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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第2回 永遠の別れ

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

 旭川空港を飛び立った飛行機は午後7時頃、羽田に到着した。石井淳子は到着ロビーを出ると、タクシーに乗り込み、息子の偉(いさむ)が入院している大森駅近くのM総合病院にかけつけた。
 偉は、集中治療室におかれたベッドの上で眠っていた。
〈偉、母さんよ、起きなさい〉
 そう声をかけたら、目をあけて起き上がってきそうな、いつもの息子の寝顔に見えた。だが、淳子は偉に話しかけたい想いをぐっと我慢した。病室に入る前、担当の脳外科医から「今、薬で落ち着かせているので、声をかけないようにしてください」と釘をさされていたからだ。
 いったん病室から出ると、医師から病状について長く詳しい説明があった。「おそらく右の脳底部の大動脈瘤が破裂したものと思われます。今、頭の中はたぶん、血の海のような状態です」
 医師は黒板に図を描きながら、説明を続けた。
 くも膜下出血では1回目の破裂で40%前後が死亡するということ、偉はそれは免れたものの、意識がない状態が続いていることから、最悪の部類に入ることなどが告げられる。「明日、月曜日の朝、スタッフが集った段階で血管造影の検査を行い、破裂の場所と範囲を調べてから手術を決めます。ただ、手術が成功しても、予後は非常に難しいでしょう」
 という医師の言葉が胸につきささる。だが、取り乱すことはなく、冷静だった。〈偉はきっと持ち直す。死ぬわけがない。手術が終わったら、長い入院生活とリハビリが始まる。ここが始まりなのだから、私がしっかりしなくては・・・〉 と自らに言い聞かせていた。

 医師の話が終わると、時刻はまもなく午後9時になろうとしていた。淳子は一晩中、偉のそばについているつもりだった。しかし、病院の決まりで、完全看護のため午後9時には病院を退出しなくてはならないという。旭川から取るものも取りあえずかけつけたのだから、泊まる先のことなど考えてもいない。
 家を出る前、 寝室の壁にかけてあった綿の青いワンピースを着て、玄関にあったサンダルをはき、化粧もせず、髪をととのえることもなく、ボストンバックひとつで飛び出したのだ。中肉中背で天然パーマがかかった黒い髪には、ほんの少し白髪が混じる。近視用の眼鏡をかけた目の奥にはとまどいの色が浮かんでいた。それを察したのか、旭川から電話をかけた時に応対してくれた事務スタッフのTが、
「今晩、どうされますか? ホテルをご紹介しましょうか」
 と声をかけた。淳子は、偉が住んでいる部屋のことが頭に浮んだ。
〈くも膜下出血というからには、きっと激しく吐いたに違いない。嘔吐で汚れているはずの部屋を片づけてやろう。それに、あの子がどんな部屋に住んでいるのかも見たい〉
 Tの申し出をていねいに断り、息子の部屋に行く旨を伝える。Tは、妻がかつてリクルートで働いていたこともあり、親身になって相談にのってくれた。地図を広げ、大田区と品川区の境にある独身寮近くに印をつけ、
「明日、病院にくるときの参考に」
 と渡してくれた上、自分の車でそこまで連れて行ってくれると言う。淳子は好意に甘え、Tが運転する車に乗った。〈明日の朝は、この逆コースをたどって病院に来ればいいのだ。この道のこの角にはこんなお店があり、その先を曲がり、信号をいくつ越えて・・・〉
 淳子は助手席の窓から、見知らぬ都会の夜の街をみつめ、胸の中で呪文のように唱えていた。

息子の部屋

 偉が住んでいるマンションは、会社が社員用に借り上げている11階建ての建物だった。各フロアごと10室ほどあり、1階に飲食店などが入っているほかは、ほぼリクルートの社員が入居していた。偉の部屋は2階にある。初めて見た息子の部屋は思っていた以上に狭かった。
 玄関を開けると、すぐ左手に電熱コンロが1つだけついた小さな流しがあり、その向かいにトイレが一緒になった狭いユニットバスがある。6畳ほどのワンルームに家具らしい家具はない。黒い座卓、2ドア冷蔵庫、テレビ、パイプハンガーと本棚が3つ。押入れはなく、ふとんは部屋の片隅にたたんであった。
 黒い座卓の上には、朝食に使ったらしい食器が重ねられていた。テレビはつけっぱなしだった。テーブルから少し離れた場所に 、まるっきり未消化のごはん粒が、そのままの形で茶色の液体と共に広範囲に散らばっている。淳子は部屋にあったタオルで床の汚れを拭きながら、偉が倒れたときの様子を心に描いた。
〈食器がきちんと重ねられているところをみると、おそらく、朝食をとった後で食器を台所に下げる間もなく急に気分が悪くなり、激しく吐いたのだろう〉
 掃除をしながら、ふっと電話を見ると、留守録が赤く点滅している。「留守」のボタンを押してみた。メッセージは吹き込まれていないが、偉が倒れた後で数人が電話をしていた。
 すると間もなく、電話が鳴った。受話器を取ると女性の声だった。
「今夜6時に、石井さんとコンサートに行く約束をしていた者です。お見えにならなかったので、どうかなさったのかと思いまして」
 偉と同じ会社で働いているというその女性に、自分は偉の母親であること、偉は膜下出血で倒れ、入院していることを手短に伝える。彼女が偉の上司に連絡をとってくれるというので、手配を頼んだ。その後、上司からの電話を受けたり、身内に報告の電話をしたりしているうちに、時刻は午前0時を回り、夜が更けていく。
〈今は少しでも休息をとって、明日からに備えなくては・・・。検査の結果が出たら、すぐに手術となるだろうし、長期間の闘病生活が続くのだから、眠れるときに眠っておこう〉
 と思うのだが、眠気は感じない。ふっと、いつか偉が、
「母さん、眠れなくても、横になっているだけで疲れがとれるんだよ」
 といっていた言葉を思い出した。身体を伸ばして、目をつぶったまま時を過ごした。

急変

 8月26日月曜日午前4時、突然、「ドーン」と大きな音とともに、部屋全体が揺れた。はっとしたが、深く気には止めず、逆にすうっと眠りに引き込まれた。が、まもなく、電話の呼び出し音が鳴る。受話器を取ると偉が入院する病院からだった。
「再破裂しました。すぐ、来てください」
 時刻は午前4時15分。
 急変の一報とともに外に飛び出すと、あたりは白々と明け始めていた。病院まで徒歩約20分の道のりを淳子は走った。膝を痛めていることも忘れ、走りづめに走った。不思議なことに道には迷わなかった。
 病室にかけこむと、偉は人工呼吸器を取り付けられていた。近づいて顔をみた瞬間、「うっ」と漏れそうになった声を息とともに飲み込んだ。ほんの数時間前とは、まるで別人のような偉の顔。同じようにつぶっているはずの目が違った。
〈さっきは眠っている偉の顔だったのに、今は死んでいるような顔をしている。ああ、さっき、ドーンという音がしたあの瞬間に、偉は逝ってしまったのかもしれない〉
 淳子は無言で立ちすくんだ。
 外来診療に訪れる患者で待ち合い室が込み始めた頃、病室を訪れた医師が言った。
「限りなく脳死に近いです」
 それからしばらくして、年輩の医師が廊下で立ち話風に淳子につぶやいた。
「はっきり言って脳死です」
 当時は脳死の判定基準をどうするかが社会問題になっていた。いったん脳死になると、いくら人工呼吸器で肺や心臓を動かそうとしても、蘇生することはなく、やがて心臓死がやってくるというのは、今の医学では覆しようのない科学的な事実であることは知っていた。だが、倒れたという一報を受けてから24時間もたっていない中で、息子が「死の前段階」にいると受け入れる心の余裕はない。偉の手を握ると、低かった血圧があがるのだから。
〈偉は絶対に死なない。どこまで回復するかはわかならい。でも、死ぬわけがない〉
 ただひたすら、奇跡という言葉にすがった。

 その日の朝、偉の1歳下の妹、まどかは北海道・女満別空港にいた。2ヵ月ほど前に結婚したばかりのまどかは、網走からほど近い小さな町に夫と二人で住んでいた。前日の飛行機が満席で取れず、母の淳子より1日遅れで東京に向かうことになった。ボストンバックには、何日分もの着替えをつめこんだ。この時点では、偉の容態が急変したことはまだ、知らない。
「母からの一報で“脳”と聞いたので、リハビリが長くなるだろうと思いました。一緒に歩行練習にもつきあおうと思って、ジャージと上ばきも持ちました。反面、もし、このままダメだったら・・・、と怖かったです」
 昼頃、M 総合病院につく。
「タクシーから降りて『あれっ?』と意外でした。北海道では総合病院というと、大きな病院というイメージなのですが、町医者に毛のはえたような小さな規模だったから」
 淳子から、再破裂したこと、脳死状態にあることを聞かされ、言葉を失った。
「エレベーターの前におかれた長椅子にうつむいて座っていると、廊下を行き来する人の足だけが目に入ってきました。入院しているのは、年をとった男性が多かったんです。その人たちの足を見ながら、『こんなにひからびた足の人が元気で歩いているのに、どうしてお兄ちゃんは・・・。そんなの順番が逆じゃないか』と不謹慎なことを考えていました」

北海道に帰ろう

 それから2日間、偉はベッドの上で眠り続けた。その間、会社の関係者や友人たちが次々と見舞いに訪れたが、後になってみると、淳子は誰とどのような会話をしたのかほとんど覚えていない。冷涼な旭川と比べ、8月下旬の東京は暑さが厳しかったはずだが、暑いと感じた記憶もない。
〈今、私が泣いてどうする、取り乱してどうなる、偉が助かることを信じなくて何がある〉
 という思いだけで、自らの冷静さを保っていた。
 28日水曜日、夜になっても偉の容態に変化はなかった。
「長丁場になるだろうから、交代で休みをとろう」
 淳子はまどかや、奈良からかけつけてくれた自分の妹を近くにとったホテルに帰した。どうせ、横になってもろくに眠ることはできない、それならば偉の横についている方が落ち着く気がした。病院側は午後9時の退出時刻以降も病院内にいることを許可した。
 午前0時を回った頃、エアコンが効いていたせいもあるのだろうが、病室内の空気が急に冷えだした。旭川の真冬の冷え込みのような、足が氷水に浸かっているような、そんな冷気を膝から下に覚えた。と同時に、強烈な眠気に外側から包み込まれた。
〈ほんのちょっとだけ、廊下のソファーで休んでこよう〉
 腰を下ろしたとたんに、淳子は深い眠りに引き込まれた。

「起きてください」
 眠りを破ったのは、看護婦のただならぬ響きだった。身体を跳ね起こし、病室へ飛び込んだ。目に飛び込んだのは、医者が偉の身体の上に馬乗りになるようにして、心臓マッサージを施す光景。医師の顔からは、汗が滴り落ちていた。偉は、医者が心臓を押すたびに、身体をくの字に曲げて跳ね上がる。
 淳子には偉が「苦しい、苦しいよ」と叫んでいるように映った。
「先生、もう結構です。十分にしていただきました」
  知らないうちに、そんな言葉が出ていた。
 29日午前2時、医師は臨終を告げた。
 それからのことはよく覚えていない。おそらく、ホテルにいるまどかに電話をかけ、親戚や会社関係者にも電話をしたはずだが、いつ、どこでかけたのか記憶にない。
 臨終を告げられても、偉に取りすがって泣くことも、取り乱すこともなかった。看護婦は偉の身体を手際よく清拭し、霊安室に運んだ。すべては流れ作業のように進む一方で、淳子はわが子の死を認めることができないまま取り残されていた。おそらく、突然の事態に直面し、「私がしっかりしなくてはいけない」と気丈にふるまう中で、悲しいという感情さえ、置き去りにしたまま時が流れて行ったのだろう。
 淳子は後にその時の思いをこう記している。
「できれば、冷えてゆくあの子の身体を抱きしめて、黙って一晩過ごしたかった。徐々に冷たくなっていったであろう偉を、赤ちゃんの時のように胸に抱きしめて、小さな声で子守歌を歌ってやっても良かった。お前さえ、嫌じゃなければ。偉、お前は覚えているはずもないけれど、あれは生後何ヵ月だったろうか、うんと小さかったとき私が抱っこして子守歌を、五木の子守歌だったかを聞かせたら、お前は下からじーっと私の顔を見上げていて、しばらくしてウェーンと泣き出してしまったのだよ。側にいたおばあちゃんが、子守歌は短調でメロディが悲しいからと取り直してくれたけど、母さんはすっかっり自信を無くして、それからは1回も歌わずじまい。お前のカラオケ嫌いは、こんなところに案外原因があるかも。でも、そうやって一晩、お前の身体を抱きしめて過ごせたなら、あるいは少しはお前の死を受け入れることができたかもしれないのだが」(三回忌後に淳子が自費出版した、遺稿集『偉 あるドサンコの29年と2ケ月』より)。

 やがて、長い長い夜が明けた。看護婦がきて「いつ頃、ご遺体を運び出されますか」と尋ねた。ふつうなら、葬儀社を頼み、遺体を自宅に運んでもらうところだろうが、西も東もわからぬ東京で、どこにどう連絡をすればいいのか途方に暮れる。
「お兄ちゃんがかわいそうだ。東京は嫌い。お兄ちゃんを北海道に連れて帰ろう」
 とまどかが言う。
 それを聞いて淳子は偉に「涼しい旭川でゆっくりしようね、偉」と語りかけつつも、なすすべもなく座り続けていた。 と、その時、ふっと、偉の口の端から黄色い液体が漏れてきた。
〈偉、おまえ、何かいいたいんだね。母さんに訴えたいことがあるんだね〉
 その瞬間、涙があふれ出した。
「あの子の果たせなかった、伝えることのできなかった想いが滲み出してきているような気がして、その途端、涙と声が噴き出てきたの。そっと口元を拭いてやりながら、まるでそれが偉の一生(ひとよ)の吐息のように感じられてね。果たさざりし志、ついに伝えずして消えていった想い、そして熱い胸の鼓動。それらが混ざり合って、口元から吐息のようにこぼれてきたのだろうと思ったの」

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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