日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
ネクタイを締めなければならないことを考えるだけでも、男でなくてよかったと思う。中学や高校時代には、男子が「詰襟の一番上をきちんと留めなさい」と注意されるのを聞くたびに気の毒になった。男は首を締めつけていないと、何かよくないことでも起こるのだろうか。
ネクタイを一瞬に抜く摩擦音 男の首は放熱しはじむ
林あまり
この作者と「男」が熱い恋の最中にあるのは確かだ。布と布が激しく擦れ合う「しゅっ」という音が聞こえてきそうな表現には、どきどきさせられる。男はのんびりビールでも飲むためにネクタイを取ったのではない。次の瞬間には、女と抱き合っている。女の両手は男の首筋を愛撫し、放熱しているような熱さを感じている。上の句と下の句の場面の切り替わりが鮮やかで、スピード感に満ちた歌だ。聴覚と触覚について詠っていながら、ネクタイを片手にした男や抱擁する男女を映画の1シーンのようにまざまざと見せてくれる。
仮説--ネクタイは、男の放埓で制御しがたいエネルギーを閉じ込めるために発明された。
時折はネクタイ選びて結びやる両腕の分だけ愛せる男
佐藤きよみ
女にとって、ネクタイを結ぶという行為は甘い気分にさせてくれるものらしい(経験がないので、よく分からない)。この作者は、気が向けば夫にネクタイを結んであげる奥さんのようだ。「時折」「結びやる」に、夫を飼い馴らしているような余裕が感じられる。しかも、自身のすべてなど与えず、せいぜい「両腕の分だけ」というクールさだ。女のしたたかさだろうか。自分を理解することのできない夫に心を開かず、自分を守ろうとする女性のようにも読める。
襟飾の色もて威嚇しあふごとき企業動物らと昼餉食す
大塚寅彦
通勤電車に乗っていると、実にさまざまなネクタイがあることに驚く。ストライプ、水玉やペイズリー模様、意外に多いのが小さな動物がたくさんプリントされている絵柄だ。ささやかな自己主張なのだろうか。この作者はサラリーマンを「企業動物」と見なし、ネクタイをその動物のぴらぴらした皮膚の一部のように捉えた。ネクタイを締めた男たちは熾烈な競争社会に生きており、和気藹々として見えるランチの風景とて「威嚇しあふごとき」なのだ。
ネクタイは、古くは「襟飾り」と呼ばれた。日本で初めてネクタイを締めたのは、江戸時代末期に土佐から漂流してアメリカにたどり着いたジョン万次郎と言われているが、彼が帰国した際、長崎奉行がチェックした私物の中に「襟飾り三個」と記されている。「をす」は貴人の「食う」の尊敬語。「襟飾」「昼餉」「食す」といったものものしい表現が、威嚇しあう架空の動物の猛々しさをうまく演出している。
わが首のにおいをさせて五十本ネクタイが闇につるされている
渡辺 松男
奇妙な光景である。しかし、「五十本」かどうかはともかく、大抵の家の洋服ダンスにはネクタイが多数かかっているだろう。そうしょっちゅうクリーニングに出すものでもないから、「わが首のにおいをさせて」いると言われれば、その通りに違いない。この歌に詠われていること自体は、変でも何でもない。
けれども、自分の体臭を放ちつつ、ネクタイが何本も洋服ダンスの闇に吊るされている事実の、何とまがまがしいことだろう。日ごろ首を締めつけているネクタイが、あたかも絞首刑になって吊るされているようだ。いや、ネクタイの数だけ自分がいて、五十人の自分が首を吊られている光景のようではないか。
この先のサラリーマン生活の長さを思い、ため息をつきたくなるような気持ちを「五十本」が過不足なく伝えているのもうまい。「十本」だと少ないし、「百本」だと嘘っぽくなってしまう。
女にネクタイを締めることが課せられていなくて、本当によかった。
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