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Seriesノンフィクション
ある家族の肖像 渥美 京子
05/10/31

第14回 ウェブ制作という仕事の光と陰

仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

 求人情報誌『週刊B-ing』の編集者だった石井偉(いさむ)は1996年4月、その編集センスを買われ、その年に開設されたウェブサイト『デジタルB-ing』編集部に異動の辞令を受けた。アクセス数をあげるために、新連載や特集記事といったコンテンツの充実を手がけ、6月半ばにサイトをリニューアルする。だが、その2ヵ月後に突然、くも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。
 今でこそウェブ制作という仕事は、若者に人気の職種となり、大卒の新人が制作会社に就職することも珍しくなくなった。しかし、黎明期といえる10年前の状況は、今とは大きく違う。ウェブ制作現場の実態について、96年当時と今を比較しながら、偉の軌跡をたどってみる。

人気職種のウェブ制作現場は、完全分業制

 現在、ウェブサイトは企業のブランドイメージを高め、利益を生み出す手段として、重要な位置を占めている。問題解決の手段としてウェブサイトを利用する人びとが増えたからだ。たとえば、「港区にある自然食レストランを調べたい」「明日の天気が知りたい」「液晶テレビを買いたい」といった問題を解決するときに、ネットで検索するというのは、もはやごくポピュラーな方法になった。このため、企業にとっての命題は「消費者が求める多様な情報を事前にキャッチし、ウェブ上でそれを提供すること」であり、その目的を実現できるウェブサイトを構築することにある。

 ウェブサイトを作るにあたっては、制作会社に外注するケースが圧倒的に多い。制作会社における仕事は細分化され、それぞれが専門性を持ちチームとして動く分業体制が敷かれている。雑誌や出版物の制作現場が、編集者・ライター・カメラマン・デザイナー・校正者・印刷所と分かれているように、制作会社は、コンサルティングチーム、制作ディレクターチーム、デザインチーム、エディターチーム、HTML (注)のコーディングチーム、プログラマーとエンジニアなどの専門スタッフで構成されている。
 たとえば、コンサルティングチームはクライアントのオファーを受け、コンセプト作りなど全体の方向性をまとめる。ディレクターチームは企画を立案し、予算やスケジュールの管理を行い、サイトマップ作成も担当する。それを受けて、エディターチームは、クライアントに取材をして記事を作る。
「ウェブサイトで何を表現するか」が重要であるから、デザイン優先で勝負するということはありえない。コンセプトが固まり、サイトマップができて初めてデザインチームがデザイン作業にかかる。そして、原稿をHTMLというコンピュータ言語に書き換える作業をコーディングチームが行い、画面アップとなる。
 このように、現在のウェブ制作現場では、一つ一つの仕事が細分化され、完全な分業体制ができているが、10年前はどうであったのか。その手がかりとして、95年にウェブ制作会社に就職し、現在も第一線のウェブデザイナーとして活躍するT氏(35)と、96年に大学卒業後、新卒第一期生として制作会社に入社したH氏(31)、2000年に制作会社に入社したK氏(33)に話を聞いた。なお、T氏とH氏は男性、K氏は女性である。

ネット元年当時、誰もわかっていなかった

 偉が亡くなった96年は「ネット元年」と言われる。その前年末に「ウィンドウズ95」が発売され、インターネットへの接続環境の整備は急速に進んでいった。新しいメディアの可能性を求めて試行錯誤が始まった時代の最先端に偉はいた。
 その発展の度合いを端的に示すのが通信速度だ。10年前、一般機種のモデムは28.8Kbps。これに対して現在は、ADSLの最高速度が50Mbps、光ファイバーの最高速度は100Mbpsである。情報量を水の量にたとえるなら、28.8Kbpsは小さじ1杯(5cc)だが、光ファイバーは家庭用お風呂(約160リットル)108杯分くらいの差ということになる。
「その頃は、『DTPが新しい』なんて言われていた頃で、CD-ROMが全盛期。それに対して『ウェブはこれから伸びていくだろう』と注目され始めたばかり。ウェブ専門の制作会社なんて、ほとんどなかったし、第一、ウェブで食べていけるなんて誰も思っていなかった。サイトを作るといっても、クライアントはもちろん、作る方もほとんど何もわからない状態でした。CD-ROMを制作するかたわら、ウェブって、おもしろそうだなと片手間にやっていた感じです」
 ウェブサイトのデザイナー・T氏は言う。
 インターネットのマニュアル書はほとんどなく、専門月刊誌『iNTERNET magazine』(94年創刊)に載っていた情報も、ウェブの作り方やHTMLの情報は少なく、新製品の紹介やプロバイダーの広告が多くを占めていた。貴重な情報源は「ネット仲間」で、あれやこれやと情報交換しながら手探りでやっていたという。
 ウェブの作り手側でさえ手探り状態であったのだから、制作を発注する立場のクライアント側に、正確な知識や技術を持つ人間がそろっていたとは考えられない。T氏は続ける。
「あの頃って、クライアント側もわけがわかってなくて、ウェブというと新入社員に任せるような作業って感じがあったよね。ウェブで何を表現したいのか、どんなメッセージを伝えたいのかといった目的はなくて、とにかく『ふつうじゃないことをしたい』『すごいことしてくれ』というお客さんが多かった。会社案内を依頼され、打ち合わせをしていると『宇宙のイメージで作ってくれ』と言われて、びっくりしたこともあった・・・」
 今のような分業体制はなく、デザイン作りからHTMLのコーディング作業までのすべてをデザイナーが担うケースは珍しくなかった。デザイナーがメインとなっていた理由は、MacintoshのAdobe Photoshopなどデザイン系のソフトに、いち早く注目したのがデザイナーをはじめとするクリエーターだったことがあげられる。インターネットを見るためのブラウザの特性をわかっていたのもデザイナーが多く、作業は彼らに集中していた。
 制作会社側からみると、偉はクライアントの担当者にあたる。以下は、偉がライターに送ったメールだが、当時の雰囲気や偉がデザイナーと頻繁に連絡をとりあっていた様子がうかがえる。

 メールが送られたのは、『デジタルB-ing』に、特集やニュースコーナー「セブン・トピックス」を新設し、リニューアルを終えた後のことで、日時は96年6月14日午前0時47分。メールのタイトルは《アップしました。見て下さい》

〈どうもありがとうございました。なんだか、ものすごくうれしくなってまずはお二人にメールを、と思った次第です。僕はだれもいないフロアで、ひとりニヤニヤしています。いやー、こんなにうれしいのは『週刊B-ing』で初めて特集のゲラが出たとき以来かもしれません。
 今回は急ぎのアップだったので、デザインはこれから少しずつ手を加えていこうとデザイナーさんと相談しています。見直してみると、一部校正モレを発見しました。これから手直ししていきます〉

未開の地を切り開くような作業の中で

 紙に印刷されているコンテンツをウェブに流用する企業が多い中、96年の段階で、ウェブだけのためのコンテンツを作る企業はまだ珍しかった。コーディング担当としてリクルートのウェブサイトの仕事にかかわった経験があるH氏は、
「ウェブを舞台にした仕事は未開の地を切り開くようなもので、リクルートはチャレンジ精神に満ちあふれていました」
と語る。だからこそ、「開拓者」ならではの困難が多かったことは想像に難くない。
 デザイナーT氏は、偉の置かれた立場や仕事量をこう推測する。
「ウェブという土壌がまだできていない段階で、その担当をまかされたら、すごく大変だったんじゃないかな。ネットワークやハードの部分が整っていたとしても、編集やデザイン、HTMLのコーディング作業は別物で、ものすごく手間取る作業だから」

 ウェブの作業は大きくフロント系とバックエンド系に分かれる。フロント系は編集・デザイン・HTMLのコーディング、バックエンド系は主にシステム整備の仕事で、ネットワークやハードウェア、データベースの管理などを行う。
「この2つの作業をすべてわかっている人は今もほとんどいない。亡くなった偉さんや僕らがやっているのはフロント系だけれど、これはものすごく細かい仕事。バックエンド系の人も大変なんだけれど、ちょっと大変さの質が違う」
 たとえば、ライターから原稿が送られてくると、それを手直しし、見出しをつけた上でHTML化する。HTMLの入力ミス用のチェックツールや制作ソフトがない時代は、手で入力していたというが、スラッシュひとつ抜けただけで、ページは真っ白になる。画面をアップした後も、レイアウトから文字がはみ出てしまったり、行がずれたりと画面が崩れることは日常茶飯事。その後も、リンクするページを確認し、マックとウィンドウズそれぞれでの動作状態のチェックをするなど作業は膨大にある。
「僕、1ページ更新するのに、丸一日かかったことがありますよ。ソフトウェアも未発達だったから、手作業が多くて時間ばかりかかりました」
 実際のところ、偉の守備範囲は編集だけでなく、今であればコーディング担当者が担う作業にも一部かかわっていたと思われる。当時、一緒に仕事をしていたライターに
「HTMLはなんとかマスターしました。ライターさんたちにもいずれ、できるようになってもらいたい」
 と語ったり、
「アップすると画面がずれるので調整が大変」
とこぼしたりしていることからも、仕事が多岐にわたっていたことは間違いないだろう。
 偉が『デジタルB-ing』に配属になった時点で、すでに同サイトは立ち上がっていた。実際のところ、偉がどこまでの仕事を担当していたかは定かではない。わかっていることは、内容を充実させるためのリニューアル作業を偉が担当していたこと、配属から約2ヵ月半後にリニューアル画面がアップされたことぐらいだ。こう告げるとT氏は驚いた顔をして言った。
「えっ、紙媒体にいた人が、ウェブのことを一から勉強して、そんな短期間でそこまでやったの? 信じられない。ふつう半年はかかるよ。ちゃんとしたマニュアル書なんてまだない時代だよ。たとえ、受け皿のベースができていたとしても、リニューアルして、コンテンツを入れるのはすごく大変なことなんだから。しかも、毎週更新でしょう。精神的プレッシャーは相当なもの。それは、つらいなあ」

たったひとりの更新作業

 細かい作業に加え、次々とトラブルに襲われた様子は、リニューアル更新から1週間後の6月20日、偉が担当ライターに送ったメールからも読み取れる。メール送信時間は午前11時36分、タイトルは《遅くなってすみません》となっている。

〈ところで現在、Digital-Bingの記事用サーバが壊れています。そのために新しい記事がアップできないという悲しい状況です。朝4時に、すべての原稿整理が終わって、さあアップだとはりきったとたん、コンピュータは『あんたが探しているサーバどっかにいっとるでえ』と非情なメッセージ。『ここまでやったのにー』と思うと同時に『もしかしたら僕が壊したのでは?』と不安になり、しばらく格闘した後、そーっと家に帰ってしまいました。
 結局、僕の責任ではないことがはっきりして一安心でしたが、ちょっとどきどきものでした。今日中には修理が完了すると思いますので、アップしたらご連絡申し上げます〉

 T氏はこう解釈する。
「切なくなるな。明け方までがんばったのに突然、システムのエラーメッセージが出る。こんな感じの、わけのわからないことはいつも起きるし、文字バケもしょっちゅう。どうすれば直るんだと悩んでいる姿が目に浮かびます。たぶん、こんなことばかりだったろうと思うよ」
 リクルート側は裁判の準備書面の中で「デジタルビーイングの運営に関しては、Mが商品企画と編集業務の両方について責任者として担当し、その下にSが商品企画を、偉氏が記事編集を、それぞれ担当し、さらに求人広告のアップロードおよび技術的サポートをM氏が担当していた」と述べている。さらに上司Mは証人尋問において「すべてのシステムが整った後で偉は配属され、彼は編集作業を担当しただけ。画面更新はボタンをひとつ押すだけの作業だから、夜遅くまでかかってやらずとも、朝出社してボタンをクリックすれば足りる作業だった」という趣旨の証言をした。
 それをT氏とK氏に伝えると、「そんなわけないじゃない」と即座に否定した。確かに画面更新のためのアップロードはボタンをクリックするだけだが、その前に、レイアウトの崩れ、画像のゆがみといったミスの細かな確認作業は今でも必ず行う。ネットの環境が整わない10年前であればなおさら、編集の仕事に加えて、大量のチェック作業や修正、システムエラーの原因究明まで、やらなくてはならないことは膨大にあったはずだ。
 ウェブ制作現場は当時に限らず今も忙しい。山積みの仕事と締め切りを抱え、自分を追い込みながら、悶々と作業に向かう日々、オーバーワークで心身ともに疲れ果てることもあるだろう。だが、偉の置かれた状況にはひとつ特異な点がある。それは、仕事上の喜びや苦労を分かち合う仲間がいなかった点だ。
 制作会社であれば、仕事の中身がわかっている仲間や先輩が側にいる。システムエラーで困惑していれば、解決法を聞くことができる。苦労してトラブルを解決すれば「おまえ、よくやったな」と声をかけられる。達成感を仲間と味わうことで報われる。
 しかし、偉はひとりだった。より正確にいうと、偉と同じ作業をしている人間が同じフロアにはいなかった。よき理解者も、達成感を共有する仲間も・・・。
 雑誌なら、特集が当たれば部数増につながる。営業マンなら数字で売上増がわかる。だが、まだウェブが、海のものとも山のものともわからない黎明期にあって、偉がいくらがんばっても、目にみえる成果が現れるわけではない。反面、時間はかかる。ウェブ作りの仕事の大変さをわかる人間がいなければ、「なんで、そんなに時間がかかるんだ。こだわりすぎじゃないのか」とマイナスの評価にさえつながりかねない。
 張りつめて仕事をこなし続けても、目標を達成し、仲間と喜びを共有することで、緊張した心と身体をほっとゆるめることができる。緊張と弛緩をバランスよく保つことは、心身とも健康に働く上で欠かせない。果たして、偉はどうであったのか。深夜、誰もいないフロアでコンピュータに向かっていた後ろ姿を想像すると、そこからは「孤独」の2文字が浮かびあがる。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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「リクルート過労死裁判を考える会」(仮称)

(注)
HTMLとは、Hyper Text Markup Languageの略語。ブラウザ上で表・画像・文書などを表示させるために使う言語のこと。