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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第10回 提訴へ

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

 激務の最中に石井偉(いさむ)は若くして亡くなった。彼の死の真相を知ろうと動き出した母親の淳子とともに、私は都心の弁護士事務所を訪ねることになった。

 主任弁護士の玉木一成とは初対面だった。弁護士事務所の面談室では、すでに村田智子弁護士と小池純一弁護士が待機していた。この3人で弁護団を組んでいるという。石井淳子と私が席につくと、すぐに本題に入った。
「労働実態を示す資料が少なく、偉さんがどのような仕事をしていたのかさえもつかめないでいます。ご存知のことがありましたら、お話いただけますか」
 玉木弁護士は労災問題が専門で、過労死をめぐる裁判の経験は深く、過労死弁護団全国連絡会議の事務局長も務めていた。だが、偉のケースはわからないことが多いという。ネックは「インターネット」にあった。
 偉は「インターネット企画グループ」に所属し、「Digital B-ing」を担当していた。今でこそ、インターネットは身近な存在で、利用者は7730万人、人口普及率は60%を超えている。しかし、偉が亡くなって2年がすぎた1998年当時でさえ、利用者数は1694万人、人口普及率は13.4%にすぎない。(「平成15年通信利用動向調査」総務省)
 玉木弁護士自身、インターネットにアクセスしたこともなければ、メールアドレスも取得していないという中で、ネットを舞台とした具体的な仕事の内容がつかみきれずにいた。私が知っているのは、偉が担っていた仕事の一部にすぎないが、事実をありのままに伝えることにした。

ネットビジネス東雲期に異動になって

 リクルート社は、「とらばーゆ」や「週刊ビーイング」など紙媒体を軸に求人情報誌などを発行してきた。デジタルメディアを軸とした、ネット上でのビジネス展開に着手したのは95年。大学や大学院修了者向けの「RECRUIT BOOK on the Net」がスタートとされるが、同メディアは紙媒体の内容をWebサイトに転載したにすぎない。紙媒体と連携せず、独立したデジタルメディアとして立ち上げた最初のWebサイトが96年4月スタートの「Digital B-ing」だった。ちなみに、「Digital B-ing」やそれに続いてスタートしたいくつかのWebサイトは、現在、就職支援サイト最大手に成長した「リクナビ」が成功をおさめる下地となった。

 偉が「Digital B-ing」に異動になった96年は、同社がインターネット上におけるビジネスを模索し始めた時期と重なる。だが、ネットビジネスで採算が取れるか否かは未知数で、紙媒体と競合しあいマイナスとなる危険はないのか、といった意見も社内にはあった。
「異動になりました。まだ、仕事の中身がよくつかめないのですが、近いうちにまたご連絡します」
 そんな電話が偉からあったのは96年4月。そして、翌5月半ば、「Digital B-ing」で雇用や労働に関するニュースを紹介するコーナーの連載を依頼された。打ち合わせの席で、偉はこう語った。
「「Digital B-ing」を立ち上げたのですが、今は求人広告が載っているだけでヒット数も多くありません。ネット先進国、アメリカのホームページを見ると、記事やトピックスが充実しています。新たなメディアという観点からも、内容の充実が先決でしょう。「Digital B-ing」の中に、セブン・トピックスというコーナーを設け、雇用や労働に関するニュースを毎週7本入れ、ひとつの売りにしたいと考えています。ただ、僕以外は技術系スタッフなので、編集のことは一人でやるしかありません。応援してくれませんか」
 当時、インターネットに接続するためには、モデムやソフトを購入し、マニュアルと首っぴきで設定を行い、操作方法をマスターしなくてはならなかった。
 偉は、マニュアルやインターネットの専門誌を手に「技術的なことも含めて、いろいろと勉強しています」とも言った。技術的な勉強をするかたわら、特集や連載の企画を練り、執筆陣を開拓し、デザイナーとレイアウトの打ち合わせをするなど、新雑誌を創刊するに近い労力をつぎ込んでいた。仕事量の多さに驚いた。
 こうして6月、特集や連載記事などを満載した「Digital B-ing」がスタートする。セブン・トピックスの場合は、水曜日に翌週のテーマを決めて、木曜日から取材に取りかかり、月曜日の夜に原稿を入れる。偉は原稿をチェックし、必要があれば直しを入れ、字数を調整して、タイトルをつける。画面更新は毎週、木曜日の午前0時。このため、水曜日の夕方から深夜にかけて仕事が集中した。
 雑誌でいうところの「創刊号」が公開された夜、偉から「ようやく、画面アップしました。なかなか、いいできばえです」というメールが届いたが、その時刻は午前2時を回っていた。

 仕事の中身と、具体的な流れについて一通りの説明を終えると、玉木弁護士は言った。
「どんな仕事をしていたか初めてわかりました。タイムカードを見ると、水曜の深夜から木曜日にかけて残業がぐっと伸びているのですが、画面更新が理由だったのですね」
 私は必要があれば今後も協力を惜しまないと告げ、弁護士事務所を後にした。

死の直後から、社内で過労死が話題に

 それから数日後の12月はじめ、偶然、偉の後任のYと話す機会があった。Yは偉より入社歴で2年先輩にあたる。偉の死後、「Digital B-ing」の担当となったYとは、電話やメールで打ち合わせをすませていたが、まだ顔も合わせていなかった。ちょうど、リクルート本社のある銀座に出かける用事があったので、Yと昼食を共にすることにした。
 リクルート本社の1階で待ち合わせ、そこからほど近い銀座博報堂の5階にある和食の店に入り、ランチを注文した。12時前ということもあり、店内に客の姿はまばら。ネットビジネスの現状や、「Digital B-ing」など、仕事がらみの話をした後で、私は何気なく、こう尋ねた。
「石井偉さんが亡くなった後、急に担当になられ大変だったのではないですか」
 すると、Yは意外な言葉を返した。
「石井君の死は他人事と思えなかったですね。あの後、若いやつが3人も倒れているんです。次は俺かな、とみんなで話したこともありました。ノルマがきついし、会社でこなせない仕事を家に持ち帰ってやることもけっこうあります。ひとりでこなす仕事が増えているので仕方ないですね」
 さらに、こう続ける。
「石井君が使っていたパソコンを開いて、メールのやりとりを読んだんです。死ぬ数日前のメールを見て『こいつ、もうすぐ自分が死ぬなんて思ってなかっただろうな』と思ったりして・・・」
 私は「彼のパソコン、ですか?」と聞き直した。
「ええ、今も編集部にあります」
「どうして?」
「彼が死んでまもない頃、社内では石井の死は過労死かどうかという議論が起きたのです。20代でくも膜下出血といえば、ふつう過労死を疑いますよね。後任の僕は石井君のマックを使っていたのですが、上司から『パソコンに残されているデータは、過労死が問題になった時に証拠となるから消すな』と言われ、何となく複雑な気持ちでした」
 Yはパソコンに残されたデータが会社にとって有利なのか、不利なのかについては言及しなかったが、それにしても驚いた。残された家族が「過労死」を問題にするはるか以前から、会社内部でそれを意識していたとはどういうことなのか。また、偉の母の淳子や弁護士から聞いた話では、手帳や取材ノートなどの一切がなく、亡くなる前の行動が全くわからないという。ところが、社内には私的なメールも残ったパソコンがあるというのだ。

死んだのは不摂生のせい

 その時、あるシーンを思い出した。偉が亡くなってから3週間ほどたった96年の9月19日、私は仕事の打ち合わせのために、偉の直接の上司だったMを訪ねた。部下を亡くし、さぞかし心を痛めているだろうと察して、
「石井さんのこと、残念でした」
 と切り出すと、Mは言った。
「彼がこの編集部に来たとき、本を2冊渡して『これでインターネットのことを勉強しろよ』と言ったんです。彼は必死に勉強していました。今、思うと、僕は石井に無理をさせたかなとも思っています」
 だが、その次に出た言葉は、
「でも、石井は仕事で徹夜しても、そのまま遊びに行くようなところがありましたから。休みの日も、友だちと遊んでいたようですし・・・」
 一瞬、何を言おうとしているのか理解できなかった。なぜ、この場で、私にそんなことを言うのかと、心にひっかかるものを覚えただけに、強く印象に残った。
 Yと話をして、そのわけが少しわかった。社内では亡くなった直後から、すでに過労死ということが意識されており、上司として責任を回避したい気持ちが働いていたのではないか。だから、死を悼む気持ちと同列に、「死んだのは、自らの不摂生のため」ともとれる言葉を吐いたのだ。そう推論すれば、つじつまがあう。

 昼食を終え、会社に戻るYと別れ際、土橋の交差点にそびえ立つリクルートの本社を見上げながら思った。

〈一人の若者が死んだ。なぜ? 好き勝手に生きていたから死んだのか。いや、そうではないだろう。真面目に働き、自分なりの責任を果たそうと一生懸命だったはずだ。だが、それを明らかにする証拠は会社の中で、部外者はアンタッチャブルになっている。偉の死が仕事と関係があったことを証明し、その名誉を回復するための手がかりは裁判という方法によってしかないかもしれない〉

 Yはしばらしくて、リクルート社を退職した。もう一度、連絡をとろうと試みて自宅に手紙を出したが、返事はこなかった。

「リクルート青年編集者
過労死損害賠償請求事件」
提訴記者会見
1999年6月9日 司法記者クラブ

 それから半年後の99年6月9日、石井淳子は東京地裁に「息子の死は過度な勤務が原因の過労死」として、リクルート社に損害賠償を求める裁判を起こした。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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