風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/11/30

第13回 ビジネス言葉が常識を壊す

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 相変わらず言葉やコミュニケーションについて気になることをよく耳にする。先日、自動車保険のことである会社に問い合わせをしたときのことだ。だいたいこの手の応答は、最近ではマニュアル化されているので似ている。そのなかでとくに気になるのがこちらの話すことをいちいち繰り返す点だ。「確認せよ」と上から言われているのだろうから、電話口の人を責められない。しかしひと言ひと言繰り返されると、私の性格がせっかちなこともあるが「そこは反復する必要がないから先へ行こう」と言いたくなるし、事実言ったこともある。
  オウム返しの確認と同様に変なのが、妙な相づちである。ある旅行予約を電話で行ったときのこと、「○日前まではキャンセルができるわけですね」などとこちらが尋ねると、手慣れた感のある電話口の女性は、すぐ「さいざあす」と早口に返す。ほとんどなんでも「さいざあす」だ。回転を遅らせて再生すると、「さようでございます」になる。
 この種の相づちとしてはほかに「おっしゃるとおりです」というのもある。なにか言えば「おっしゃるとおりです」が返ってくる。「……ということは、今申し込むと2割得になるわけですね」などと言えば、「おっしゃるとおりです」と返ってくる。これで「おれって、意外とわかりがいいな」と、ちょっと気分がよくなったりする?かもしれないが、二度三度とつづくと「かったるいな」となる。最後はたぶん「月曜日の次は火曜日ですよね」と言っても「おっしゃるとおりです」となるのだろう。
 自動車会社の話に戻ろう。ここでも度重なるこの種の繰り返しの最後に、こちらの疑問点に対して改めて連絡をくれるというので、こちらの携帯の番号を教えることになった。最初に「090」と私がゆっくり言い、彼が「090」と声に出して確認する。つづいて「25××」と4つの数字をゆっくり言うと彼もまた「25××」とゆっくり繰り返す。同様に最後の4数字もこちらが言って彼が確認した。その後で彼は、「それでは繰り返させていただきます」と言って、はじめからゆっくりと言い始めるではないか。「おい、いま繰り返したのは確認じゃなかったの」と思ったが遅かった。あっさり「090 25×× ××××」ですねと流すのならまだしも・・・、あーめんどくさい。
 こういう話を本誌で毎月新書のレビューを書いてもらっている菊地武顕さんに話すと、そんなもんじゃないですよ、という話が出てきた。菊地さんも私に輪をかけて、筋の通らない話やわけのわからない表現に、「?」とひっかからないではいられないタイプである。
 この菊地さんが、最近電話料金のことで不明確なことがあったので電話で問い合わせをした。そのときの話を教えてくれたのだがこれには声を上げて笑った。彼の質問に対して、先方の男性は的確な答えをすることができない。そのやりとりのなかで、それなのにというかそれでもというか、電話の相手は、菊地さんの言うことをいちいちオウム返しにする。言い方はていねいだがらちがあかない。そのうち菊地さんもイライラしてきて「いちいち、こちらの言うことを繰り返さなくていいから!」と声を荒げた。すると相手が答えた。「はい、いちいち繰り返してはいけないということですね」
 この後、菊地さんが「てめぇなめてんのか……」と言ったか、それとも呆れて笑ったかどうかわからないが、どちらかだろう。

 リスク回避と引き換えに失ったもの

 菊地さんの相手をした人も理解力は別にして、おそらく会社か上司に教えられたことに忠実に従おうとしたのだと推測する。例えば過去形の奇妙な使い方として、小売店の店員が使う「~よろしかったでしょうか」や、量販店などで店員が客の顔も見ないでただ繰り返す「いらっしゃいませ、こんにちは」にしても、自ら考えてそう言っているのではなく、店の方針やあるいは業界の慣例をそのまま使っているのだろう。
 だから、こうした妙な言葉については、働いている人にあれこれ苦言を呈するべきものではなく、企業やビジネス界に向けて言わなくてはならない。というのも私だけでなく、多くの人が違和感を覚える、あの問題ある「~させていただく」という言葉遣いについて、「上司から使うように指導された」という人が結構いるのだ。
 メールの文章で、「~いたします」と書いたところ、上司から「もう少していねいに」と言われ「~させていただきます」と直されたという例がある。この諸悪の根源(その理由については、本誌のバックナンバー並びに、過去に本誌で連載した『鏡の言葉』を参照していただきたい)ともいえる「~させていただきます」については、最近では作家の村上龍氏も、新作「歌うクジラ」の出版に関連して、この言い方が「責任やリスクを背負わない言い方だ」と指摘している。
 
 会社や業界で、社会人としての言葉遣いや振る舞いについて教えられるという点については、昔も今もかわらないだろう。だとすれば、一般社会のなかの言語力が衰えているのか。それはベースとしてあるだろうが、社会のなかでもとくに会社やビジネスの世界で使われる言葉に問題があるのではないだろうか。
 一例をあげれば、サービス産業が増え、アルバイトや契約社員が増えるなかで、若年層が労働力として求められる。ここから先は想像も含めてだが、顧客対応について会社は彼らをマニュアルによって画一的に教育するのは言うまでもない。一方、顧客の満足度を高めかつクレームに対処するという方針から、失礼のないようにそして落ち度がないようにしようという意識が働く。
 そこで、言葉遣いや対応にも気をつけようと従業員の教育が行われるが、言葉については、リスク回避のため最大限のていねいな表現を採用するのではないか。微妙な言い回しや敬語の多様な言い方を覚えるより、効率の面からまずシンプルな言い方を覚えさせるのだろう。
 一方、かつてと違って家庭や学校で言葉遣いの基本を教えられない十代は、仕事で教えられる敬語が基本になってしまう。しかし、そもそも人と人とのコミュニケーションにおける礼儀は、相手や状況を見て判断することが基本であり、それはより複雑で多様である。そこでの画一的な対応は、私や菊地さんが感じたように相手によっては違和感を生じさせてしまうのだ。
 ていねいなものの言い方にはいろいろあるのに、なんでもかんでも「~させていただく」を使って、時に不快感を相手に与える。失敗を恐れるあまりオウム返しをつづけ、かえってコミュニケーションを損なってしまう。それなのに、相変わらずテレビの世界では、芸能人をはじめアナウンサーまでもが「~させていただく」を連発して若い人に影響を与える。
「番組に出演させていただきました」といった、スポンサーかテレビ局にへりくだったかのような言い方が蔓延して、なにかこういわないと失礼にあたるかのように茶の間を錯覚させてしまう。
 いまや、政治の世界にも、失敗を恐れ、国民に媚びるような印象をもつ「~させていただく」言葉が蔓延してしまい、これに象徴されるように主体性や独自性は後ろに隠れてしまった感がある。妙な常識に惑わされないような言葉の教育を是非専門家の手で進める運動を起こしてほしいと切に願う。

(編集部 川井 龍介)

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