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Series 世界
世界のなかの日本と世界 川井 龍介
10/09/30

第2回 フロリダと天橋立~ヤマトコロニー先導者と丹後ちりめん

咸臨丸がアメリカに渡ってから150年、日本が近代社会へ移行してからいままで、多くの日本人が世界でその足跡を刻んできた。日本の遺産を引き継ぎながら、もうひとつの国や文化を受け入れて生きる。国家という枠組みを超えて日本とつながりをもつ人たちの世界をアメリカを中心に追い、日本人とはなにか、アイデンティティとはなにかを考える。

 明治時代にアメリカの南東部にあるフロリダ州に農業移民としてわたった人たちの歴史と、その地が現在モリカミ・ミュージアムという立派な博物館と日本庭園に姿を変えていることを、本誌で過去2回にわたって紹介してきた。
 この移民たちの入植地はヤマトコロニーと名付けられ、コロニーに通じる道はこれにちなんでYamato Road(ヤマトロード)と名付けられた。フロリダという日本人にはなじみのない場所に、このユニークなコロニーができたきっかけをつくったのが、酒井襄(もともとは醸だった)と奥平昌国という二人だった。
 ニューヨークに留学中の二人が、フロリダで農業移民として日本人を求めていることを知り、それぞれの郷里である京都の宮津、大分などで入植を呼びかけたのである。この当時ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞこの二人はそれなりの家柄や経歴の持ち主だと想像されるが、事実、奥平昌国氏は、九州中津藩の藩主だった奥平家を継いだ奥平昌恭氏の弟であることがわかっている。
 しかし、酒井氏については、アメリカに残された資料などによると、宮津出身で同志社を出てニューヨークに留学したということぐらいしかわからなかった。彼がきっかけとなってフロリダのデルレイ・ビーチ市と宮津市が姉妹都市関係にあるのに、どういう出自かといったことが宮津市でも把握されていなかった。同市の郷土史やかつての宮津藩の記録などにもあたったが、酒井襄氏あるいは酒井家についてはなんらの記載も発見できなかった。また、宮津に隣接する旧峰山町(現・京丹後市)など丹後半島の各地からもアメリカにわたった人がいたので、京丹後市にも問い合わせたのだがわからなかった。

検索、おそるべし

地図1
地図2

 これが今年6月末の時点での結論で、酒井襄については「わからない」ということを本誌で書き、いずれ別のルートで調べてみようと思っていた。しかし、それから1ヵ月ほどして読者からメールが届いた。送り主は、なんと「酒井襄は私の親戚筋に当たります」という方で、酒井協というお名前だった。
 酒井協氏によれば、かつて士族であった酒井家のルーツに興味をもっていた協氏の家族が、インターネットで「宮津藩酒井家」という言葉で検索したところ、本誌の記事「フロリダと天橋立」に行きあたったという。これはまさに検索の力というしかない。ウェブ上の検索だからこそ、本誌のような小さな媒体でも、引っかかってくるわけである。これがもし、紙の媒体であったら関係者の目に触れる確率は極めて低いだろう。
 協氏からのメールにあったこのほかの内容を要約すると、酒井襄の名前は「かもす」と読むらしく、酒井襄氏の祖父と協氏の祖父が兄弟ということだった。また、協氏の長姉の酒井隆子さんは、以前二度にわたってモリカミ・ミュージアムを訪れたことがあり、その後、いまから25年ほど前には、宮津市役所を訪れたことがあったという。どうやら市役所内にその記録が残っていなかったため同市では酒井襄氏についてわからないままになっていたようだ。
 また、酒井家については、「宮津藩の酒井家は宮津藩最後の城主として松平(本庄)家が浜松より来た時に、一緒に浜松から宮津へ来ております。これは小さい頃から両親に聞いていたのと調べが一致します。酒井家と松平家は親戚関係にあり、酒井忠次は家康の父の松平家に仕えて来ており、この本家は出羽庄内藩主となっています。紋所は京都の酒井家と同じ丸にカタバミです」と、メールに書かれていた。
 商社勤めで長年中国に滞在していた経験をもつ酒井協氏はすでにほぼリタイアしていたが、週に何日か千葉県内の自宅から仕事で都心に出てきていたので、私はさっそく連絡をとり、直接会うことになった。そして、酒井襄氏をとりまく酒井家の家系図や宮津のお寺にあるお墓の写真などをみせてもらうと同時に、より詳しい歴史を知っているという隆子さんを紹介してもらった。

謎が解け、コロニーの背景も

 こうして酒井氏と知り合ったことをきっかけとして、これ以後何人かの人たちに取材できたことで、酒井襄氏に関する謎が一気に解けていっただけでなく、ヤマトコロニーが誕生していく歴史的な背景が明らかになっていった。というのは、電話で連絡をとった隆子さんから教えてもらった沖守弘氏という写真家にまず出会ったからだった。
 沖という名前がこのコロニーへのおもな入植者の一人であることはわかっていた。1961年に新日米新聞社から発行された「米国日系人百年史―在米日系人発展人士録」には、日本からの米国移民の歴史が各州別に具体的な名前をあげながら紹介されている。フロリダ州の紹介のなかで、ヤマトコロニーについての記載があるが、そこに宮津から入植した一人として沖という名前がでてくる。しかし、苗字だけで名前はない。
 この沖と縁戚関係にあるのが沖守弘氏だと教えられ、さっそく都内にある沖氏の自宅を訪ねた。昭和4年生まれの沖氏は、インドで救貧活動をつづけた修道女、マザーテレサを70年代から撮り続け、日本に紹介したことで知られる写真家で、マザーテレサの写真集も出版している。この秋にはイタリアで彼の撮ったマザーテレサの写真展が開かれるところだった。

モリカミ・ミュージアムの日本庭園内にある酒井醸と沖光三郎の墓碑
モリカミ・ミュージアムの日本庭園内にある酒井醸と沖光三郎の墓碑

 私がヤマトコロニーについて調べていることを話すと、沖氏はこれについて彼自身が集めた数多くの資料をもとに説明してくれた。そこでわかったのは、この入植計画には財政的な支援者がいて、それが沖氏の祖父にあたる沖光三郎氏だった。光三郎氏は、丹後ちりめんの産地として有名な峰山町の出身で、兄の利三郎氏とともにちりめん問屋を経営、大成功した資産家だった。
 そして、光三郎氏の妻は酒井家の出で、酒井襄氏の姉だった。つまり襄氏は光三郎氏の義理の弟にあたる。言われてみれば、フロリダのモリカミ・ミュージアムの日本庭園の一角には、沖光三郎、酒井醸と両名が併記された墓碑が建っていた。縁戚関係にあるだけでなくこの二人がコロニーの立役者だったのだ。
 守弘氏によれば、光三郎氏は勉学に優れていた襄氏を援助したほか、このプロジェクトのために当時のお金で300万円という莫大な資金を提供して、宮津や現在の京丹後市である丹後半島一帯から集まった入植者たちを援助したと見られる。事実、森上助次氏は渡航にあたって沖氏から当時資金援助を受けていた。つまり、このプロジェクトに参加するもののために費用を立て替えてあげていた。
 また、光三郎氏自身もフロリダにわたった。しかし、このとき48歳だった彼は入植してわずか3年後に現地で病死してしまう。守弘氏をはじめ沖家では、のちに祖父、光三郎氏の供養のためにも彼の事業の記録を残そうとコロニーに関する資料を集め、フロリダにも足を運んでいた。
 この資料のなかには、ヤマトコロニーへの入植のために、宮津、京丹後などから日本を出国したと思われる人たちのリストもある。外務省にある記録をもとに沖氏が作成したもので、沖光三郎、酒井醸、森上助次などの名前と住所、渡航目的、また、いつ出国したかといった記録も記載されている。明治35(1902)年から明治40(1907)年までの間にアメリカに渡航したコロニー関係者と思われる人たちだ。
 渡航目的をみると、その多くが森上氏のように農業従事となっているが、このほか商業のためや修学、学術研究などもある。また酒井襄氏は土地開墾、視察であり、沖光三郎氏は聖博会観賞及絹布業視察となっている。聖博会とは、明治37(1904)年にアメリカのセントルイス(聖路易)で開かれていた万国博覧会のことだ。ちなみに、この時日本も出展、絹織物も展示品の一つに並んでいる。
 こうした資料によって入植者の全体像が浮かび上がってきた。また、酒井醸氏については、同志社が大学になる前、同志社尋常中学の明治32年の生徒名簿のなかに、彼だと思われる酒井醇(襄あるいは醸ではない)という名前があることも突き止めていた。年代から言っても同一人物かと推測できる。
 さらに、沖氏は酒井襄氏とともにアメリカに留学し、コロニー建設のきっかけをつくった奥平昌国氏の子孫にも東京で会っていた。

沖家と酒井家

 沖氏のおかげでいくつかの謎が解けたというか、コロニーがどういう歴史的な経緯で誕生したかが浮かび上がってきたが、さらに沖氏の姉である長屋光子さんからは、沖家やコロニーについてのエピソードを聞いた。長屋さんは、祖父である光三郎氏のことを覚えていて、「体が大きくて、厳しい人だった」と振り返る。また、祖母とは田舎(峰山町)の大きな門構えの家で小さいころ一緒に暮らしていたこともあったという。
 この祖母というのが酒井襄氏の姉にあたるわけで、光三郎氏がアメリカで急逝してしまい、コロニーの事業も結局失敗に終わってしまったことで、祖母は、複雑な立場と心境にあったろうと述懐していた。
 また、子供のころに、ヤマトコロニーの写真を見たことがあり、いまでも記憶にあるという。
「バラックのような建物のベランダがあるようなところで、みんながハイカラな格好をして写っていました……線路で荷物を運ぶための駅舎のようなものもありましたね」。残念ながらこうした写真は、戦災ですべて焼けてしまった。
 コロニーから日本に引き揚げてきた親戚にも会ったことがあり、やはり「ハイカラな格好をしていた」という。
 沖氏と会ってからほぼ半月後、今度は京都で酒井隆子さんと会うことになったのだが、その直前に、彼女から酒井襄氏の孫にあたる水戸部浩氏が同じ京都にいることを教えられた。これまでわからなかった襄氏に関することがまた明らかになるかも知れなかった。そこで水戸部氏にもお願いし、親戚同士でもある二人に同席してもらい京都駅の近くのホテルで話を聞くことになった。

水戸部浩氏と酒井隆子さん
水戸部浩氏と酒井隆子さん

 歴史を遡る家系の話をしていると、どうしてもややこしくなってくるので、その関係を整理したいと思い二人に尋ねたところ、水戸部さんは酒井家の実に細かい家系図を持ち出して説明してくれた。それは、酒井襄氏の祖父の代からつづくものだった。家系図によると、襄氏は七人兄弟姉妹の三男で、フロリダにわたってからおよそ2年半後の明治40年4月に滋賀県出身の川嶋貞さんと結婚、一男、五女をもうけるが、長男は1歳3ヵ月でヤマトコロニーで亡くなっていた。
 残る五人の娘たちはコロニーで育つが、48歳で襄氏が亡くなって間もなくして、妻の貞さんは、娘たちを連れて日本に帰ってきた。フロリダから鉄路で太平洋岸に出て太平洋を船でわたってきたのだから当時としては相当に長くしんどい旅だったろう。
 この娘たちのうち長女睦子さんの三男が水戸部氏だった。水戸部氏は、祖父母がコロニーでどんな生活をしてきたかについてはほとんど聞かされてはいなかった。しかし、祖母の貞さんが90歳になったときでも、自宅の屋根の雨漏りを自分で直していたのを覚えている。コロニー暮らしで身に付けただろう逞しさを感じたという。
 また、"帰国子女"の母親、睦子さんはライフスタイルがアメリカナイズされていたところもあって、朝食にオートミールを食べていたりしたそうだ。そのため朝食のメニューをめぐっては夫と好みが分かれてもめたこともしばしばだったという。
 コロニー移住者のなかには、神谷為益という名前があるが、これは酒井襄氏の弟で、神谷家に養子に行ったためこう名前が変わった。この神谷家の家族はコロニーが消滅したのちもアメリカ各地に残っていまにいたる。ただ、為益氏本人は晩年日本に戻って暮らしていた。隆子さんは、同志社大学で学んだ後に1960年にアメリカに留学、ノースカロライナなどで数年を過ごした。この間、親戚筋にあたる神谷家の人たちとも交流があり、帰国した為益氏のこともよく知っていた。
 神谷家と酒井家に対比されるように、コロニーを去って日本に帰ってきた人たちと、アメリカに残った人たちは、その後世代を重ねるとまったくちがった人生を歩むことになったようだ。

再び丹後半島へ

沖家と縁のある縁城寺(京丹後市)
沖家と縁のある縁城寺(京丹後市)

 フロリダのモリカミ・ミュージアムと日本庭園は、入植してコロニーが消滅したのちも一人現地で働き続けた森上助次氏の地道な努力と成果のたまものだった。しかし、遡れば、そのきっかけをつくり先頭に立ったのは酒井襄氏らであり、その背後には移住希望者で資金難の者をバックアップしたと思われる沖光三郎氏の存在があった。
 その沖氏の財力は、当時の丹後半島で隆盛を極めた丹後ちりめん産業によってもたらされた。丹後織物協同組合によれば、丹後半島一帯にあたる丹後地方の絹織物の歴史は古く、1200年前の奈良時代の織物が確認されている。現在の丹後ちりめんは、約280年前、江戸時代の享保5(1720)年、絹屋佐平治らが京都西陣より持ち帰った技術をもとにした「ちりめん」が始まりで、その後丹後地方全体に広まり、峰山藩や宮津藩がちりめん織りを保護助長したことで丹後の地場産業として根付くことになったという。
 沖光三郎氏もこの歴史のなかで兄の利三郎氏とともにちりめん問屋、沖利三郎商店を営んだ。峰山町に本店を構えていたが、やがて京都市内にも店を開くようになった。いかに羽振りがよかったか。光三郎氏の孫、長屋光子さんの「(アメリカに行くとき)、銀行ができるくらいのお金をもっていったと聞きました」という言葉からもそれが想像できる。
 だが、この沖家の隆盛も長くはつづかなかった。守弘氏によれば次の代になって「昭和の大恐慌のときに相場に手を出してすべて失ってしまった」という。そして夜逃げ同然で京都を後にした。京都市はもちろん、丹後にも沖家の足跡はいまほとんどなく、わずかに出身地の旧峰山町橋木という地にある縁城寺という由緒ある寺に残っているだけだという。
 ヤマトコロニーの物語は、地場の伝統産業にかかわるユニークな集団移民であり、日本の近代史の一端を知る上でも興味深い。しかし、そのわりには、関係する記録はこれまで、宮津市や京丹後市に取材した限りでは、郷土史にまったくといっていいほど刻まれていない。また、記録として残されるためには、もう少し当時の様子やコロニーそのものについても明らかにされる必要がある。
 コロニーを生み出した丹後ちりめんの産業とは当時どのようなものだったのだろうか。沖光三郎氏をはじめコロニーにいた人たちの足跡は地元に残っていないのだろうか。さらに、実際のコロニーの生活がどんなものだったのか。
 この物語を埋めるためには、こうした事実をさらに探りたいところである。のりかかった船というのか、これらを少しでも明らかにするため、私はふたたび丹後地方を訪れてみた。そこで新たにわかったことについては、回を改めてまたご報告したい。

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