風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series ノンフィクション
ある家族の肖像 渥美 京子
05/11/30

第15回 社風がもたらす“功罪”

仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

社員たちは、提訴を境に突然変わった

 もしも、一緒に働いていた同僚が突然倒れ、帰らぬ人となったら、どう感じるだろうか。驚き、悲しみ、無念さをかみしめ、そして、残された家族の心に思いをはせ・・・。故人との関係の深さに比例しながら、さまざまな感情が胸に去来し、心が揺れ、哀悼の気持ちが自然とわき起こるであろう。
 だが、残された家族が会社を相手に裁判を起こした時から、心の糸は複雑にからみ始める。経営陣が過失を問われまいとして企業防衛に向かうのはある意味で仕方ないとしても、自分が否定されたわけでも、攻撃されたわけでもない個々の社員までもが、会社批判に不快感を覚え、組織防衛へと足並みをそろえる。それは、仲間が死んでいった意味を考えるよりも先に、自分が依って立つ場所への肯定的価値を見つけようとする心の動きなのか。
 リクルートの社員たちは、同僚の死、そして遺族による提訴という事態をどのように受け止めたのか。彼らの「言い分」に耳を傾けてみたい。

 リクルートの社員と接して誰もが感じることは、「元気のよさ」である。「言いだしっぺがリーダーになる」をモットーに掲げ、入社年次にかかわらず、やると決めたらとことん仕事を遂行する。その能力は高く、独創性も光る。社員同士は仲がよく、リクルートをやめた後もプライベートなつきあいや仕事の場面でつながっている者が少なくない。それを絆と呼ぶならば、他に例を見ないほど社員同士の絆は強い。
 1996年に石井偉(いさむ)がくも膜下出血で倒れたという一報を聞いたとき、偉を知る多くの社員がその死を悼み、告別式では型にはまらぬ心のこもった弔辞が続いた。偉が好きだった場所に、家族を招待した者たちもいた。忙しい仕事の合間をぬって、同僚たちは『ごはんたべにいきませんか』と題した追悼集も作った。
 だが、弁護士を立て、裁判を起こすと知った同僚が、母の淳子に直接、あるいは間接的に浴びせた言葉は次のようなものだった。
「あんなによくしてやったのに、弁護士に相談するなんて・・・」
「石井は裁判を起こすことは望んでいない」
「石井は大切な人間関係が壊れることを悲しんでいるはずだ」
 偉が信頼していた上司でさえ、「(会社と遺族の)どちら側にも立ちたくない」と協力を固辞した。

「フェアであれと教わったのに・・・」

『週刊B-ing』編集部で偉と共に
働いていた増田結香さん

 現在はリクルートを退職し、都内の出版社に編集者として勤務している増田結香(42)は、1992年から2年間ほど『週刊B-ing』編集部で偉と一緒に働いていて、個人的にも親しかった。偉が亡くなった96年当時は、すでにリクルートを退職していたが、かつての同僚から連絡を受け、告別式にも参列した。
 裁判が始まったと知った時は、やはり複雑だったという。
「リクルートは今も好きです。悪い会社ではない。プラマイ(プラス・マイナス)するとプラスだなと。上司も、いい人が多い。裁判は誰かを悪者として闘うものだけれど、リクルートに限って(会社や上司を加害者とするのは)難しいし、そういう構造じゃない、と思いました」
 その言葉の意味することは、こういうことだ。
 リクルートは、上司に命令されて、いやいや仕事をするという風土ではない。偉にしても同じで、「やるな」と言われても、進んで仕事をするタイプ。偉に限らず、誰もが自分の意思で楽しんで仕事をしているという意識を、たとえある種の“洗脳”だとしても、持っている。上司も命令してやらせているつもりはない。雇用者と労働者という意識はほとんどない。だから、誰かに責任を負わせにくい構造がある。

 気持ちに変化が起きたのは、裁判開始から2年後のことだった。
 すでに証人尋問が始まっていた2001年の初夏、増田は裁判の主任弁護士を務める玉木一成に電話をかけた。担当している若者向け週刊誌の企画で、玉木に取材を申し込むためだった。用件が終わり、世間話のつもりで「私、リクルートの石井君とは同僚だったんですよ」と告げた。「話を聞かせてほしい」という玉木の申し出に、軽い気持ちで「いいですよ」と答えた。
 玉木と会って話をし、別れ際「何人か知っている人を紹介します」と約束した。その後で、想定外のことが起きた。元同僚など数人に声をかけたところ、全員がノーと断ったのである。
「みんな、ヤダっていう。意外だった。えー、そうなの? と。他の人が断るとは思わなかった」
 自分との温度差はどこから生じるのかと考えた。ひとつの理由は、自分がリクルートを退職し、現役ではないからだろう。社員だから言いにくい、というならわかる。だが、元同僚たちが口にした「どちらにも肩入れしない」という言葉には違和感を覚えた。
 裁判の一方の当事者は大企業で、資金も、タイムカードなどのデータや情報も豊富にある。それに対してもう一方の当事者は、息子を亡くした母親で、わずかな貯えを崩して裁判を起こし、有用な情報はほとんど持ち合わせていない。
「おかしいんじゃないの、と思ったの。圧倒的に力の差があるのに、どっちにも味方しないっていうのは、フェアじゃない。石井君が過労死であったかどうかは私にはわからない。彼への思い入れも深い方じゃない。でも、会社が鯨だとすれば、蟻のような存在であるお母さんに、自分が知っている情報を伝えてあげることがフェアだと思ったんです」
 リクルートで教わってきたことを否定された思いがしたのかもしれない。
「情報はオープンにしよう、引き出しのものは机の上に出して、みんなで共有しようと、フェア精神をリクルートで学んできた。それが社会的意義のある仕事につながる、と教えられてきた。リクルートって、そういう会社だったはずなのに・・・」
 増田は、玉木の依頼を受け、裁判で原告側証人として証言台に立つことを引き受けた。

 リクルート社は1960年、創業者の江副浩正が大学新聞広告社を設立し、大学新聞に掲載されていた求人広告をまとめた「広告だけの本」からスタートした。
 75年に『就職情報』(現・『B-ing』)を、80年には『とらばーゆ』を創刊し、求人情報という商品を軸に事業を拡大し、81年には銀座に本社ビルを竣工している。
 その後『From A』『AB-ROAD』『カーセンサー』と事業分野を広げ、90年には『じゃらん』『ケイコとマナブ』などを創刊し、生活全般にかかわる情報産業として成長を続けた。リクルート事件をきっかけにして92年に江副が経営から退き、1兆5000億円という巨額な借金が残されたが、この10年余で1兆円強もの返済を果たした。現在の従業員数は5000人を超え、昨年度の売上高は4078億9000万円にのぼる。
 創業からわずか45年で急成長した同社には、いくつもの「伝統」がある。増田がこだわった「フェアであること」もそのひとつだ。
 元リクルート社員で、東京都初の民間人校長として杉並区立和田中学校校長に就任した藤原和博の著書『リクルートという奇跡』(文藝春秋)にこんな記述がある。
〈リクルートの最大の資産はリクルートマンシップという見えない資産。(中略)オーナーの江副さんでさえも、社員に対して〈フェア〉であることを尊び、親族を一切入社させないようにしたり、社員持株会の比率を上げたりして、必死に風土を守ってきました〉

自由に伴う自己責任

 一方、仕事に対する姿勢も独特である。同社HCソリューショングループエクゼクティブマーケティングディレクターを務める井上功は著書『借金1兆円を10年で返したリクルートの現場力』(ダイヤモンド社)で次のように述べる。
〈企業戦略の具体化では『アサインしないこと』がリクルートのやり方だ。アサイン、つまり割当・指示・命令を基本的にはしないのである。(中略)戦略を自分で立てるのだから、無論具体化するのも自分自身だ。(中略)『してはいけない』『できない』という思想を持たないことが大事なポイントだ〉
〈アサインしない現場の影響は大きいと思う。それは自由ということだ。自由を担保する代わりに責任も問う。自由と自己責任の表裏一体の関係。自由だけでは経営も事業も仕事も成り立たない。きちんとした責任を果たして初めて経営目的が完遂される〉
 こうした風土の中で、社員の意識は形づくられてきた。

 増田は2001年11月29日、東京地裁で開かれた口頭弁論で、『週刊B-ing』時代の偉の仕事ぶりや、リクルートの社風について証言を行った。それと前後して、かつての同僚と話をする機会を何度か持った。そのうちの一人が言った言葉が印象に残っている。
「石井君は自分の意思で、夜遅くまでずっといたんだよ。あんなに長くやっている必要性はなかった。会社のせいじゃない。こだわりすぎ、勝手に仕事してたんじゃん。裁判なんておかしいよ」
 増田は半分だけ、共感した。確かに、上司に強制されてやっているわけではない。編集の仕事は時間をかければかけるほど、満足いく仕上がりとなり、それが楽しみでもある。「好きでやっている」と言われればその通りかもしれない。
 だが、残り半分は共感できなかった。裁判を起こした家族の行為を否定するのはおかしい。また、上司が部下の仕事をコントロールすることは可能だと思う。それは、リクルートから一歩、外に出て、わかったことかもしれない。現在いる出版社の編集部では、疲れが目立つ編集部員がいると「つらそうだな。ヘロヘロになっている。少し休ませてあげよう」と上司や同僚が手を差し伸べる。編集部員も「もうダメです。身体もちません。私にはできません」と口に出せる雰囲気がある。しかし、リクルートにはどちらもない。そもそも、上司に編集の現場経験がないことが多いために、部下の実務量がどのぐらいなのか実感できない。部下が「できないんです」と言えば「じゃあ、どうするの?」と聞かれ、代案を求められるのがわかっている。だから「できない」と口に出す人間はいない。
「それ、癖というか、習慣ですね。」
 増田は苦笑いする。
 井上の表現を借りれば、「アサインしない」というリクルート流の社内風土からくるものなのだろう。
 それを支えているものは、仕事への誇りかもしれない。リクルート社員が好んで口にする言葉のひとつは「社会的意義」。
「リクルートの社会的意義は・・・」
「『週刊B-ing』の社会的意義は・・・」
 自社の強みを活かし「リクルートがやる意味」を追求する中で、そこに価値を見いだそうとする。結果的に、自分たちがしている仕事に社会的な意義があるという意識は強まる。増田は言う。
「一歩、引いてみると、週刊誌の一冊や二冊なくなったって、社会的には誰も困らないわけでしょう。でも、中にいると、そうは思わない。物事にはプラスとマイナスがあるのに(自分たちのしていることは意義があると)信じて疑わない。そんな価値観に包まれているのでみんながんばってしまうし、実際、がんばれるのでしょうね」
 増田が裁判所に提出した陳述書の中で、偉が亡くなる直前に深夜のリクルート社内で偉と会話を交わしたという元男性社員の言葉がこう綴られている。
〈石井くんはデジタルビーイングに移ってから相当しんどい毎日だったようで、眼の下が隈をとおりこして真っ黒な状態だった。『おい、大丈夫か』と聞いたら、石井くんは『ウース、大丈夫ッス』と答えた。心配して『ちゃんと寝てんのか』と聞いたら、『全然(寝てないの意)』と答えた。『休んだら』と言うと、『だって代わりがいないんですもん』。誰がみてもオーバーワークで、いくら『言いだしっぺ』だとはいえ、たった一人で孤独に作業させられ、しんどかっただろうと思う〉
 増田は「もし、今の自分がその場にいたら、石井君にこう言ってあげられるのに・・・」とつぶやいた。

〈いいよ、そんなにがんばらなくても。誰も困ったりしないから。身体壊してまでやることないよ。帰りなよ〉

 周りがそう言わないことが、リクルートの奇妙さではないかと増田は言う。
 リクルートの社名ロゴには「Follow your Heart」というメッセージが添えられている。「自分に素直に生きよう。自分で決める自分ならではの人生・ライフスタイルを」という言葉とともに。
 自分の心に従うとはどういうことか。自分で決め、自由に仕事をし、責任は自分でとる。人はそれを「自己責任」という。しかし、それはほんとうに自分の意志なのか。偉の死はこう問いかけている。

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

ご意見をお聞かせ下さい

kaze-editors
@shinshomap.info

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて