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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
06/03/31

第20回 ミルク

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 朝ごはんにはミルクが似合う。牛乳の白さが、一日の始まりの気分と合うのだろうか。フレッシュなオレンジジュースでもよさそうなものだけれど、朝のイメージにはミルクの方がぴったりする。

あたためしミルクがあましいづくにか最後の朝餉食(は)む人もゐむ

大西 民子

 あたたかいミルクを飲んでいると、子ども時代に戻ったような気分になる。砂糖を入れなくても温めたミルクはほの甘い。満たされた気持ちでこくこくと飲んでいる作者は、ふと「この瞬間、私と同じように朝ごはんを食べている人がどれほどいるのだろうか」と思う。そして、「その中には、最後の朝ごはんを食べている人もどこかにいるのだろうなあ・・・」と考えを巡らす。
 いま自分と同じことをしている人がいて、その人が今日死ぬかもしれない、と想像することだけでもすごい。満員電車に揺られつつ、「いま事故に遭ったら、この人たちと一緒に死ぬのだな」と考えることは私にもあるけれど、朝ごはんを食べながら、目の前にいない人のことを思う想像力には敬服する。希望に満ちた朝を象徴するミルクと、見知らぬ人の死を組み合わせた感覚には、歌人の透徹したまなざしがある。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。2005年11月、第二歌集『鳥女』出版。
新聞社勤務。

鳥女

花溢れゐき
大西民子著
(短歌研究社)

すれ違ふ誰ひとりとして今朝われがミルクこぼしたことなど知らぬ

香川 ヒサ

 ミルクを注ごうとしてこぼした時に味わう、一種の苛責というものがある。水や紅茶などとは異なる、何か実のある液体を不注意でこぼしてしまったことに対する後ろめたさ、とでも言おうか。「牛さん、ごめんなさい」というのでもないけれど、不透明な白が迫ってくる強さがミルクにはある。
 外出すれば何人もの人とすれ違う。顔見知りもいれば、一回限りしか遭遇しない人もいる。その誰ひとりとして、作者がその朝ミルクをこぼしてしまったことを知らないというのが歌の内容だ。「そんなこと当たり前じゃないの」と思う人もいるだろう。だが、よく考えてみると深い。友人を裏切ろうと、妻子ある人を愛そうと、他人はそれを知らない。すべて自分の行いは、自分が一人で責任をとらねばならないのである。人は孤独であるということが、しんしんと伝わってくる歌といえよう。さらに読み込めば、すれ違う人は誰も知らないかもしれないが、「ミルクをこぼしたこと」さえ知る存在がどこかに在るのではないか、在ってほしい、という敬虔な思いもあるように思う。
 この作者は、ありとあらゆる「当たり前」の事柄を、角度を変えて詠い続けている人である。「角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る」というような、不思議な魅力に満ちた歌は、まるで箴言のようだ。人それぞれの「ミルクをこぼしたこと」を思う。

ファブリカ(fabrica)

ファブリカ(fabrica)
香川ヒサ著
(本阿弥書店)

牛乳をこぼせし痕(あと)のひかりつつ天の銀河へ還りゆくなり

喜多 弘樹

 牛乳をこぼしてしまうと、人は悲しくなる。「こぼしたミルク=spilt milk」を嘆いても仕方ない、という英語のことわざは「覆水盆に返らず」と同義だが、水よりも悲しみは深いように思う。この作者も、こぼした瞬間「あああ・・・」と思ったのだろうが、ミルクのこぼれた筋を眺めているうちに「Milky Way(天の川、銀河)」という連想をしたのかもしれない。
 自分のこぼしたミルクは、ここ(卓上? 床?)で途切れてしまうのではない。空の上の銀河につながってゆくのだ。きっとそうに違いない−−。そう思わねばいられないような気持ちにさせられるのが、ミルクの不思議なところである。それにしても、こぼしてしまったミルクの筋が光り、銀河に還ってゆくというイメージは、遥けくて繊細な魅力に富む。

『銀河聚落』
喜多弘樹著
(東邦出版)

こぼれたるミルクをしんとぬぐふとき天上天下花野なるべし

水原 紫苑

 同じようにミルクをこぼしても、こちらの作者はうっとりと思いを巡らせているようだ。いや、この作者は「こぼしたる」ではなく「こぼれたる」と表現している。この違いは大きい。テーブルから滴り落ちたミルクを、若い女性が床に膝をついて布で拭いながら、「天も地も、花が咲き乱れる野原のようなものかしらねえ」と夢想している姿は、何やらアール・ヌーヴォーの画家、アルフォンス・ミュシャの絵などを思わせる。
 この歌の魅力を言葉で説明するのは、なかなか難しい。作者のイメージ、美意識で構築された世界だからだ。強いて説明するなら、すべて仮名で書かれた上の句のやわらかさ、そして「天上天下」の凜とした響き、「花野なるべし」という言い切りの美しさの組み合わせの妙だろうか。「花野」は、辞書的には「花の咲く秋の野辺」であり、秋の季語とされるが、この歌を鑑賞する場合にはこだわらなくていいと思う。イメージ的には春の方が近いと感じられるし、歌全体を満たしている幸福感から、私たちは現実世界でない、楽園のような野原を思い浮かべてしまうから。いずれにせよ、これは現代短歌の最もすぐれた歌のひとつであり、愛唱される美しさに満ちている。

さみどりは呼ばれし

客人
水原紫苑著
(河出書房新社)

秋の日のミルクスタンドに空瓶のひかりを立てて父みな帰る

佐藤 弓生

 こちらは秋の光景である。ミルクは朝のイメージだが、「父みな帰る」だから夕方なのだろう。駅のミルクスタンドには、いまも瓶入りの牛乳が売られていて、あの丸みのある口から飲むミルクのおいしさは健在である。その牛乳瓶が、傾きかけた秋の光を反射している。いくらかは光を吸収しているような、やわらかな瓶の光である。「空瓶」を立てて、ではなく、「空瓶のひかりを立てて」と作者が表現したのは、そのためであろう。
 一日の仕事の疲れを牛乳で和らげた「父」が、一人ひとり家路につく。空になった牛乳瓶が、一本また一本とミルクスタンドに立てられる。その瓶に宿る光のやわらかさは、何とも言えない。
 現実の「父」たちは、日の光が空瓶に反射するような時間に帰宅することはできない。また、その疲れも牛乳で解消されるようなものではない。この歌が何かセピア色で描かれたような、なつかしい色調に感じられるのはそのためである。牛乳瓶は健在だけれども、「父」の内実の、何と荒廃してしまったことか。ほの甘いミルクの味わいを「父」へ、という作者の願いが込められているように感じられる歌である。

さみどりは呼ばれし

『世界が海におおわれるまで』
佐藤弓生著
(沖積舎)

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