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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第8回 リクルートと偉、そして死の後で

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

存在感を示した入社式での代表スピーチ

 1992年4月、東京・九段にある日本武道館で株式会社リクルートの入社式が開かれた。式の後、社長以下役員も同席した社員総会で、偉(いさむ)は新入社員を代表してスピーチを述べた。代表は全部で3人、北海道地区から偉、関東と九州からそれぞれ女性の新入社員が選ばれた。
 全国からバランスよく人選したとはいうものの、500人を超える新入社員から選ばれるということは、入社の時点ですでに目立つ存在であったことは推測に難くない。しかも、スピーチの中身が他の2人とはかなり違っていた。リクルート社員が撮影したビデオに映る偉は、生真面目な顔でこんな挨拶をしている。

「私は人に誇れる才能はありません。どちらかというとリクルートにあっては、マイナーな存在かもしれません。しかし、リクルートは「ガテン」「とらばーゆ」などを創刊し、マイノリティ的な存在であった女性やブルーカラーに光をあてました。経営の原則である新しい価値の創造、それをここにいるみなさんに再認識してもらうため、自分は今、ここに立って挨拶していると思います。こんな僕ですが、よろしくお願いします」

 このスピーチで、偉の名はいちやく全社に知れわたることになった。当時、リクルートに社員として在籍していたジャーナリストの河村清明は言う。

「リクルートの社員は何をやるにしても、イベントチックなノリが好きでした。石井以外の女性2人は、ジョークも交えながら明るく元気に挨拶し、それが受けて会場もわいた。ところが、石井は真面目一本で、会社や仕事への思いを熱く長々と語ったのです。『珍しいヤツだな』と受け止めた社員が多かったんじゃないかと思います」

仕事が人を成長させるのではなく、人が人を成長させる

 偉は研修期間が終わると、編集職として「週刊ビーイング」に配属になる。先輩にあたる女性社員は偉の印象について、遺稿集『偉 あるドサンコの29年と2ヶ月』にこう書き記している。

<石井との最初の出会いは、武道館だった。新入社員代表スピーチで超生意気?! な挨拶を長々として会場全体からブーイングの嵐。当時、私はビーイングの編集にいて『あんなのがウチにきたらボコボコにしてやる』なんてKやMといったB編三ババトリオで言い合っていたら、なんと本当に石井がビーイング編集に配属になったではないか。>

 イベントチックなノリが「社風」で、深刻なテーマも軽い笑いに乗せて演出するような社員が多いなかで、「マイナー的存在」と自称し、真面目一本に熱意を語る偉の姿は、他の社員には違和感を抱かせたのかもしれない。しかし、いざ編集部に配属になると、同僚たちはそれが「誤解」であったと知る。先の女性は遺稿集でこう続ける。

<ところが、「超生意気なヤツ」の印象は、本人に会ったとたん全く変わってしまった。石井は本当にいい奴で、真面目に精一杯しゃべっただけだった。その日から私にとって石井は一番かわいい期待の後輩になった。(中略)石井は本当に特別な存在だった。私がどの編集部に行こうが、誰かメンバーを選んでいいと言われたら、真っ先に石井の名前を上げていた。>

 偉を知る誰に聞いても、その評価は高い。真面目に仕事をし、趣味も豊富で、会話も楽しい。後輩の面倒見がよく、社外スタッフからも尊敬される、そんな若者像が浮かび上がる。また、別の先輩は「言えばちゃんと物事をこなすし、雑学的知識はピカイチ。コイツはすごく頭がいいなと感心した」と言う一方で、新人だからといって、気を遣い、買い物に行くとか片づけをするといった雑務には無頓着で大物ぶりを発揮していたと述懐する。
 入社後しばらくして偉は友人に「仕事が人を成長させるのではない。人は人と交わることで成長するのだ」と語っている。この時期、偉は編集の仕事に全力を傾ける一方で、初めての東京という大都会で多様な人間や出来事と出会い、さまざまなことを吸収し、時にぶつかりあったりしながら、人間としても大きく成長していったと思われる。

 だが、入社からわずか4年半後の96年8月、偉は倒れ、帰らぬ人となった。ちょうど、「週刊ビーイング」から創刊間近の「デジタルビーイング」に異動となった4ヵ月後のことだ。いったい、彼の身に何が起きたのか。将来を期待された若者はなぜ、突然に命を落とさなくてはならなかったのか。

それは一本の電話から始まった~1998年秋・東京~

 1998年の初秋、やわらかな秋の日差しが差し込む南側の仕事部屋で、私は机に向かっていた。電話が鳴り、私は受話器をとった。聞き覚えのない、だが、明瞭で柔らかな口調の声の主が言った。
「私、北海道旭川の石井淳子と申します。渥美京子さんでいらっしゃいますか? リクルートに勤めていた息子の偉と一緒に、お仕事をなさったことがございますでしょうか?」
 ほんの一瞬、空白の時間が流れ、そしてすぐに電話をかけてきた主が誰であるかわかった。
「はい、存じ上げています」
 と答えると、相手は少し安心したような様子で、
「息子が亡くなったこともご存知ですか?」
 と言った。知っていると告げると、電話の主はこう続けた。
「実は今、亡くなった息子の遺稿集を作っております。遺品を整理していましたら、渥美さんの名刺が出てまいりました。出版関係のお仕事をなさっているようなので、何か息子が原稿など書き残してはいなかったかと思いまして、失礼を承知でお電話させていただきました」
 私はこみあげる感情を押さえながら言った。
「偉さんのお母さまですね。ええ、偉さんのことはよく存じ上げています。こちらからご連絡するのは控えていましたが、ずっと、お話したいと思っていました。お電話いただけて嬉しいです」

死の直前まで仕事を共にして

 私が偉と初めて出会ったのは、ちょうど亡くなる1年前、95年夏のことだ。その頃、私は週刊誌の記者をしており、バブル崩壊後に社会問題化していた「若年失業」をテーマにした特集記事を書いた。それを読んだ偉は、共通の知人を介して電話をくれ、編集部がある神保町まで訪ねてきた。
 夏の暑い一日だったように記憶している。神保町にある喫茶店でアイスコーヒーを頼んだ偉は「あの記事、面白かったです。僕もあんな特集がしたいと思っていたところなんです」と切り出した。それから私たちが意気投合するまで、さほど時間はかからなかった。自己紹介もそこそこに、雇用情勢の分析から労働現場における問題点まで話はつきず、2時間にわたり議論が白熱した。そして、偉は「今度、うちの雑誌にも記事を書いてもらえませんか」と言い、帰っていった。
 2ヵ月後、偉から電話があった。別れ際の約束通り、特集記事の執筆を依頼され、偉と仕事をする機会に恵まれた。翌96年4月、偉はインターネット上のウェブサイト「デジタルビーイング」に異動になった。当時はちょうど、インターネットが普及し始めようとしていた時期で、総合情報産業界最大手のリクルートはいち早く、ネット上のメディアを使ったビジネス展開に着手、6月創刊予定の「デジタルビーイング」は雇用に関する記事や読み物とともに、転職相談や情報もネット上で繰り広げることを目指していた。そんななかで再び、偉から連絡があり、私は「デジタルビーイング」に毎週、労働や雇用に関するニュースを配信する仕事を頼まれた。月曜日までに取り上げたいテーマを決め、水曜日の深夜までに入稿する。連絡も、テーマや原稿のやりとりも、ほとんどメールを使って行った。

「あれは過労死だな」

 ところが、創刊から2ヵ月ほどたった8月のお盆休み明け、突然、偉と連絡がとれなくなった。メールの返信がない、携帯電話も応答しない、会社の電話は個人直通になっていて「はい、石井です。ただ今、留守にしております」とメッセージが流れる。週刊ベースの仕事は、一日でも作業が遅れると原稿を入れるのが間に合わず、困ったことになる。律儀な彼には珍しいことだった。
 まもなく同じセクションで働いているという女性から「実は、石井さんは倒れて入院中です」と電話があった。そして、2日後にかかってきた電話は「亡くなりました」。通夜と告別式の案内が地図とともにファックスされた。

 残念だった。偉とは仕事上のつきあいだけで、プライベートなことは一切、知らない。だが、1年余の短いつきあいのなかでも、偉がいかに優秀な編集者であり、人間的にもすぐれているかは感じていた。
 一瞬、頭の中を「過労死」という言葉がかけめぐった。偉はなぜ死んだのか、他の人間はその死をどう受け止めているのか。偉と共通の知人で、リクルートの雑誌にも連載コラムを執筆していた岸健二に電話をかけてみることにした。岸は当時、ヘットハンティングの会社で部長職についており、偉は岸と頻繁に連絡を取りあっていた。加えて、もと大手百貨店の労務を担当していたこともあり、企業内のことはよく把握している。私は参列しなかった告別式の様子を岸に聞いた。岸は「石井君の人柄がにじみ出るような葬式だったよ」と話した後、最後にぽつり、
「あれは、過労死だな」
 つぶやくように言った。そして「だが、立証は難しいだろうね」とも。

 偉の死後、私の手元には、偉の手書きのラフスケッチや企画書がいくつか残された。家の留守番電話のテープには、偉が吹き込んだ肉声が録音されたままだった。せめて、遺族に遺品を届けたいと思った。だが、絶望のどん底に浸っているであろう遺族に、直接、連絡をとるのはためらわれた。心のどこかに、ひっかかるものを覚えつつ、2年の月日が流れた。

 淳子から電話がかかってきたのは、そんなある日のことだった。そして、淳子が言ったある言葉が、私を大きく突き動かした。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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