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SERIES 02 解体・新書
岩本 宣明
第2回 虫の目

 構造主義生物学者池田清彦の『虫の目で人の世を見る/構造主義生物学外伝』(平凡社新書)の「あとがき」の一文は、なかなかの名句である。
「まことに人生は、セックスをし続けるには長すぎるが、虫を集めるには短すぎる」
 以前、私は虫に狂っている人たちに密着取材し、週刊誌に連載したことがあるのだけれど、虫に狂っている人は、変な人ばかりだ。変じゃなければ、虫になど狂えない、といった方がいいのかもしれない。30年間、毎年1億円ずつ虫を買っていたというつわものは、結婚は子孫を残すためといい、子供がすべて成人した途端に離婚したといい、お金の話を聞いた途端、烈火のごとく怒り出し、私の目を白黒させた。虫を売ることを商売にしている心優しいN氏は、東南アジア諸国に7つの家族を持っていた。もちろん、変というのは、批判の意味ではない。それぞれの生き方を真似たいとは思わないけれど、その人々の在りかたは、世界や価値が多様であり、だからこそ、人間は面白いということを教えてくれたのであった。

 池田清彦も虫に狂っている人の一人だ。『虫の目で人の世を見る』は、その池田のエッセイのなかから、あまり理屈っぽくないものだけを集めた、抱腹絶倒請け合いなしの読み物である。虫取り談義に社会評論が織り込まれ、不思議な味を出している。
 虫捕りに夢中になっている人の目には、虫しか見えないのだという。私など、夏ともなると、街を歩いていても女性の胸しか目に入らないのだが、それと同じだ。蝶を追う人には蝶しか見えず、カミキリ屋の池田の目には、この世にはカミキリしか存在しない。それを「蝶目」と言ったり「カミキリ目」と言ったりするらしい。勢い、巨木に激突したり、崖から落ちて大怪我をしたり、ということが頻繁に起こる。そのあたりの記述には、お腹がよじれる。
 虫取りのプロは網で虫を追うだけではない。虫が卵を産んでいそうな木の枝を切ったり、枯れ木を拾ってきたりして、自宅で孵化を待つこともあるのだという。池田と虫取りに行き、虫の卵がいそうな枝を切るために高木にするすると登った友人が、鋸を取り出して自分の座っている枝の根元を切り出したくだりでは、不覚にも涙を流してしまった。
 池田の本職は、生物学者である。しかも、機能主義全盛の生物学の中にあって、構造主義生物学を提唱するかなりの頑固者である。構造主義生物学をこの紙幅で説明するのは困難だが、遺伝子の突然変異と自然淘汰で進化のメカニズムを説明するダーウィニズムに対し、(1)遺伝するのはDNAだけではなく、DNAを一要素とする部品間の構造という関係性である、(2)進化を進めるのは、部品のマイナー・チェンジではなく、無根拠に生ずる部品間の関係性の変化だ、(3)生物は共生により不連続に新しい構造を定立できる―などを主張する。(詳しく知りたい人は池田氏の著作を読んでください)
 抱腹絶倒の虫取り談義もさることながら、『虫の目で人の世を見る』の醍醐味は、構造主義生物学的視点から照射する社会評論だ。人間は、実はある形式に従って考えている。しかし、平等の思想によって階級がなくなり、人々の生活の形式が平準化した民主主義社会では、形式より中身を重視せざるを得なくなり、実は、思考が形式に支配されていることを忘れている。結果、例えば、大学改革を見ても、中身ばかり変えようとして、形式はそのままにしているから何も変わらない、と憤慨し、返す刀で、大学を改革するには中身を議論するのではなく、文部省を廃止し、すべて市場原理と大学の自由に任せよ(つまり、文部省が支配している大学のシステム自体を変えてしまえ)と、主張する。大相撲を見よ。大学生と年齢の変わらぬ二十歳そこそこの横綱があれほど立派に見えるのは、なぜか? それは見事に「型」を身につけているからなのだと。大切なのは中身ではなく、形なのである。

 一つの学問を究めた人の、その学問の世界観を基盤として展開される社会評論には、新鮮な発見がある。それは、例えば、発行部数が300万部を超えた、養老孟司の『バカの壁』(新潮新書)を初めとする著作にも通じる魅力だ。脳という器官の特質や欠点を基盤として繰り広げられる解剖学者の養老の社会批評は、読者に社会の構造を俯瞰する新しい視点を提供していて、それが養老節の魅力だ。遺伝分子生物学者、山元大輔の『遺伝子の神秘男の脳・女の脳』(講談社+α新書)にも、同じ魅力がある。山元は、人為的に突然変異を起させたショウジョウバエを観察して、同性愛や早漏、男嫌いなどのショウジョウバエを見つけて喜んでいる、変わった人である。(もちろん、立派な研究者です)
 これらは、新潮新書、平凡社新書、講談社+α新書など、いずれも後発の新書群の傑作である。教養書から出発し、入門書、社会現象の解説へと変遷してきた先発の新書にはなかった魅力で、後発組の編集者の意気込みが感じられる。
 ところで、池田も養老も、山元も、虫に心を奪われた「虫屋」である。多分それは偶然ではなく、虫に夢中になることと、学問を究め、それを基盤に社会を照射するということには、なにか深い関わりがあるのだと、想像される。池田と養老は、一緒に虫捕りに出かけるほどの朋友と聞くが、途中でどちらの本だったか混乱してしまうほど、文体が似ている箇所がある。それも、虫に関係があるのか、単に、どちらかが知らぬうちに影響を受けてしまったのか、それは知らない。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

虫の目で人の世を見る 平凡新書

『虫の目で人の世を見る』
池田清彦著
平凡社新書

遺伝子の神秘男の脳 女の脳 講談社+α新書

『遺伝子の神秘
男の脳 女の脳』

山本大輔著
講談社+α新書

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