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この映画をつくるきっかけになったのは、なんだったのでしょうか。 |
酒井 |
1998年に初めて台湾を旅行したとき、バス停で日本語のできるおじいさんに会ったんです。彼は日本統治下の公学校(小学校)に通っていたことがあって、是非その当時の先生に会いたいと話すんです。私はそのときは、話を聞いただけで終わりにしてしまったのですが、日本に帰ってから、「そういう人がいる台湾とはどういうところなのだろうか」と思い、ずっと気になっていました。それから将来、台湾に関する本を書きたいと思いました。 |
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その当時はまだ新聞記者をされていたんですね。 |
酒井 |
ええ、しかし、2000年の春に新聞社を辞めて、再び台湾に行きました。あのときのおじいさんに会えないかと、探しました。残念ながら見つかりませんでしたが、きっと同じような人はいるだろうと思い、もっと日本統治下の時代を知るいろいろな人を探そうと、02年から台湾に通いました。 |
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このときは、文字ではなく映像の世界で、台湾を描こうと決めていたのですか。どうして映画という表現手段をとられたのでしょうか。 |
酒井 |
![](images/spe19_1.jpg) 新聞記者時代に函館にいまして、ここでは毎年映画祭があって、映画のロケも行われていました。もともと学生時代から映画は大好きでよく映画館に通っていましたが、これを現場で取材しているうちに映画作りに興味をもちました。実際、現地でさまざまな人の話を聞いているうちに、この人たちの生の声を届けよう、そのためには映像と音声で伝える方がいい。とくに彼らの語る日本語は文字では伝えられないと感じました。 |
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台湾には頻繁に通われたと思いますが、取材はどのようにして進めたのですか。 |
酒井 |
通算すると15回くらい通い、滞在日数にすると90日くらいです。ほぼ台湾全土に行きました。まず、現地ではとにかく人に会うようにしました。駅を降りて、「日本語が話せる人はいませんか」ってきくと、近くにいた人がだれかを連れてきてくれたりする。ローラー作戦で日本統治下を知る人を探しました。現地で友だちになった人に案内されて、原住民に会いに行ったりもできました。若い人とはなんとか英語でコミュニケーションをして、あとは日本語で通しました(笑)。それで、東京に戻ると、今度はとにかく台湾のことを知る人を紹介してもらったり、その繰り返しです。
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もっとも酒井さんを惹きつけたものはなんだったのでしょうか。 |
酒井 |
それまで台湾について知っていたことは、日清戦争で中国から日本に割譲されて日本の統治下にあったことくらいで教科書レベルのことでした。実際に台湾人の気持ちや営みのことなどについては何も知らなかった。しかし、それに突然出会ったことで怒りと衝撃を受けました。いまも日本の統治下についての思いを抱き続けている人がいて、生の声で語りかけてくる。これは同時代のことなんだとわかりました。
学生時代に初めて行った外国がイギリスで、その時日本から来たというと、「あー毎日自転車で走っているところね」みたいに言われて、それは中国じゃないかと。でも、同じように自分も台湾やアジアのことを知らない。台湾での経験を通して、日本のことを教えられたと同時に、初めて自分が日本人であることについて考えさせられました。 |
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統治下の日本で生きてきた人は複雑な気持ちを抱いているのですね。 |
酒井 |
![](images/spe19_2.jpg) 日本を恨んでいることはありませんが、戦後、日本が台湾を捨ててしまったことに対しての怒りがあります。多くの犠牲者を出した二二八事件や白色テロがありました。でも一方で日本への思い、愛情もある。私は植民地を否定します。しかし、この映画に登場する人のなかに、いまでも当時の日本人の恩師の墓参りをしている人がいます。日本人の先生も植民地時代の手先と言えばそうですが、そこには人と人とのつながりがありました。 |
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この映画を観る人に伝えたいものは何でしょう? |
酒井 |
とにかく彼らの生の声を聞いてもらうことによって、観た人それぞれに台湾と日本について考えてもらいたいと思います。 |
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酒井充子
(さかい・あつこ)
1969年山口県出身。慶應義塾大学法学部卒。エンジニアリング会社勤務ののち96年北海道新聞社へ入る。記者として函館報道部で市政、経済などを取材。98年初めて台湾へ。2000年からドキュメンタリー映画、劇映画の制作、宣伝に関わる一方で台湾取材を開始。01年重症心身障害者施設の生活を追ったドキュメンタリー映画「わたしの季節」(小林茂監督、04年毎日映画コンクール記録文化映画賞/05年度文化庁映画賞文化記録映画大賞)に取材スタッフとして参加。「台湾人生」は初監督作品。
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