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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第6回 母子3人で肩を寄せ合った7年間

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

10円のバス代も節約、でも幸せでした

 北風にじっと耐えていた冬芽が、春の訪れとともに緑の葉を次々と出すかのように、母と子3人での新しい暮らしは、何の保証があるわけでもないのにのびやかな日々とともにスタートを切った。
「誰の目も気にせずに、のびのびと手足を伸ばし、思い切り深呼吸ができる感じだった」と淳子は振り返る。
 偉(いさむ)が札幌の予備校に通うため家を出るまでの7年間、まどかも含めて3人で暮らした日々は、淳子の人生のなかでも最も充実した、心安らかな日々だったことは想像にかたくない。
 仕事に就くのは、結婚退職して以来、14年ぶりだった。「法律書の加除」の仕事は役所、学校、弁護士事務所や会計事務所などを訪ね、各種法律書のうち、法改正された条文があると、古いページを新しいものと差し替えていく作業である。いざ始めてみると、予想以上に出張が多かった。
 宿泊を伴う出張先では、その地域に点在する役所や学校を回るため、短くて1泊、長いときは1週間に及ぶこともあった。月に2、3回、子ども2人だけを残し、家を留守にするのは後ろ髪をひかれる思いではあったが、「3人の生活を守るためなのだから」という前向きな気持ちが淳子を支えた。
「後から考えると寂しかっただろうなと思うのですが、当時はなんとか3人での生活を軌道に乗せるため、その日その日を過ごすことで精一杯でしたね」
 加除の仕事は歩合制で、数をこなせばこなすほど給料にはねかえる。淳子は毎朝、できるだけ早く家を出て、できるだけたくさんの仕事をこなすことにしていた。朝5時30分頃に起きて、朝食と自分の弁当を作り、子どもたちに声をかけて家を出る。帰宅するのは早くて午後6時過ぎで、7時30分を回ることも多かった。
 遅くなった日は偉とまどかが夕飯を作り、洗濯物をとりこんでたたむ。いつの間にか、「家に早く帰った人ができることをやる」というルールができていった。偉もまどかも、母が働くことを前提とした3人での暮らしを希望したのは自分たちなのだから我慢しなくてはいけないという意識があったのだろう。愚痴をこぼすことはなかったが、たった一度だけ、まどかがこう切り出したことがある。
「お母さん、ラジオでいいから買ってもらえないだろうか。お兄ちゃんが帰ってくるまで、音のないところに一人でいると寂しくてたまらないの」
 中古の冷蔵庫や洗濯機など、生活に最低限必要なものをそろえるのが精一杯で、テレビはもちろんのこと、ラジオさえ家にはなかった。中学生の偉は部活で卓球部に入っていたから、帰宅時間が遅い。
「はっと胸をつかれる思いでした。ちゃんと食べさせることだけで精一杯。一日が終わるとくたくたに疲れきっていたから、まだ小学生のまどかの寂しさに心を配ってやってなかったのね」
 仕事から帰り、食事を終えると"バタンキュー"ということも珍しくなかった。内風呂はなかったので週に2、3回、3人で銭湯に行った。一緒にいる時間は、できるだけ笑いのあふれるひとときにしようと心がけた。
「あるとき、『お母さんがイライラしながら、家の中をきれいにするのと、部屋は汚いけれど、お母さんがゆったりとしていて、ときには一緒に笑ったりするのとどっちがいい?』と聞いたのね。すると、偉もまどかも『家が汚い方がいい』って声をそろえたの(笑)。3人で大笑いしたわ」
 一方で、淳子は倹約に努めた。家から最寄りのバス停のひとつ手前で降りると、バス代が10円安い。ひとつ前で降り、家まで10分ほど歩いて帰り、10円を倹約した。そのバス停の前には果物屋があり、店の前にはいつもおいしそうな果物が並んでいた。ある日、おみやげに果物を買って帰ろうと思い立つ。
「いろいろなことを我慢させているから、せめて食べものくらい楽しませてあげたいといつも思っていたの」
 偉とまどかは食べ物の好みが違う。梨ひとつとっても、偉は二十世紀、まどかは洋梨を好む。一度にたくさんは買えないので、「今日は二十世紀にして、明日は洋梨を買おう」とそれぞれの顔を思い浮かべながら、果物を選ぶ。仕事の道具や書類と果物を手に家路に向かうとき、荷物は重く、身体が疲れきってはいても、心がぽっと暖かくなるような幸せを感じた。
 こうした生活の中で、3人の絆はより深まっていく。
 偉やまどかが漫画を買ってくると、3人で回し読みした。
「あの頃、流行っていたのは『ブラックジャック』とか、『じゃりん子チエ』。偉かまどかが自分のおこづかいで買ってくると、誰が先に読むかでけんかになるの。3人とも漫画が好きだったのね。それでルールを決めたの。1番最初に読むのは買ってきた人、2番目は読むのが早い人。たいてい私は3番目だったわ」
 本好きな淳子の影響で、偉もまどかも本を好んだ。夕飯どきには「あの本はここが面白かった」と感想を言い合うこともあった。
 そこには親子というより、親友同士のような連帯感が流れた。だが、子どもに媚びることはなかった。暴力的で敬遠したくなるような漫画が家に持ち込まれたときは「お母さん、こういうのは嫌い」と言い、子どもたちが乱暴な言葉使いをすると「そういう言い方は好きじゃない」とはっきり意見した。

3人での暮らしが始まった
中学1年の偉

 周りからみると、不思議な家族関係だった。中学生といえば、思春期を迎え、親と一線をひいたり、気むづかしくなったりするのがふつうだ。ところが、淳子の記憶では反抗された記憶も、ひどく叱った覚えもないという。
「忙しくて気づかなかったのかもしれないけれど、第二反抗期がなかったような気がするの。ともかく、3人で協力してやっていこうねという感じで、楽しかった記憶しかないの」
 それどころか、偉は3人で買い物に行くことを厭わなかった。それぞれの誕生日には3人でプレゼントを買いに出かけることもあったし、映画も3人で見に行くことがあった。それは偉が大学生になっても、社会人になっても変わることはなかった。
 まどかは当時をこう振り返る。
「あの頃、私たち3人は力を合わせて困難を乗り越えようとする同志のような関係でした。納得がいかないことは、対等な立場で議論することはあっても、母からくどくど言われることはありませんでした。私はそれまで家事をしたことはほとんどなく、初めてワカメのみそ汁を作ったときはワカメを入れすぎて、まるでワカメの煮物のようになってしまったこともありましたし、洗濯機に洗剤を入れすぎ、泡があふれてきたこともありました。でも、今思うと、3人で過ごした日々は幸せだったなあと思います。お金はなくても精神的な暖かさに満ちていました」

中学時代、毎週映画館へ

 中学1年生の終わり頃、偉は体調を壊した。小学6年生ですでに身長が170cm前後になっていた偉だが、身長が年間10cm以上伸びると、医学的には要注意といわれる。身長の伸びに内臓の成長がついていかないために、身体のバランスが崩れ、内臓関係の病気を引き起こすことがあるためだ。
 ある日、偉はめまいや息苦しさを訴えた。医者に診てもらうと、貧血と診断された。その上、「しばらく、スポーツは無理」とドクターストップがかかる。卓球に燃えていた偉はかなり意気消沈した。見るに見かねた淳子は映画に誘ってみようと思いつく。ちょうど「アラビアのロレンス」がリバイバル上映されていた。淳子の一番好きな映画だ。
「20歳の頃に見て、とても感動したの。乾燥しきった砂漠で、強烈な太陽光線をのもと、妥協しないで生きていくロレンスに強く惹かれたのね。私の中のじめじめしたものが蒸発していくような気がして。私も、こういう生き方をしたい、なんで男に生まれなかったんだろう、と思ったのよ。だから、卓球ができなくてしょんぼりしていた偉に、この映画を見せて、こんなに素晴らしい世界があるのよって教えたかったの」
 上映時間の長い「アラビアのロレンス」を見終わって、偉は言った。
「もう一回、見たい」
 それがきっかけになり、偉は映画にのめりこんでいった。学校の試験期間中を除いて、毎週のように映画館に通った。正月のお年玉も、月々のわずかなおこづかいも、すべて映画代に回した。
 偉が通っていた旭川市立神居中学校の生徒会誌『かむい』を見ると、1年生のときの趣味は「卓球、日本史、読書」だが、2年生のそれは「映画鑑賞」となっている。後に偉の友人たちは、偉のことを「彼ほど映画に詳しい人間に出会ったことがなく、幅広い教養をもっている」と評するが、その萌芽はこの頃に生まれたと推測される。

 一方、偉の体調は改善せず、めまいと息苦しさはますますひどくなっていく。貧血ではなく、難しい病気なのかもしれないと思った淳子は中学3年の秋、偉を病院に連れていった。
 ひととおり検査した結果、特に異常はなかったので、医者は青白い顔をした偉に「君はどこを受験するつもりなの?」と尋ねた。偉は旭川で一番の進学校の名をあげた。それを聞いた医者は「受験ノイローゼに違いない」と受け止めた。偉がその進学校を希望した理由は「制服がなく、自由そうだから」ということにすぎないのだが。
 検査という名目でその病院に入院した偉は、担当医師のすすめもあって、入院しながら、旭川医大の心療内科を受診することにした。そこでもやはり、「ノイローゼ」と診断される。そして、出された薬を飲んだとたん、異変が起きた。
「性格ががらりと変わってしまったの。怒ったことのない偉がちょっとしたことで怒鳴ったり、なんでも人のせいにして被害妄想のようになったり・・・。それを見て、『おまえ、薬をやめなさい。ちょっと、おかしいよ』と止めたの。お医者さんには、年末だからと理由をつけて退院させ、しばらく家で休養してお正月が過ぎてから、他の病院に連れていったのね。そうしたら、『これはバランスを崩しているのが原因』と診断されました」
 高校受験は目の前に控えていた。担任の教師は、偉を訪ね、「先輩がいないところで、気楽にやってはどうか」とその春から新設される北海道立旭川凌雲高校の受験を勧めた。成績をみれば、偉が希望していた進学校への合格の可能性もゼロではなかったが、担任の言葉を聞き、淳子も賛成した。
「もし、進学校に入れたとしても、身体が本調子でないのに無理して落ちこぼれ、挫折するよりものびのびやった方がいいと思ったの」
 蓋を開けると、入学試験の成績は学年トップ。開校式を兼ねた入学式で代表挨拶をすることになった。まだ入院中だった偉は、ヒゲも天然パーマのかかった髪も伸ばし放題の格好で打ち合わせに行き、教師たちをあわてさせる一幕もあった。この頃、すでにロックに興味を持っていた偉はそんな格好に憧れていたのかもしれない。

エレキギターを卒業、「母さん、大学に行きたい」

高校の入学式で
新入生代表の挨拶をする

 高校に入学し、体調も少しずつ戻った偉がのめり込んだのはエレキギターだった。偉はある日、こう言った。
「母さん、エレキギターが欲しいんだ」
「自分のおこづかいの中でまかなえるならいいよ」
 と淳子は答えた。欲しいものはこづかいを貯めて買うのが3人で決めたルールであり、例外はなかった。
「お年玉やおこづかいを貯めたんだけれど、足りないんだ。母さん、お金貸してもらえないだろうか」
「じゃあ、足りない分をお母さんが貸してあげる。返済はローンでいいから」
 偉は、母から「借金」をして、エレキギターとアンプを買い、毎月のこづかいから「返済」した。今もその「ローン返済記録」が残っている。
 淳子がお金というものに厳しい一線を引いたのは、貧しかったという理由だけではない。倹約に努めてはいても、映画や本など心を耕すものには出費を惜しまなかった。だが、子どもたちと決めたルールを守ることを通して、お金というものは苦労して手に入れるものだということを教えたかった。収入の多くを酒代に回していた義父や別れた夫を見ていただけに、お金を意味あるものに使ってほしいという願いもあった。
 まどかは当時をこう振り返る。
「学年が上がるにつれ、家事をやる時間はお兄ちゃんより、私の方が多くなっていきました。どちらかに偏るのはまずいと思ったのか、母は家事をがんばれば、その分、おこづかいを上乗せするというルールを作りました。夕飯の用意をしたら3点、洗濯をしたら2点というように、家事を点数制にしたのです。1点はたしか50円くらいだったと思います」

エレキギターに夢中の高校時代

 ともあれ、偉の高校生活は友だちとロックバンドを組み、エレキギター演奏一筋の毎日となる。2年生になった偉は淳子にこう切り出した。
「ギターでめしを食いたい」
「かまわないよ、お前の人生だから」
 と言いつつ、作家である父と母やその友人たちなど「自称芸術家」のいい加減さを嫌というほど見てきた淳子は複雑な思いもあって、こう言った。
「音楽をやるのはいいが、そういう分野は努力と実力があってもそれだけでは何ともならない。母さんは、芸術がどうのこうのといって、迷惑をかける人をたくさんみてきた。めしを食えるようになるまで、結婚だけはするな」
 そんな偉が2年の秋も終わり近くになって、
「母さん、大学に行ってもいいだろうか」
 と言い出した。
「今からで間に合うの?」
 と驚いた。淳子は偉が家で教科書を開いているところを見たことがない。テストの点は上がったり、下がったりで、順位も100番くらい前後する。本人自ら「俺、恐怖のエレベーターって言われてるさ」と友だちと笑いながら、半ば自慢でもしているように言っていた。
「とりあえず、やってみる。でも母さんにひとつ、お願いがあるんだ。俺はどうしても北大に行きたい。ストレートでは無理かもしれない。もし、だめだったら、1年だけ自宅浪人させてほしい。それと通信教育のZ会だけ受けさせてほしい。頼んでもいいだろうか」
 淳子は答えた。
「わかった。自分の人生は自分で決めなさい。うちの経済状態からいって、国公立なら行かしてやれるから、やりたいようにやってごらん」
 偉はほんとうに、その日の夜から受験勉強を始めた。淳子が床に入る午後11時を過ぎても、偉は机に向かって勉強していた。
 高校3年の成績表は、前期後期とも体育と物理を除いてオール10。順位も学年で5番以内に入った。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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