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Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
09/10/31

第9回 「させていただく」問題を総括する

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 日本の球団かメジャーか。野球ファンが固唾をのんでその進路を見守っていた高校球児、菊池雄星投手が、このほど日本のプロ野球に挑む決意を明らかにした。記者会見の席上では、内外のプロ野球関係者への配慮と、これまでお世話になった人への感謝を表した。
 いろいろ言葉を尽くすなかで、肝心の進路については「日本のプロ野球でプレーをさせていただきたいと思います」と話していたのが印象に残った。同じ頃、ワイドショーを独占した酒井法子被告の裁判があったが、メディアが法廷での酒井被告の言葉を紹介していた。それによれば、彼女は今後のことについて「・・・介護の仕事をさせていただきたい」と、言っていたようだ。
 この報道の陰に隠れた感があったのが臨時国会開会の模様。注目された鳩山首相の所信表明演説は、抽象的との批判はあったが変革と理想を堂々と掲げた清々しい表現が目立った。弱者や少数派に対しての配慮を強調した。そしてこの点を「・・・友愛政治の原点としてここに宣言させていただきます」と高らかにうたいあげた。
 数日後、人気報道番組、報道ステーションでキャスターの古舘伊知郎氏は、八ッ場ダムの問題に関連して、「私も八ッ場ダムに行かせてもらいましたが」と話す。NHKの朝のテレビドラマで主人公の母親役を演じている羽田美智子氏は、テレビ番組で自著を紹介するときに「出版させていただきました」と、笑顔で語った。

首相もアナウンサーも・・・

 スポーツ選手、芸能人、政治家、そしてニュースキャスターなど、どうしてこれほど「させていただく」は、広まったのだろうか。かつてはこれほど使われてなかったと思う。揚げ足をとるつもりは毛頭ないのだが、この「させていただきます」はいくらなんでも不適当に多用されている気がする。
 この点については、日本語の専門家の間でもずいぶん指摘されてきた。私も以前、この「~させていただきます」の蔓延についてこのコラムで触れ、ウイルスのように広まっていると表現したが、その勢いは止まるところを知らないようだ。ふつうに「~します」「いたします」と丁寧に言えば済むところでも、「~させていただきます」と表現する例はやたらと目にするし耳にする。
 首相の例を引き合いに出せば、「・・・ここに高らかに宣言します」と、ストレートに表現した方が、よっぽど力強く、清々しい感じがするがどうだろう。宣言するくらいだから、堂々たる決意だろうに、誰かに許可を得るような「~させていただきます」じゃ、腰砕けになる。また、私も八ッ場に取材に行ったが、取材に特別許可がいるわけでもないし、ありがたがる必要もないので、ふつうに「八ッ場ダムに行きました」でいいのではないだろうか。

待望の「おかしな敬語」考察本、登場!

『バカ丁寧化する日本語』
(光文社新書)

 漢字を読み違える前首相とは違って、インテリを自認する?鳩山首相までがあえて使っているので、こうなると「~させていただきます」で結ばないと、なんだか無礼に思われるのかと心配するほどになってしまう。
 この表現に象徴されるように、いまやどこでも敬語そのもの、あるいは敬語的な表現が過剰なまでに多用されている。言葉は生きているので、時代とともに変わるのも仕方ない。しかし、この「させていただきます」表現が、時と場所を間違えると、妙なニュアンスになったり慇懃無礼になったりして、どうしても違和感がある。こう感じている人は私以外にもたくさんいるようで、ぜひ違和感が生じる理由を言葉の専門家の立場から、詳しく論じてくれる人がいないかと待っていたところ、このほどまさに我が意を得たりといった本が出版された。
バカ丁寧化する日本語』と題されたこの新書は、副題に「敬語コミュニケーションの行方」とあるように、敬語の使われ方や敬語に対する考え方について批判的な見地から論じている。
 著者の野口恵子氏は、日本語とフランス語の教師であり、学生たちとの交流から、若者の間で実際に使われている言葉などを例にとって、専門家の立場からこれまでも現代の日本語のおかしな表現について批判的な見地からやさしく解説している。
 2004年には『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)を著すなど、これまでにもここ10年ぐらいでその使用が顕著になってきたおかしな日本語について論じてきた。『バカ丁寧~』は、いわば現代日本語表現の問題を扱った第2弾になる。このなかで、およそ4分の1を「~させていただく」表現にあてている。この表現をめぐる考察のなかでは、もっともまとまっていると思われる。
 著者は、敬語の使い方として、文法的に誤用と思われる表現については細かく指摘しつつも、それを頭から批判するのではなく、その背景にある現代人のコミュニケーションの在り方や、誤用を誤用と知らずに使っている実情についても記す。さらに、敬語というものの意味を探り、単に用法にとらわれずに、コミュニケーションのなかで適切な敬意を示す方法について示唆する。逆に、形式だけにとらわれる敬語の使い方の問題点を指摘する。
 具体的に「~させていただく」について、本書のなかで解説している部分を、参考までにまとめてみたい。
 まず、「~させていただく」を使ったさまざまな例をあげて、どういう状況だとそれが適当で、どういうときに耳障りだと感じるかといった点について考察する。その基準の一つは、直接的な表現だと失礼にあたるとか、無礼に感じるかどうかである。

 例えば、商店が休業するとき「休ませていただきます」というのが、自然な謙譲語として好ましいと感じるか、それとも不快に感じるかなどについて、双方の感じ方の理由を考察する。謙譲語の使い方として文法的に適当かどうかというより、使う状況と人の心理にも立ち入ってみる。
 つぎに著者は、これは不適当ではないか、という例をあげて、その理由を述べる。まず、なるほどと納得したのは、「~させていただく」が、誰に対して、謙遜して感謝の意を表しているか、という点を明らかにしてくれた点だ。
 少々長いが、以下著者の言葉をそのまま引用する。

誰に感謝しているのか?

「させていただく」は本来、私が何かをする、それはあなたが許可してくれたからだ、そのことを私はありがたいと思っている、という意味を込めて使われるものだ。したがって、たとえば放送局を退職した元アナウンサーが、一般の人に向けての講演会で次のように言うのは、実はおかしい。
「局アナ時代は、この番組とこの番組を担当させていただきました」
 そこにいる聴衆は、元アナウンサーが番組を担当することにゴーサインを出したわけでもなく、番組を持てるように便宜を図ったわけでもなく、元アナウンサーに仕事を斡旋したわけでもない。聞き手が一般の人々ではなくて、自分を番組に起用したプロデューサーとその家族、あるいは、放送局時代の元上司らに向かって話をしているのなら、恩恵を受けたことを示す意味で、「担当させていただきました」と言ってもよいだろう。アナウンサーに仕事の面での許可や恩恵を与えていない一般聴衆を前にして「させていただく」を使うのは、へりくだって立てる相手を少し間違えている。

 つまり、なにかを「させていただく」時は、許可を得て感謝をする相手がはっきりしているのだ。「対象を限定して持ち上げる」という言い方も著者はしている。
 そのうえで、もし感謝の気持ちをみんなに表したいのなら、「皆さんのおかげで」というような別の表現をプロであればいくらでもできるだろうと指摘する。確かに、語彙の少なさや表現力の乏しさというのが、「させていただく」をはじめ「大丈夫」や「~もらっていいですか」といった言葉に集約されている気がする。
 この点から先の鳩山首相の言葉を考えると、まさに「国民に対して、許可を得て感謝する」ととらえれば対象を特定しているとも言えるが、であればなんだかとても大げさになる。また、国民の意向に沿っていこうという優しさや控えめな態度の表れと評価する人もいるかもしれないが、リーダーシップの弱さと映るのではないか。

ふつうに話せば間違いは減る

 著者はまた、「~させていただく」の濫用がもたらす弊害についてまとめている。その一つとして、本来の謙譲の意味は失われて、ただのポーズとして便宜的に使われている例をあげる。市役所からの市民宛の文書で「今後の検討課題とさせていただく」といったようなやたらと「~させていただきます」を使った文書がいかに形のみに終わっているかを示す。
 しかし、人によっては「~させていただきます」がつく方がしっくりくるという人がかなりいるだろうという配慮もする。そのうえで、さらに著者が指摘するのが「させていただく」の無理な使用が意味不明な表現をもたらしている点である。敬語の誤用についての解説を含めて、専門家ならではの問題の表現の"解剖"をしてくれる。
 おもしろい例が二つ紹介されている。一つは、「携帯電話のご使用はご遠慮させていただいております」という電車内のアナウンス言葉だ。聞いたことがあるような言い方だが、これはよく考えれば変な日本語である。
「させていただく」と言っているのは、アナウンスしている本人だとふつう考えられるのだが、誰が遠慮するのかといえば、もちろん乗客である。ほかにもおかしなところがあるが、詳しくは本書の解説をご覧になっていただきたい。著者も言うように、妙にへりくだらず「携帯電話の使用はご遠慮ください」と言えばいいのである。
 つぎに、飲食店の貼り紙にあるような「お車でお越しのお客様には、お酒はご遠慮させていただいております」という言い方。遠慮するのは誰なのかがはっきりせず変である。著者は、これらは"元はといえば「させていただく」の蔓延による言い間違いだと思う"と推測する。
 こういう変な言い方をしたとき、著者は敬語の部分をふつうの言い方に戻してみると、どこがおかしいかわかることを示す。先の言い方は、「~お酒は遠慮させてもらっています」と直してみれば、どうみても遠慮しているのは店の方だ、となってしまう。本来店の人が言いたかったこととは違う結果になってしまう。
 この貼り紙の言葉も、車で来たらお酒を飲むのも出すのも法律違反なのだから、すっきりと「お酒はご遠慮ください」とか「お酒を出すことはできません」と言えばいいのである。
 もし、それがストレートすぎると心配であれば、ほかの言葉で補ってみるという手がある。「あいにくですが」と前に置いたり、「ご理解ください」と、最後にまとめたりすれば表現もやわらぐだろう。著者が考えるように、なんとしても「させていただく」をつけることを考えずに、あるいは、敬語を使おうとせずに、ふつうの話し方で済むところは、その方が間違いはないし、意味も通るはずだ。
 大人が無理してなんでも「させていただく」を使っていれば、若い人もそれがあたりまえになって、かえって誤用したり混乱に陥ったりするだろう。妙な敬語や持って回った表現はやめてまずはふつうの話し方にもどろうではないか。

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