自転車に乗れるようになったのは、小学2年生の終わりごろだっただろうか。鉄棒の逆上がりもできなければ、かけっこも遅い子どもにとって、補助輪なしで自転車に乗れることは、かなり素晴らしい体験だった。
赤い自転車を何と名付けようかと迷い、そのころ大好きだったF・H・バーネットの『小公子』の主人公の少年にちなみ、「セドリック」に決めた。軽やかで凛々しい名前に我ながらうっとりしたものだったが、後年、同じ名の車種があると知ってがっかりしたのを覚えている。名前をつけたがる癖は変わらず、いま乗っている赤い車にもちゃんと名があるのだが、誰にも言わない。ある文学作品のタイトルから取ったものだ。自分のこういう性癖を思うと、人間はあまり変わらないものだなあ、と可笑しくなる。
白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり
高野 公彦
名前をつけなくても、自転車というものは何か、健気な少年を思わせるところがある。この歌では、霧の立ちこめた夜の公園に自転車が置きっぱなしにされている。自転車の車輪が翼のように見えたのかもしれないし、サドルあたりから翼が生えていたのかもしれない。ともかく、作者の目には自転車の翼がちゃんと見えている。作品を読む私たちも、「ほそきつばさ」に胸がきゅんとなる。かすかな光をまとった自転車は、濡れそぼった少年のようだ。その何ともはかなげな様子に、少年の日の移ろいやすさが重ねられており、多くの読者を魅了する。
自意識に苦しむやうにキイキイと我が窓下をよぎる自転車
矢部 雅之
油の切れた自転車のたてる音は、何とも耳障りだ。「ええい、何とかしてくれ」と自転車の持ち主を腹立たしく思ったりもするが、その腹立たしさは心の余裕のなさと比例している。この歌の作者は、耳障りな音をたてている自転車を「自意識に苦しむ」ようだと評しているが、実際に自意識に苦しんでいるのは作者自身にほかならない。本当は、キイキイと悲鳴のような音をたてている自転車を見て、「ああ、まるで自分のようだ」と胸を衝かれる思いをしているのだ。
うまくバランスを取って運転しなければ、ぱたりと倒れてしまう自転車。そんな存在と自意識を重ねたところがうまい。
木の花がほろほろ飛ぶよ自転車を引き出すときに一人を諦める
永田 紅
自転車の重さというものは、気分や体調と密接にかかわっていて、悲しいときや疲れているときには妙に重たく感じられる。この歌の作者は若く、恋はどうやら片思いだったようだ。何の花なのか、花びらが際限なくほろほろ散ってゆく様子に、諦めざるを得ない自分の恋を重ねた歌である。「五・七・五・七・七」の最後の句が、九音と大幅な字余りになっているが、それが作者の割り切れない思いをよく伝えている。
「木の花」というさりげない表現によって、何となく白っぽくて小さな花弁が想像され、淡い片恋を印象づける。「自転車」だから、高校生か大学生という初々しさが出てくるのであって、これが「自動車」だと自立した社会人になってしまう。何より、自動車をガレージから発進させても体に重みは感じない。「よっこらしょ」と自転車を方向転換させるときに、普段は何とも思わない重さがずっしり感じられるところに、恋の痛みが滲むのである。
自転車をゆらゆらと漕ぐ冬の道あなたはどんな充実にいる
小守 有里
自宅と最寄りの駅との往復に自転車を使うというサラリーマンも多いだろうが、昼日中、自転車を漕いでいるのは大方が女子供である。作者は結婚している女性。漕いでいる自転車が「ゆらゆら」しているのは、籠にスーパーで買った野菜やら何やらがたくさん詰め込まれているからだろうか。
自分が家族の食事のために買い物しているときに、夫は外で働いている。それが教壇であれ証券取引所であれ、そこには何という充実があることだろう。食べてしまえば終わる食事、掃除しても掃除しても散らかる部屋、といった自分の徒労感に比べ、男たちの仕事は常に活気と誇りに満ちているようだ。自転車を漕いで行くのが「春の道」ならば、夫の仕事の充実ぶりをわがことのように喜ぶ新婚の妻の歌となるかもしれないが、「冬の道」としたところで、冷たい風が吹き抜ける作者の心の中が明らかになった。「ゆらゆらと」頼りなく揺れているのは自転車だけでなく、作者自身なのだった。
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