に生えている植物の葉にはケイ素が少ない。しかし、金子さんはどうしても石垣島の植物で作ることにこだわり、3年かけてクワの葉で成功させた。
 2011年1月下旬には、パリで開かれた「メゾン・エ・オブジェ」見本市への出品を果たした。この見本市は、毎年2回パリで開催される世界最高峰の見本市の一つで、主催者の審査を受けて出展の可否が決まるという、敷居の高さでも知られる。ジャパンブースで青く輝く器には、「沖縄の海を表現し、世界中の人たちに石垣島に来てもらいたい」という金子さんの強い思いが込められていた。
 その思いはきっと、旅行者だけでなく、島の人たちにも伝わるに違いない。金子さんも私も、ここで「島ないちゃー」と呼ばれるようになるまで頑張れればいいな……そう思う。

伝統からはみ出して

「ないちゃー」でなくとも、新しい試みをすれば風あたりが強くなることもある。「米子焼工房」の愉快なシーサーも、最初は批判的に見る人が少なくなかった。
 この工房の名を知らなくても、「石垣島の米原キャンプ場近く、大きなオブジェが並ぶところ」と言えば、「ああ!」と分かる人が多いはずだ。米原は島の中心部から真北に向かったところ――島を1羽の鳥になぞらえると背中の部分に相当し、東シナ海に面している。サンゴ礁の海が美しく、常緑樹の防風林が心地よい木陰をつくるので人気が高い。キャンプ場の目印となっているのが、道路際に並ぶカラフルな巨大オブジェだ。このオブジェ、実は沖縄に古くから伝わる魔よけの「シーサー」であり、「米子焼工房」の名物となっている。巨大オブジェの並ぶ一角はすっかり観光スポットとなり、「石垣島に行ったら、ここで写真を撮らなきゃ、って思ってました」とカメラを取り出す人も多い。ここは2010年に創業30年を迎えた、石垣島で最も古い窯元の一つだ。

米子焼工房のオブジェ

 初めてここを見たときは、オブジェの数と奇妙さに圧倒され、何だか島のイメージに合わないような気がした。でも、よく見ると愛嬌のある顔ばかりだし、明るい原色はブーゲンビリアやハイビスカスの花と同じように、南国の青空に映えることが分かってきた。
 このオブジェと同じ色調、表情のシーサーが、米子焼工房のヒット商品だ。ちょうどバブル経済がはじけた時期に、社長の勝連久誌さんが「これからは、人の気持ちを和ませるものが必要。自分は伝統的なものでなく、楽しさを表現しよう」と考えて試みたものだという。それまでの10年あまり、勝連さんは中国からの渡来品である曜変天目茶碗の復元にエネルギーを注いでいた。見る角度によって輝きや色合いが変わる曜変天目は、焼き上げるのに高度な技術が求められ、陶器としても高価なものである。その反動のように、勝連さんはバブル崩壊後、遊び心たっぷりに大笑いするシーサーを作り始めたのだった。
 焼いたあとに彩色する手法で、明るい色に仕上げたのも時代に合ったのだろう。愉快な表情のシーサーは、たちまち人気を集めた。今では携帯電話のストラップや卓上の飾りの小さなものも含め、年間10万個が売れるという。
 店長を務める妻の幸子さんは、「同業者から面と向かって『あなたのところのシーサーは、シーサーじゃない』と言われたこともありました」と振り返る。久誌さんは沖縄本島出身、幸子さんは石垣島出身だ。他県からの移住者でなくても、新しいことを始めたときにはそんな言葉を浴びたのか、と不思議な気持ちでその笑顔に見入ってしまった。

米子焼のシーサー

 幸子さん自身、伝統的なシーサーのイメージが強く、初めのころは恐る恐る彩色を施したという。そのうち「あら、売れるじゃないの」と、どんどん明るい色になっていった。その後、同業者の中には「あなたたちは、シーサーの革命を起こした。おれたちの今までの修業は何だったのかな」という人も現れた。
 もともと久誌さんは、開業以来、新しいことに挑戦し続けてきた人だ。
創業して間もないころ、市内にある旧武家屋敷、宮良殿内(みやらどぅんち)に、かつて不思議な茶碗があったことを知った。宮良殿内は琉球王朝時代に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。そこにあった伝来物の茶碗は、約250年前に中国から贈られたもので、八分目まで注ぐと普通の茶碗として使えるが、縁近くまでなみなみと注ぐと、あっという間に全部底から漏れてしまう。まるで「欲張ってはいけない」という教訓を与えるような茶碗だったという。
 久誌さんがその話を聞いた時には、すでに茶碗の現物はなく、話だけが語り継がれていた。興味を抱いて宮良家の了解を得ると、さっそく幻の茶碗だったものの復元に取り掛かった。茶碗の底を盛り上げ、中に空洞をつくることでサイフォンと同じ仕組みになることは分かったが、最初は100個焼いても20個程度しか成功しなかったという。しかし店頭に置くと、次から次に売れる。少しずつ成功率を上げていったが、「おみやげに買い求める人が多く、焼いても焼いても追いつかないほどだった」という。
 今も人気商品の「教訓茶碗」だが、米子焼工房は特許を申請していない。思わず「類似商品がどんどん出たんじゃないんですか?」と訊ねると、久誌さんは涼しい顔で「もともと伝来物の茶碗があったわけで、私の発明ではありませんから。みんなで作って、初めて名物になる。それでいい」と話す。幻の茶碗の底には、手を合わせた僧侶のような像が立っていたという。米子焼の教訓茶碗には大笑いしているシーサーが入っており、その内部が空洞になっている。僧侶もシーサーも「欲張っちゃダメだよ」と現代に伝えているような気がして、特許のことを気にした自分が少し恥ずかしくなった。
 伝統的なイメージを変えた革命的なシーサーは2010年夏、パリで開かれたポップ・カルチャーの祭典「ジャパン・エキスポ2010」に出展され、現地でも話題を集めた。「日本の端でやってきたものが外国で評価されるとは、本当にうれしいです」と夫妻は喜びを語る。

多様さが織りなす島の焼きものの未来

 石垣焼も米子焼も、伝統にとらわれず新しい焼きものを追い求めたところで評価されている。八重山古陶がいったん途絶えたのは残念なことだが、「八重山焼」という伝統と切り離されたところで、いま石垣島にいる陶芸家たちが伸びやかに自分の世界を広げているのは、幸せなことではないかと感じた。
 沖縄本島には、いくつかの古い窯元が伝統を守っており、その中には有名な壺屋焼も含まれる。壺屋焼は17世紀の終わりに琉球王府によって統合された窯元で、薩摩藩の支配下に置かれるようになった後に一度低迷したが、柳宗悦らの民芸運動によって再評価されるようになった。壺屋焼の陶芸家、金城次郎が人間国宝になったこともあり、力強い魚の絵に代表される独特の作風は今も継承されている。
 けれども、それは沖縄本島の窯業を盛んにしたと同時に、現代の陶工たちを縛ることにもなったかもしれない。「アンパル陶房」の宮良さんは、「沖縄本島の作家は多かれ少なかれ、金城次郎の影響を受けた表現になっている。ある意味、頭打ちとも言える状況だと思う。逆に石垣島では、工房の1つひとつが違う作風で、それぞれ豊かな自然からインスピレーションを得ていることを示している。土の多様性、面白さからも、島の焼きものの可能性の大きさを感じさせる」と話す。
「新川焼」の神谷さんも、「八重山古陶は途絶えてしまったが、多くの陶芸家がおのおの作っているものから、将来新しい『八重山焼』が生まれるのではないか」と見ている。
 転勤がきっかけで島に移り住むことになった人、国内外への放浪の旅を続けた末に島に落ち着いた人……出身地や経歴、目指すものもさまざまな陶芸家たちが、石垣島で心を傾けて焼きものを作っている。もしかすると遠い将来、島の焼きものを総称する新たな名前が生まれるかもしれない。けれども今は、陶芸家も買う人も作風の多様さを楽しめばいいのではないかと思う。石垣島が「焼きものの島」としてどう発展してゆくのか、この島に暮らしつつ見守るのが楽しみでならない。

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