日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
一杯のお茶を前にすると、大抵の人の心はほどける。ほおっと寛いで、何だかとても無防備になってしまう。それは、あたたかな液体の作用というだけではなく、湯呑茶碗の形や手ざわり、重みによるところも大きいと思う。
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
山崎方代
湯呑茶碗の温かさが、今までの硬く張りつめていた気持ちを一気にほぐしたのか、作者はもう収拾のつかない「しどろもどろ」状態になってしまっている。たった一杯のお茶で、そんな混乱状態に陥ってしまう「吾」の弱さへの共感が、誰にもあるだろう。場面は、読む人それぞれだと思う。寂しい一人暮らしの作者が、自分でお茶を淹れて湯呑茶碗を抱えた途端、急にいろいろなことが思われて感傷的になってしまったと取ってもよい。あるいは、意中の人に思いがけずお茶を淹れてもらう機会があり、思いが千々に乱れているのだろうか――いや、ここはやっぱり一人だという解釈の方がよさそうだ。どっしりと持ち重りのする湯呑茶碗が、存在感をもって迫ってくる。
山崎方代は、独特のユーモラスな詠みぶりでファンの多い歌人だ。この作品は五十五歳のときに参加した合同歌集に載り、後に歌集『右左口』に収められた。
蓋付きの茶碗のまるさ目にしみて未来ある身と説かれておりぬ
梅内美華子
蓋の付いたお茶碗というものがあった。「あった」と過去形なのは、身の回りで見なくなって久しいからである。最後に遭遇したのは――あまり思い出したくないが――むかしむかし、婚約して仲人さんのお宅で桜湯を出された時だったと思う。「茶を濁す」「茶々を入れる」ということばの連想から、婚礼の席などでは茶を避けるらしいが、そういう忌みごとを大事にしても、私のように一人暮らしに戻る人もいる。それはともかく、茶碗の蓋を取った途端に立ち上る桜の香りと、塩漬けにした桜の花が湯の中にゆうらりと広がる様子は、なかなかよかった。蓋付きの茶碗は、何とはなしに改まった気分、そして丁重にもてなされているという気分にさせるものである。
この歌の作者がひどく若いことは、「未来ある身と説かれて」いることから明らかだ。そして、説いているのは父母のような近しい人ではない。蓋付きの茶碗が出されているからだ。大切な客人としてもてなされつつ、「まあまあ、そんな無茶なことを言うものではありませんよ。もっとよく考えてみることですね」などと説かれている作者は、自分の若さを持て余し、身の置きどころのないような気持ちになって茶碗を見つめている。説いているのは、ゼミの担当教授か、高校の恩師、あるいは遠縁の伯父あたりかもしれない。いずれにしても、親身になって助言してくれていることには変わりない。ただ、その親切心そのものが、作者にはたまらない。早く若さという枷から解放されたい、という気持ち、それこそが若さの証なのだ。それを表現するために蓋付きの茶碗を持ってきたあたり、作者の技巧の何と高度なことだろう。
茶碗など黙って洗う涙とはたまれば自然におちる液体
畑 彩子
「お茶汲み」という言葉はもう死語になったのだろうか。オフィス勤めの若い女性に当然のように課せられた時代があった。企業によっては今もそうした慣例が残っているところがあるかもしれない。この歌の作者は、東京・大手町に勤務する女性である。
仕事をしていれば、つらいことがいろいろある。会社でだけは泣くまいと私も思っていたが、二回ほど失敗した。この作者もそこそこ負けん気の強い女性らしく、「涙なんて、一定量たまれば自然の理として落ちちゃう液体なんだよね」なんて思いながら、茶碗を洗っている。洗わなくてもいい茶碗であることは、「茶碗など」の「など」で分かる。一所懸命やったことに対して上司から納得できない評価を受けたとか、何か理不尽なことを命じられたとか、そういう場面があったのだろうか。鼻の奥がつーんとしてきたのを感じて、「あっ! さっきのお客様に出したお茶を片付けなくっちゃ。その件についてはよく分かりましたので、それでは失礼します!」と給湯室に駆け込んだのかもしれない。
「蓋付きの茶碗」とはまた別の若さがここにはある。口惜しい気持ちがあとからあとから溢れてくるのに、妙に落ち着いた口ぶりで「涙とは~~」と詠んだ三句以下が可笑しみを誘う。茶碗の丸みが作者の心に添って口惜しさを宥めているような、そんな感じも「黙って洗う」ところから感じられる。
湯呑茶碗には取っ手がない。両手で茶碗を抱えていると、あたたかさがそのまま掌に伝わってきてほっとする。茶飲み友達、茶飲み話……取っ手付きのティーカップでは、今ひとつ話が弾まないような気がする。
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