家具、電気製品、食器…。日々の暮らしで、なにげなく接するものたち。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。雨の季節。誰もが手にする「傘」は何を物語るのか。
「雨の日と月曜日は憂鬱なもの」とカレン・カーペンターは歌った。しみじみと共感する。朝からしとしとと降り続く雨音を聞くと、布団から出るのが億劫になる。「あーあ、今日は何を着ていこう。靴は……」と、前の晩に考えたコーディネートも考え直さなければならない。
けれども雨の日には、晴れた日と違う風景が見える。傘の中という、閉ざされた静かな空間によるものかもしれない。それは、雨の日の贈り物のような不思議な空間である。
シャンプーの香りに満ちる傘の中 つぼみとはもしやこのようなもの
早川 志織
作者は若い。洗いたての髪からシャンプーの香りが漂っているのだろうか。傘をさして歩きながら、彼女はうっとりとその香りを吸い込んでいる。「まあ、何だか私って蕾みたい」。そう思える作者の若さがまぶしく愛らしい。これからどんな色の、どんな形の花を咲かせるか、本人にも分からない。そのわくわくするような気持ちが、とても素直に表現されている。ナルシシズムというには慎ましすぎる感じは、作者が「傘の中」という小さな空間にいることと関係するだろう。
「神田川」の世界のように、お風呂屋さんの帰りに恋人と一つ傘に入っている情景と取れなくもないが、そうすると恋は既に「つぼみ」ではない。歌全体に漂う清潔感は、紛れもなく一人で傘をさしている若い女性のものだ。
老人の傘に入りてきのうとは違う景色につつまれている
川島 眸
作者は、お年寄りと一つの傘に入って歩いている。一歩ごとに、自分の歩調で歩けない不自由さが募る。もしかすると、お年寄りのために少し身を屈めているのかもしれない。たどたどとした歩みに合わせながら、作者はふだんと違う景色が見えることに気づいた。それは、速足で歩いている時には気づかなかった看板や道端の花でもあるだろう。しかし、それだけではない「老人の世界」を、若い作者が垣間見たと解釈したい。
「老人の世界」は若者にとっては、少しばかり恐ろしい。不便さ、不自由さばかりで、楽しみもほとんどない--そんなふうな思い込みが、老人の傘に入ったことでふっとなくなる。「つつまれている」というやわらかな表現によって、作者を包んだ「違う景色」が穏やかで優しい世界であったことが想像できる。私たちはもっともっと老人の傘に入ってみなければならない。
さす傘に子を引き入れて叱るとき地上に母と子のみとなりぬ
中川 佐和子
母親は時に周りが見えなくなる。大勢の子供たちの中で、自分の子しか見えない。子供にしてみれば、大変に息苦しい。しかし、それでいいのかもしれない。それが母親の愛情であり、子供はやがて振り切って成長する。賢い母親はそのことを知っている。この歌の作者も、そんな聡明な母親の一人である。
何があったのだろう、作者は「ちょっとこっちへ来なさい」と子供を自分の傘に入れて、叱っている。「引き入れて」という表現はさりげないが、母親のやさしくも毅然とした動作を的確に表していて巧い。一つの傘に入った母と子、それを「地上に母と子のみ」と詠うのは大袈裟だと思う人もいるかもしれない。しかし、子供を叱る母親に見えているのは、傘の中の世界だけなのだ。母親というものの本質でもあるし、地域社会が機能しなくなり、子供を真剣に叱る大人は親だけになってしまったという状況もある。「母と子のみ」というのは、甘やかであるけれど、何とも心細い状況だと思う。
作者は、自分の視野の狭いことを充分に自覚している。心細く感じながらも健気に「この子を叱れるのは私だけ」と、きっぱりとした表情を見せている。この歌を読むと、光に包まれた傘の中の母子像が浮かんできて、涙ぐんでしまう。
妻の傘にわが傘ふれて干されゐる春の夜をひとりひとりのねむり
大松 達知
相合傘ということもあるが、基本的に傘は一人でさすものだ。恋人同士、夫婦であっても、二人で一つの傘に入ればどこかが濡れてしまう。この歌の作者は、そんなことを思いながら、ベランダか軒先に干されている傘を眺めたのではないか。
夫婦の傘がかすかに触れ合っている状態を、「わが傘ふれて」と、自分の傘が遠慮がちに妻の傘に触れているように表現したところに可笑しみがある。夏や秋でなく「春の夜」をもってきたあたりにも、作者のセンスが光る。別々の寝室にやすむ老夫婦や、秋風が立つような関係ではない。あくまでも若い夫婦であり、甘い関係にある。しかし、それぞれの世界を持ち、それぞれの眠りを眠るのだ。「春の夜」のやわらかな調べも心地よい。作者は1970年生まれと若いが、淡々とした詠みぶりは何とも味わい深い。
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