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SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第7回 北大合格、充実した学生生活

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

2浪の末に北大に、テニスや映画、車に夢中

 北大受験は失敗に終わった。自宅浪人すると言う偉(いさむ)に、淳子は予備校に行くことを勧めた。だが、偉は「旭川の予備校はレベルが低いから、行っても意味がないんだ。札幌の予備校に行ったら100万円は違うよ(授業料だけで100万円もかかるよ)」と言った。
 年子の妹、まどかも受験を控えている。1986年当時、淳子の年収は手取り300万円に満たない。家の経済状態を知っているだけに、母親に負担をかけたくないという思いだったのだろう。自宅でカリキュラムを組み、Z会の通信教育を受けながら受験勉強を続けた。
 そして1年後、再び北大に挑むが、結果はまたしても不合格だった。ちなみに、第二志望で受けた信州大学に偉は合格していた。だが、偉はもう一度、北大を目指して2浪したいと言う。淳子は納得できなかった。
「おまえ、浪人は1年だけって約束だったじゃない。せっかく信州大学に受かったんだよ。来年、受かる保証はないでしょう」
 信州大学を受験するための旅費や宿泊費だけでもかなりの金額がかかっている。まどかは地元の国立大学に合格したが、4年間は学費がかかる。偉が2浪すれば、経済的な負担がさらに増す。そんな不安が頭をよぎる。しかし、偉も折れない。
 信州大学の入学手続きの締切を迎える前夜、すでに地元の国立大学に合格が決まっていたまどかに淳子は「どう、思う?」と聞いた。まどかは言った。
「私には浪人は向いていないから家から通える大学に行く。私の教育費の分も回していいから、もう1年、浪人させてあげてほしい」
 いつも喧嘩ばかりしていた兄妹が、同じ受験生ということで連帯感を強め、相手をかばっている。不確かではあっても未来へかける若さの前に、妥協を期待した淳子は負けた。ひとつだけ条件を出した。
「どうしても行きたいと言うなら札幌の予備校に行きなさい」

テニスを始めた自宅浪人時代(旭川にて)

 自宅でひとり机に向かう日々は精神的にもしんどい。合格ラインにいると言われながら不合格になったのは、実力が発揮できなかったからだろうと淳子は思った。偉は自宅浪人でいいと主張したが、まどかが「お兄ちゃん、傾向と対策からひとりで作って勉強していくのは大変じゃないの?」と助け舟を出し、偉も母の言葉に従うことを決めた。
 偉と2人、札幌の予備校に出向いて入学手続きを終え、下宿先も決めた帰りの電車で淳子は言った。
「おまえ、わがままだよね」
「うん、自分でもそう思う」
 淳子は偉のその言葉で胸のわだかまりが消えた。
 2浪を経て翌88年春、北大に合格した。

 偉が北大に入学した88年前後、日本はバブル経済のまっただ中にいた。
 その頃の経済トピックスを拾ってみると、87年2月に上場されたNTT株は、第一次売り出し価格が119万7000円だったが、4月には318万円の最高値を記録した。88年から89年にかけて、公定歩合の引き上げが続き、株価は急上昇していく。89年8月、東証1部の日経平均株価は史上最高値の3万8915円を記録する。
 産業界のビッグニュースも相次いだ。89年、任天堂がアメリカ・メジャーリーグのシアトルマリナーズの筆頭株主となり、ソニーが米国のコロンビア映画社を買収、三菱地所もアメリカのロックフェラーグループの株式を51%所有し、日本企業がアメリカを買い占めるといったニュースが話題になった。
 一般に、バブル崩壊が始まった時期は、株価が下落し始めた90年といわれるが(地価の下落は91年)、一般庶民のみならず、政治家にあってもその実感はとぼしく、景気の後退を実感するのは92年に入ってからである。ちなみに、すでに株価の下落が始まっていた90年の8月に発表された経済白書ですら、景気は戦後最長のいざなぎ景気に及ぶ可能性を示唆している。
 こうした経済情勢の中で偉は大学生活をスタートさせた。同じ西洋哲学を専攻していた同級生の近藤千奈美(旧姓・高橋)は言う。
「石井君って、目立つんです。おしゃれだし、スタイルもいいし、声もよく通る。みんなと同じことをするのは絶対に嫌、というのが彼のモットー。雰囲気が大人っぽくて、言うべきことはちゃんと言う。現代哲学のゼミでは院生の意見に『ちょっと違うと思います』と議論してやりこめることもありました。教授も一目置く存在でしたね」
 同級生と写っている写真を見ると、他の者がジーパンにトレーナー姿であるのに対し、偉はベージュ色の背広にカラフルなネクタイを締め、ひときわ目立つ。おしゃれに気をつかい、テニスサークルに入り、映画にもよく出かけ、ローンを組み、外車であるローバーのミニも購入している。
 仕送りは7万円。偉は嗜好品も交遊費も塾講師のアルバイトでまかなっていた。アルバイト代が増えたからと、大学時代後半は仕送りを6万円に減らしてくれと淳子に申し出てもいる。

「母さんの面倒を見るのは僕しかいない」

就職活動を始めた大学4年生の頃

 そんな偉が就職活動を行ったのは大学3年生の90年暮れから91年の春にかけてのことだ。91年の就職戦線は、新卒売り手市場最後の年である。優秀な学生を囲いこもうと青田買いが横行し、就職協定は有名無実のものとなった。
 同年8月に封切られた映画『就職戦線異状なし』(金子修介監督、出演・織田裕二、的場浩司他)が当時の若者気質を映し出している。この時代の、この映画のテーマは「豊さに負けないで生きてほしい」。
 今では考えられない超売り手市場のなか、映画の中で的場浩司扮する大学4年生の言った「マスコミに入って、いい車、いい女、クリエイティブな仕事がしたい」という言葉が当時の大学生に流れる空気を象徴している。
 偉の下宿先にも、段ボール数箱分のリクルート案内が企業から送られ、大学やサークルの先輩からは「うちの会社にこないか」と誘いが相次いだ。だが、偉は段ボールを開けてみることさえしなかった。近藤千奈美はこう証言する。
「石井君は初めから、アパレルとマスコミ業界に的を絞っていました。ちょうど、デザイナーズブランドの全盛期、一緒にワコールとワールドの札幌支社を会社訪問したのを覚えています。マスコミではNHK、広告代理店や出版社をあたっていたようです」
 千奈美は大学4年の春、偉からリクルートの社名を聞かされた。
「北大の先輩で、札幌支社に勤務している同社の社員と会ったんだけど、リクルートって、雰囲気がすごくいいんだ。学歴や学閥を重視しないというもの気に入った」と偉は言った。
 88年に起きたリクルート事件の記憶がまだ生々しい時代だ。戦後最大級の汚職事件となったリクルート事件は、政界、財界、官界を巻き込み、リクルート社江副浩正前会長をはじめ、次々と逮捕者を出し続けていった。
 千奈美は内心「石井君ならもっといいところに行けるはずなのに、リクルートにするなんてもったいない」と感じたが、偉の決心は固かった。

 旭川に住む淳子のもとに偉から電話があったのはちょうどその頃だ。
「もしもし、母さん、元気かい? 就職のことで電話したんだけど」
 と切り出した。
「北大に行ってまで、何が悲しくてって言われるような会社に行っていいかい?」
 淳子はびっくりした。これまで偉は自分の進みたい道については、親に相談する前に自らの意思で決めてきた。なぜ、就職だけは許可を求めるのかと不思議に思いつつ、淳子は、
「どこなの?」
 と訪ねた。
「リクルートなんだ。マスコミの世界をみたいので、東京に行っていいかい?」
 連日のようにマスコミをにぎわしてきたリクルートの社名を息子の口から聞かされ、淳子は思わず笑いがこみあげた。決して世間的イメージはよいとはいえない会社を選んだ偉の決断は、なぜか「偉らしいな」とも感じた。
「いいよ。おまえの人生だもん」
 と答えた。

 それにしてもなぜ、偉はリクルート社を選んだのか。千奈美は偉から聞かされた言葉をこう代弁する。
「マスコミの仕事がしたい。それには東京に出なくてはだめだ。でも、僕はいずれ北海道に帰ってくる。母さんの面倒を見るのは僕しかいないから。母さんは同情されるのは嫌うから、一緒には住まないだろう。でも、近くにいてあげたいんだ。リクルートは社員の独立を応援してくれる。10年したら北海道に戻り、札幌で会社を作ろうと思うんだ」
 テレビ局、出版社や広告代理店に就職したら、北海道に戻ってこられる可能性は低い。どうしても東京を拠点とした人生になってしまう。年功序列や終身雇用という「神話」がまだ信じられていたなかで、リクルートは能力主義を打ち出す一方で、若手社員の独立起業に力を入れていた。千奈美もリクルートの札幌支社を会社訪問し、面接を受けているが、面接官から「10年後、独立したいと思いますか?」と聞かれている。

入社後の母の日に恩返しのプレゼントを

リクルートに就職が決まり、札幌を発つ日
隣は同級生の近藤千奈美さん(千歳空港にて)

 内定の解禁日が過ぎた91年10月、リクルートは内定を出した学生の親を対象とする父母説明会を東京で開いた。淳子もスーツを着て、参加した。九州から来たという親が「リクルートに入るのは、すごく反対したんですよ」と言った。近くにいた別の親が頷く。しかし、淳子はその気持ちがわからなかったとこう振り返る。
「リクルート事件の印象はよくないけれど、私は偉が決めたことなのだからとあっさりしていたの。社内のいろいろな部署を見せてもらい、『こんなに明るい会社なんだ。偉はこういうところに惹かれたんだろうな』と納得して、旭川に帰ってきたことを覚えています」

 翌92年4月、偉は東京に向かい旅立った。淳子に寂しさや喪失感はなかった。
「やっと、私の責任を果たしたんだわ。親としては十分なことをしてやれなかったのに、偉もまどかも、ほんとにいい子に育ってくれた。親として、子どもたちにせめて迷惑だけはかけないようにしよう。心も、お金も、身体も、子どもたちの世話にならずに生きていけるおばあちゃんになるために、老後の支度にとりかかりましょう」
 この時点で、偉が将来、北海道に戻るつもりでいることは知らない。偉とまどかの3人で暮らした楽しい思い出を胸に浮かべながら、心豊かな気持ちで自分の老後に思いをはせていた。
 そして、リクルートに入社してまもない5月、偉から淳子宛の小包が届いた。開けてみると、茶色の折り財布と一緒に直筆の手紙が入っていた。

「5月10日は母の日です。ということで、ここにプレゼントをば送らせていただくものです。プレゼントの中身はお財布です。まどかの言うところによると、人に買ってもらったお財布の方が、お金が溜るのだそうです。これでしっかりとお金を貯えてください。今までは2浪もした出来の悪い息子のために、お金は出ていくことばかり。そのことへの些細なお詫びです。
 財布と一緒に宮沢賢治の童話集を送ります。お互い、時間に追われる生活が続いているので、なかなか本を読む時間もありませんが、あと24年経っても本の話や映画の話ができる間柄でありたいと思っています。たぶん、まどかはうんざり顔で僕らの議論を眺めることになるでしょうけど。
 では、これからもどうぞよろしく。
          母さんへ       偉より」

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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