日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
コーラの壜は色っぽかった。他の清涼飲料水のつるっとした壜とはまるで違った凹凸と、かすかに緑を帯びたガラスの色が美しかった。
1本まるまる飲むのが子どものころの夢だったが、そういう贅沢は許されず、いつも弟とコップに注ぎ分けて飲んだ。そう言えば、昔は壜に直接口をつけて飲む「ラッパ飲み」は行儀が悪いと叱られたが、ペットボトル全盛の今、そんなことを言う人はいなくなってしまった--というふうに、コーラの記憶をたどると止め処ないのであった。
コカコーラ壜のへこみに匂ひたつのすたるじあ飲み干してごらん
尾崎まゆみ
甘やかなコカコーラと、その記憶にまつわるノスタルジー。それらを「飲み干してごらん」と呼びかけるこの歌は、何とも不思議な魅力に満ちている。「七・七」となるべき下の句が、「六・八」というシンコペーションのようなリズムになっていて、読んでいる途中でかくっと躓きそうになる。その危うさが心地よい。リズムの危うさは、「のすたるじあ」の危うさ、はかなさをも思わせる。この「のすたるじあ」は、もしかすると、コカコーラに象徴されるアメリカへの憧憬かもしれない。
コカ・コーラ紙のコップにそそがれて気泡の中の夢のアメリカ
藤原龍一郎
コカコーラは、ハンバーガーや大リーグと同様、アメリカを象徴するものの一つである。しかし、小粋な壜の中にあってこそ美しいコカコーラが、「紙のコップにそそがれて」いる味気なさ。それは、アメリカへの失望感や幻滅と言ってよいだろう。
ベトナム戦争が泥沼化する前、強くて明るいアメリカは幸福そのものに見えた。しかし、この歌が作られた80年代後半、アメリカを夢の国と思う日本人はもはやほとんどいなかった。ぺなぺなの紙コップに注がれたコーラから気泡が上がる。その嘘っぽさ、薄っぺらさに、アメリカへの失望、過ぎ去った青春への哀惜が重なる。もう二度と戻れない幸福な日々が、恐らくはやや気の抜けた生ぬるいコカコーラに悲しくダブるのである。
豊葦原瑞穂国の白飯をコーラで流し込むのはやめよ
高島 裕
「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」は、日本の美称だ。水辺には葦が茂り、風の吹き渡る水田には稲が豊かに実る。その美しい国で収穫された米が炊かれて、白いご飯となる。学校の米飯給食が始まったころ、ご飯を食べながら牛乳を飲んで平気な子どもたちを嘆く声が聞かれたが、この歌では牛乳どころかコーラでご飯を流し込むというのだから参ってしまう。そして、「白飯」とは「コーラ」とは何なのか。
この歌の内容を「モノカルチャー化への懸念」「米国一辺倒の外交批判」などと言ってしまうと、身もふたもない。作者は、そのへんをよく心得ていて、あくまでも真っ白なご飯が人工的で毒々しいコーラの茶色に染まる様子を悲しむだけにとどめている。何を読み取るかは、読者の自由である。「やめよ」と呼びかけられている対象にしても、為政者と取ってしまうと却って面白みがなくなる。日本の伝統芸能をほとんど知らず、海外ポップスばかり聞き、来日オーケストラの公演をありがたがり……「やめよ」は、そういう貧しい自分への呼びかけのようにも思えてならない。
毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり
谷岡 亜紀
いつの世も禍々しい事件は絶えない。「毒入りコーラ事件」もその一つである。しかし、この歌の「毒入りコーラ」は、実際の事件を指しているのではない。現代の都市が持つ魔性、悪を内包する闇の大きさといったものを詠って、普遍性をもたせることに成功した。
毒物を混ぜたコーラ壜を電話ボックスや駅の構内にそっと置く指は、決してごつごつとした無骨な指ではない。壜を置く行為さえ美しく見える「しなやかな指」であるところが何とも怖い。その指の持ち主は、都市に憎悪を抱いているのではなく、むしろ病んだ都市に一体化するほど馴染んでいるように思える。涼しい笑みさえ浮かべていたかもしれない、しなやかな指の持ち主を思い、読者は戦慄する……だろうか。「しなやか」の語感は心地よく、好感度の高いことばである。作者が「しなやか」ということばを選んだために、読む者は毒入りコーラを置いた人物をそれほど憎むことができない。作者も何だかうっとりと「しなやかな指を思」い描いているようではないか。短歌の世界では「われ=作者」であることが多く、なおかつ「われ=いい人」であることも多いのだが、この作品の作者は暗い側面を持つ現代都市を表現するために、自ら悪者になってみせた。
コーラを飲まなくなって、何年たっただろう。壜入りのコカコーラを見つけたら、ふっと買いたくなるに違いないのだが。
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