風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series ノンフィクション
ある家族の肖像 渥美 京子
06/03/31

第18回 長い闘いの日々の果てに

仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

 くも膜下出血で死亡した息子の死は過重労働が原因だったとして、石井偉(いさむ)の母、淳子がリクルート社を相手に損害賠償を求めて東京地裁に起こした民事訴訟は、2004年1月、リクルート社が1200万円を支払うことなどで両者和解という形で結着を見た。淳子をはじめ、裁判にかかわった者たちは和解という結末をどう受け止めたのか。

「和解」という言葉への拒絶反応

 石井淳子は当初、「和解」という言葉を耳にしたとき、アレルギー反応に似た違和感を全身に覚えた。裁判における和解とは、争いをしている当事者が互いに譲歩しあい、争いをやめることを約する合意をいう。だが、一般に、この言葉から受け取る印象は「仲直り」。母の立場からすれば、息子の死の原因が明らかにならないまま、会社と仲直りすることなどありえなかった。
  そもそも裁判を起こすと決めたとき、淳子は最高裁まで争う覚悟だった。
「相手はリクルートという大企業。仮に自分が地裁で勝っても、リクルートは控訴してくるだろうから、最高裁までもつれこむはずだ。もし、自分が最高裁で負けても、そこまでいく間に、リクルートという会社の実態を少しでも明らかにすることで、社会に一石を投じたい」と思い詰めていた。それくらいの覚悟で提訴に踏み切ったのだから、地裁段階で和解をのむことに抵抗を覚えた。
  金銭的和解ということにも、わだかまりがあった。「息子の命と引き換えのお金などいらない」という思いとともに、提訴直前にリクルート側弁護士が出してきた和解の提案を苦々しく思い出した。
  それは、東京地裁への提訴を翌日に控えた1999年6月のことだった。主任弁護士の玉木一成は、念のため、リクルート側弁護士に電話で明日の提訴のことを伝えた。裁判の打ち合わせのため、淳子もちょうど玉木の弁護士事務所にいた。リクルート側弁護士は言った。
「話し合いをしている最中なのに、なぜ、提訴するのですか」
  それまでの約2年間、淳子ら原告側はリクルート側の弁護士を通して、偉の労働実態についての資料提出を求め続けた。しかし、リクルートは偉の死と業務に因果関係はないと主張し続けるばかりで、原告側が求めた詳しい資料の提出には一部しか応じず、多くについては拒んだ。話し合いによる両者の歩み寄りが難しいと判断したからこそ、提訴という道を選ばざるをえなかった。提訴をすることについては、すでにリクルート側には伝えてある。それなのに、なぜ、この期に及んで提訴に対して批判めいたことを言うのか。提訴となれば、「過労死訴訟」として新聞やテレビが報道する。リクルートはそれを回避したがっているとしか思えない。
  玉木が、
「損害賠償については、拒絶しているではないですか」
  と言うと、リクルート側弁護士はこう切り出したのだ。
「一定の和解金を支払う考えはあります」
  玉木が、
「1000万円を超える提案もありうるのですか」
  と返すと、
「それもあります」
  と答えた。
  よりによって提訴の前日に、突然の和解提案・・・、労災裁判を多数手がけてきた玉木も経験はなかった。玉木から話を聞いた淳子は、「お金の問題ではない。人の心がお金で買えると思っている無神経さが許せない。息子がどのように働いていたのか、なぜ死ななくてはならなかったのかを知りたい。和解などありえない」とリクルート側の提案をその場で断ったのだった。
  その気持ちは、裁判所から和解を勧められた段になっても、変わらない。だが、法廷での厳しいやりとりや証拠探しに苦労した日々を振り返りながら、淳子は悩んだ。もし、和解を拒み、判決を求めたらどうなるか。原告に有利な判決が出るとは限らない。負ければ、これまで支えてくれた人たちに精神的なショックを与えかねない。
  勝訴であっても、敗訴であっても、負けた方が控訴するのは間違いなく、舞台を高裁に移して新たな闘いが始まる。民事訴訟においては原告側に立証責任があるため、高裁では労働実態を明らかにする新たな証人や証拠を見つけなくてはならない。しかし、現役のリクルート社員や元同僚たちの多くが証言を拒むなど協力を得られない中、新しい手がかりがつかめる確証はない。
  気力、体力も限界に近づきつつあった。高裁を経て、最高裁まで進んだ場合、少なくとも6~7年はかかる。すると、70歳に手が届く。病に倒れないとも限らない。大企業であるリクルートにとって裁判にかかる弁護士費用はさしたる金額ではないが、わずかな蓄えと年金で暮らす淳子にとって経済的な打撃も大きい。リクルートは法務部が担当し、いつでも替わりの社員がいる。だが、淳子の替わりはいない。
「もし、裁判の係争中に、私が倒れでもしたら・・・」と想像すると、娘のまどかのことが気になった。裁判の継承は淳子の子である偉の兄弟姉妹にも認められる。自分に万一のことがあれば、まどかが引き継ぐことになる。しかし、3人の子どもの母として暮らしているまどかに、裁判を継承させてはいけないという思いがこみあげた。

「公開」を条件に和解受け入れへ

 一方のまどかは和解を受け入れることに前向きだった。偉の死後、最初に裁判をしようと言い出したのは、母ではなくまどか自身であったし、真実を明らかにしたい気持ちは誰よりも強い。しかし、老いていく母の体が心配だった。
  裁判が始まってからの母は、「裁判があるから生きている。裁判を中心に生活が動いている」という感じがした。いつも気持ちを張りつめている。裁判が精神的に大きな支えとなっているのはわかる。人と会うことを避け、偉の写真を見つめてぼんやりと過ごしていた母が、手がかりを求めて人に会い、外に出て行く。それは、死という現実とそこに横たわる問題を、正面切って受け止める原動力にもなった。
  だが、1年2年と月日がたつにつれ、被告側の証人の証言に憤りや失意を募らせ、母が次第に憔悴していく様子がうかがえた。もう若くはない。息子の死に打ちのめされながらも、気力を振り絞って裁判を続ける母を見ていると、「今度は母が過労で倒れるのではないか」と心配だった。
  まどかは淳子に、
「お兄ちゃんはきっと、『母さん、もう十二分にしてくれた』って言ってるよ」
  と告げた。

  そして、淳子は決断した。偉は未来を断ち切られたが、まどかの人生まで裁判によってゆがませるようなことはできない。「それを食い止めるのが、母である自分の責任」と、和解を受け入れることにした。
  どれほど頭を下げられても、お金を積まれても、息子が生き返ってこない限り、遺族にとって心からの和解はない。しかし、和解という言葉を法律用語ととらえ、現実的妥協をするしかない、と心を決めた。
  淳子はひとつだけ、条件をつけた。それは、和解を「公開」とすることだった。過労死が後を絶たない現実に警鐘を鳴らすとともに、社員が二度と息子のような苦しみを味わうことのないように、リクルートに社員の安全と向き合うことを約束させたかった。それがなければ、息子の死は犬死にになってしまう、と淳子は考えたのだ。一般に、企業は和解内容を秘密にすることを要求することが多い。リクルートも当初、公開を渋った。しかし、交渉を続ける中で、結果的に和解内容を公開することで合意した。
  2004年1月22日、東京地裁の14階の会議室において、和解条項が読み上げられた。

  1. 被告は、石井偉が死亡したことに対し、衷心より哀悼の意を表する。
  2. 被告は、前項の趣旨にかんがみ、原告らに対し、本件和解金として、1200万円を支払う(中略)。
  3. 被告は、今後も従業員の健康状態の把握に努め、労務内容等に応じ、従業員の安全管理・健康管理に十分配慮して、安全配慮義務を尽くすよう努力する。
    (中略)・・・
  裁判官は最後にこう告げた。
「双方、異議はありませんね。それではこれで和解が成立しました」
  わずか数分、署名をするわけでも、捺印を求められるわけでもない。足かけ5年にわたる裁判の日々を思うと、肩すかしをくらったようなあっけない終わり方だった。
  すぐには状況を飲み込めないまま、立ちすくんでいた淳子に、リクルート側弁護士が
「会社の役員が一言挨拶したいと言っています」
  と声をかけた。
  淳子の前に進み出た男性は、小声でぽつぽつとささやいたが、聞き取れない。
「すみません、お名刺をいただけませんか」
  と淳子が求めると、差し出された名刺には「執行役員」という肩書きと名前だけが記入されていた。続いて、声を低め早口でこう言った。
「衷心より哀悼の意を表します。今後も従業員の健康状態の把握に努め、労務内容などに応じ、従業員の安全管理・健康管理に十分、配慮して、安全配慮義務を尽くすように努力します」
  その言葉は、和解条項の「1」と「3」に書かれた文章そのままであった。
  かくして、偉の死から8年目、母が起こした闘いの日々にひとつのピリオドが打たれた。

「やっぱり、死んだら損なのよ・・・」

追悼集『偉』

 和解成立の約1ヵ月後、梅の花がほころび始めた2月末、淳子は偉の友人や裁判にかかわった者たちを招待し、都内の会場で亡き偉を偲ぶ会を開いた。玉木をはじめ、小池純一、村田智子弁護士、医師として証言台に立った新宮正、裁判に協力してくれた数少ない先輩や元同僚、大学時代や趣味を通じての友人、それに淳子の友人たちが集まり、それぞれ、裁判への感想や在りし日の偉の思い出を穏やかに語った。密かに涙を流す者もいれば、早すぎる死を悼み、過労死を生み出す社会のあり方に疑問を投げかける者もいた。
  友人の一人はこのようなことを語った。
「肉体が死ぬということと、精神が死ぬということは違う。私たち一人一人が彼の口調、高らかな笑い声、彼の癖、感じ方、考え、そういったものを覚えていて、自分の心の中に石井偉が入っていれば、彼はなお生き続ける。裁判によって、彼がどんな形で生きていたか知ることができた。それは彼が生きていた証になった。いずれ、私も石井のもとに行く日がくる。その日まで石井がどんな形で生きてきたかを考え続けたい。そうすれば、石井の精神は生き続けるのだから」

小学校3、4年生の頃の偉。紋別にて

 翌朝、淳子は旭川に帰るため、投宿していたホテルから羽田に向かった。和解が成立した後は「石井偉を偲ぶ会」を開く準備のため、会場の手配や、出欠の確認やらに忙しく、ぼんやり物思いにふける時間もなかった。しかし、それも終わってしまうと、張りつめていた緊張の糸がぷつんと切れたような虚脱感につつまれた。 
  長い裁判の日々にひとつの区切りがつき、改めて偉の死というごまかしようのない悲しい現実が目の前に立ちふさがる。確かなことは、残された家族や友人がこうして、ここに生きているという現実だけ。命の重さと時の流れをかみしめる。
  羽田に向かうため電車に乗ろうと足を踏み出した瞬間、ふと、こんな言葉が口をついて出た。
「やっぱり、死んだら損なのよ」
  あり得たはずの未来、夢、可能性、明るく響く笑い声、優しさ・・・。それに値段などつけられない。生きていてこそ花は咲く。偉の無念さは、宙を漂い、偉が存在していたことの価値はどこにも反映されずに虚しく消えていくのか。
  なぜ、偉が死んで自分は生きているのか。自分の人生をもざっくり削り取られ、それでもなお、この先、生きて行かなくてはならないのか。淳子はそう反芻した。息子を失った母の心にぽかんと開いた穴は一生うまることはない。息子の未来とともにあった母の未来は、この先も拓くことはないのか。
  やがて地下鉄は浜松町に着き、淳子はモノレールに乗り換えた。大きな荷物を手に、羽田に向かう人の流れはどこか華やいで見える。自分はこれからどうやって生きて行くのか、何を支えに進むのか。次第に暮れ行く東京の空をぼんやりと見つめていた。

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

ご意見をお聞かせ下さい

kaze-editors
@shinshomap.info

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて