風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
05/09/30

第14回 ストロー

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 息子が3歳のころ、保育園の参観に行った。園児たちがひとしきり遊んだ後、紙パック入りのジュースが配られた。家ではいつも、私が紙パックにストローを刺してから渡す。「やや、そんなものを配られても、うちの坊主はストローを刺せないのに。先生が刺してくれるのかな、私が出て行こうか」と一人で焦った。ところが、息子はいとも涼やかにぴっとストローの入った小袋を剥がし、そこからストローを抜き取り、ぷす、と正しくパックに突き刺した。一連の動作は、まことに流れるようで、見事だった。自信に満ちた表情でちゅーとジュースを吸い上げる彼を見て、「ああ、この人はもう私なしでも生きていけるのだ」と妙にさばさばしたような、寂しいような心持ちになったのを覚えている。

子供とは球体ならんストローを吸ふときしんと寄り目となりぬ

小島 ゆかり

 子供の歌の名手を挙げるとしたら、作者は必ず入るであろう一人。この歌も、多くの人の共感を得るに違いない。「球体」という比喩は、はちきれんばかりの生命力を内に蓄えている子供の感じにぴったりだ。「球体ならん」の次に、スキップしたりボールで遊んだりしている様子が来ても、弾む感じが連動して心地よい一首になるかもしれない。しかし、作者はそういう「動」ではなく、一心にストローを吸っている「静」の描写を持ってきた。ものを食べたり飲んだりしている時の子供は、本当に一所懸命だ。その一心さに、大人は胸を打たれる。
 この歌を読むと、まだストローで飲むことを覚えていくらも経たないような年齢の子供の、ふっくらとあどけない顔が浮かんでくる。「球体」とは、傷も凹みもない存在の尊さを表しているようにも思える。いとおしさに満ち、母親らしい観察眼の行き届いた歌である。

ストローでスライスレモンを沈ませて切なくもある待つということ

干場 しおり

 大人になってからのストローというものは、何だか妙な存在である。コップから直接飲んでも構わないのだけれど、ちょっと気取ってストローを使う。くるくるとコップの中身をかき回したり、氷を突ついたりしていると、気が紛れるということがあるのだろう。この歌の作者は、待ち合わせの場所でなかなか現われない恋人に苛立っているようだ。「まだかしら」とレモンを繰り返し沈ませている心は、切なさで満ちている。
 どうも、この人はいつも待たされている立場のようで気になる。対等な立場の恋愛であれば、「もぉ、いつまで待たせるのよ」とストローでレモンをがしがし突ついたり、気にせず文庫本を読みふけったりするのではないかと思うのだが(それは性格の問題かもしれないな)。この作者は、待つことを切ながりながらも楽しんでいる。それは始まったばかりの恋の慎ましさであり、作者の若さでもあるだろう。やはり、待ち合わせ場所でスライスレモンを乱暴に突ついたりしてはいけない。ストローのように細く、あえかに揺れる恋心が羨ましい。

アイスティー吸ひ上げてゐるストローでわたしは世界とつながつてゐる

香川 ヒサ

 満員電車の中で、職場で、家庭で、ふっと自分の居場所が見つからなくなることが誰にもあるだろう。この広い世界のどこにいても居心地が悪い。世界に自分が存在するという手応えが感じられない。そんなとき啜ったアイスティーの冷たさが、不思議な現実感を伴って口中に広がり、「ああ」と安堵するような気持ちになる。作者は、こんなに細い一本のストローが自分と世界をつないでいるのだ、とその危うさにくらくらしながら、アイスティーを飲んでいる。
 人は案外ストローのような、ささやかなものを支えとして、日々を生き延びているのかもしれない。支えとなるものは、例えばカップ一杯の温かいココアであってもよいのだ。しかし、きーんと冷たいアイスティーを飲むストローの危うさを選びとったところに、この作者の鋭い感性が表れている。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。
新聞社勤務。

薄荷色の朝に

水陽炎・月光公園

『水陽炎・月光公園』
小島ゆかり著
雁書館

『そんなかんじ』
干場しおり著
雁書館

fabrica(ファブリカ)

『fabrica(ファブリカ)』
香川ヒサ著
本阿弥書店