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Series 世界
世界のなかの日本と世界 川井 龍介
10/06/30

第1回(後編):フロリダと天橋立

咸臨丸がアメリカに渡ってから150年、日本が近代社会へ移行してからいままで、多くの日本人が世界でその足跡を刻んできた。日本の遺産を引き継ぎながら、もうひとつの国や文化を受け入れて生きる。国家という枠組みを超えて日本とつながりをもつ人たちの世界をアメリカを中心に追い、日本人とはなにか、アイデンティティとはなにかを考える。

 アメリカ南東部のフロリダ州に、日本文化を紹介するモリカミ・ミュージアムと日本庭園があることと、そこで春に行われた大きなフェスティバルの模様を前回(4月30日)紹介した。
 日本とはあまり縁のないような場所にある「モリカミ」の名称は、森上助次という人物から由来する。いまから100年以上前にフロリダに農業移民として入植した日本人の一人である森上氏は、生前に所有する土地を地元のパームビーチ郡に寄贈し、それがもとでこのミュージアムと庭園ができあがった。また、これが縁で同郡内にあるデルレイ・ビーチという町と、彼の故郷である京都府宮津市は、姉妹都市関係を結び交流を続けている。今年も6月半ば、デルレイの高校生が数日ではあるが、宮津でホームステイをしながら地元、府立宮津高校で学んだ。
 日本三景として有名な天橋立がある、日本海沿いの宮津と大西洋岸に位置する亜熱帯のデルレイ・ビーチ。この二つを結びつけた森上氏は、なぜ20世紀のはじめに、はるばるフロリダへわたったのだろうか。そして二度と日本の土を踏むこともなかった一方で、フロリダにその名前を残すことになったのか。その背景には、彼だけではない、宮津から集団で移住し、フロリダで成功を夢見た人たちの物語があった。

「ヤマトコロニー」をつくった二人の日本人

 移住の足跡については、「モリカミ」の資料やアメリカへの日本人の移住について地方別にまとめた『米国日系人百年史 : 在米日系人発展人士録』(新日米新聞社、1961年刊)、さらにアメリカで出版された『Konnichiwa Florida Moon』という森上氏の物語などをもとにまとめてみたい。
 発端は、当時のフロリダでの鉄道建設だった。石油王のロックフェラーとスタンダード石油の経営にかかわった大富豪に、鉄道王といわれたヘンリー・フラグラーという人物がいる。彼は、Florida East Coast Railwayという会社をつくり、19世紀末から20世紀初めにかけて、フロリダの大西洋岸のジャクソンビルから最南端のキーウェストまで鉄道を敷いた。と同時に、大西洋岸のフロリダの開発を進めて、今日のリゾートの基礎をつくったと言われる。
 開発にともない同社は、マイアミの北40マイルのところに所有する1260エーカーの土地の一部にパイナップルを植え付けた。しかし安いキューバ産には対抗できなかったため、太平洋側ですでに野菜作りをして実績をあげていた日本人を入植させて野菜をつくらせようと考え、その土地を日本人に提供すると公表した。
 このことを知って、フロリダに入植しようと決意した日本人が当時アメリカにいた。ニューヨークに留学中だった奥平昌国と酒井襄の二人である。奥平は九州豊前の国、中津藩藩主奥平昌恭の弟だというが、酒井については宮津の出身で、同志社で学んだ後にニューヨークの大学に留学したとされている。

ヤマトコロニー入植者
ヤマトコロニー入植者

 これが1904(明治37)年のことで、二人は現地で土地を購入して、「ヤマトコロニー」と名付けた。さらに酒井は事業を拡張しようと、郷里の宮津に帰って、入植者を募り十数人を引き連れてフロリダへ戻った。1906年、07年と同じく宮津や近隣の峰山方面(現在の京丹後市)から入植者が続いた。このなかの一人が森上氏だった。 
 一方、奥平も日本から青年を連れてきたり、また、カリフォルニア方面からも日本人が入植し、1910年前後の全盛期にはコロニーの人数は100人を超えていたという。女性たちが加わり、現地で子供が生まれて学校もできていった。

「モリカミ」の日本庭園のなかにできた、桂離宮を模した最初の展示棟には、当時のコロニーの様子を示す写真や酒井、奥平、森上ら三氏の写真なども展示されている。集団で暮らしたであろう建物や子供を含めての記念らしき集合写真もある。ワイシャツにネクタイを締め、女性はワンピース姿という身なりをしている。自動車を運転しているところをとらえた写真もある。
 他のアメリカへの日本人移民もそうだが、記念写真はかならず撮るようで、それもみな洋風に正装をして日本では見られないようなモダンな姿で納まっている。一種の成功の印でもあるのだろう。

YAMATO駅の様子
YAMATO駅の様子

 しかし、この立派な写真の陰にある実際の生活となると厳しかった。南部フロリダは湿地帯は多く、雨も多く肥料が流されたり、さらに蚊など虫は多く、蛇、毒グモ、ワニなども生息している。これらに注意しながらジャングルともいえる地を開墾していかなくてはならない。
 コロニーでは、最初はパイナップルをつくっていたが、のちにトマトやコショウ、ナスなど野菜作りをはじめたという。収穫した野菜や果物は、近くに市場がないので鉄路で遠くニューヨークやシカゴなどへ販売をした。鉄道の最寄りの駅は、このコロニーの名前をとって、「YAMATO」と呼ばれていて、当時の様子をあらわす写真も残っている。

自分の名前をフロリダに残すために

 結局、耕作条件は悪くそのため農業としては目立った成果も上げられず、入植者は徐々に減っていった。真偽のほどは定かではないが、土地を所有した日本人のなかには1925年にマイアミビーチが開けて、フロリダの土地ブームがおきるなかで土地を高値で手放し、帰国したり他州へ移ったものもいたという。
 そして、太平洋戦争が始まる頃には、コロニーに残っていたのはわずか数家族だけになった。また戦争によって42年には、コロニーの土地はアメリカ政府によって没収される。こうしてコロニーは戦前に事実上消滅していった。
 しかし、森上氏だけは農業を続け踏みとどまった。これより前に英語の話せなかった彼は、地元の子供たちにまじって英語を学び、自分で収穫した作物を売買もした。戦争中森上氏は、地元の農園主の管理下に置かれ無報酬で耕作を続けたが、戦後になって耕作した土地を無償でもらい受けることができたという。
 戦後も農業を続ける一方で少しずつ土地を買い増ししていった。そして最終的には150エーカー以上の土地を所有することになった。それでも土地を売ることはせず、パイナップルや野菜に囲まれた自然のなかに彼は身を置いたが、現地での家族はなく、トレーラーハウスを生活の場としての暮らしぶりは質素だった。

 日本人の移民一世の多くが、成功の暁には故郷に錦を飾ることを夢見ていたように、森上氏も当初は一旗揚げて故郷に凱旋するつもりだった。しかし、晩年はアメリカの市民権を得てアメリカに骨を埋める覚悟だった。ジョージ・スケジ・モリカミと現地では名乗った彼が、最後に望んだのはなんとか自分の名前をフロリダで残すことだった。
 一方、彼の所有する土地の価値は時とともに高くなる。それはいいのだが、同時に多額の税金もかかる。そこで彼は、自らの土地をすべて地元に寄付することで名前を残すことにした。その橋渡しをしたのは、現在「モリカミ」の副理事長をするジェームズ三堀氏だった。日本からマイアミ大学に留学した後、フロリダで就職をしようとしていた彼は、たまたまデルレイ・ビーチに出かけたときに、「あんた、日本人かい?」と、日本語で声をかけられたのだった。その声の主が森上氏だった。それが縁でいろいろと相談され、法律に詳しい三堀氏の助力によって、地元パームビーチ郡に土地は寄贈され、日本庭園を含むミュージアムができることになった。一口に寄贈して公園化するといっても、その間の手続きや法的な問題をクリアーするのは並大抵のことではない。
「森上さんの持っている土地が、いったいどれなのかを、あの原野のようななかで土地台帳と照らし合わせながら確認するのだって大変だった」と、三堀氏は当時を振り返る。これはほんの一例である。
 1976年2月29日、森上氏は89歳でこの世を去った。そしてその1年後、「モリカミ」は一般に公開され、徐々に拡張と整備を重ねて2001年に現在の形になった。05年にはコロニー誕生の100年祭が現地で行われ、かつて入植した日本人たちの末裔が、フロリダやアメリカ各地、そして日本から集まった。その人たちの皮膚の色はさまざまだったところに、世代を超えた時間の流れが映し出されていたようだ。

日本へ残してきた思い

 森上氏は、生涯を通じて独身だったことに加えて、渡米してから一度も日本に帰ることはなかった。フロリダに渡るとき、まず神戸から横浜まで船に乗った。そのとき船上から見た富士山が生まれて最初で最後に見た富士山だったという。横浜からは海路でアメリカ西海岸のシアトルに渡り、そこから延々鉄道をつかってフロリダにたどり着く。
 彼は、土地はもっていたが現金はほとんどもっていなかったと三堀氏は言う。あるとき「日本に一度帰ったらどうだ」と、お金を援助してくれる人がいたが、彼はそれを断った。父親が亡くなったときも帰らず、故郷の宮津にいる親戚は憤慨したことがあった。しかし、彼が故郷や実家のことを思わなかったかと言えば、決してそんなことはなく、長男として家のことを案ずる手紙を、実際家を継いだ妹にあてて何通も書いている。

森上氏が日本へ送った手紙
森上氏が日本へ送った手紙

 また、森上氏がそもそもアメリカに渡るきっかけとなった一つに、結婚を申し込んだ相手の家に断られたという“失恋”の事実がある。その女性のことを渡米後もずっと思っていたことが、これらの手紙からうかがい知ることができるという。このことは、現在宮津市に住む井田和明氏を訪ねて聞いた話である。井田氏は森上氏の妹の孫にあたり、その家は、場所は少し移動したが、かつて森上氏が生まれ育った家だった。
 建築後、百数十年がたつしっかりした構造で、建築時の図面も残っているほどだった。家業はもともと農業だったという。長男だった助次氏がどうしてこの家を出てフロリダへ渡ったのかというと疑問はあるが、ことによると“失恋”の痛手が大きかったのかもしれない。

100年後のフロリダと宮津をつないだ酒井襄とは?

酒井襄
酒井襄

 以上が、ヤマトコロニーと森上氏の歴史であるが、おさらいしてみればわかるように、最終的にこの「モリカミ」が誕生したその発端は、森上氏との直接の関係で言えば酒井襄氏である。記録によれば、彼は1874(明治7)年生まれで95年に同志社を出て、同志社の創始者である新島襄を見習ってアメリカへ渡ったという。名前の襄も、新島襄に倣ったらしい。50歳前にアメリカで亡くなっている。
「モリカミ」がまとめたヤマトコロニーの資料によれば、酒井家は宮津藩に使えた侍の家系だったという。ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞ立派な家柄か優秀な人物で、故郷の宮津では知られているのだろうと思い彼の足跡も調べてみた。
 しかし、これが不思議なことに、何者なのかがよくわからない。まず、宮津市役所に問い合わせてみたところ、同市総務室で広報を担当する横谷宏明氏がいろいろと調べてくれたのだが、どうも酒井という名前のそれらしき家はあっても、酒井襄とはつながらないというのだ。
 さらに、となりの京丹後市にも問い合わせてくれたのだが、手がかりはつかめなかった。ならば、一度現地を訪ねてみようと思い、たまたま姉妹都市のデルレイ・ビーチから高校生や、三堀氏など「モリカミ」の関係者がやってくるというので、6月半ばに出かけてみた。
 郷土史の関係者をはじめ森上氏の親戚の井田氏やかつて父親がヤマトコロニーに入植したという稲穂隆夫氏、そして100歳になるという地元の方などに会って話を聞いたが、結論から言えば、酒井襄につながる事実はなかった。それならば同志社大学になにか彼の足跡は確認できないものかと、同大の社史資料センターにも問い合わせたが、手がかりはなかった。
 酒井襄より少しあとの大正時代に入って、宮津出身者で同志社へ進み、その後アメリカに留学した別の人物の記録は郷土史に残っていたので、こうした進取の気性はこの宮津にはあっただろうとは推測できた。また、ヤマトコロニーに入植経験があるという、稲穂氏の父親については、宮津ではなく隣の旧熊野郡久美浜町(現・京丹後市)の出身であることから、ことによると酒井氏も宮津ではなく、周辺の地域の出身ではないかとも想像できた。

天橋立
府立宮津高校を訪れたデルレイの高校生

 宮津に滞在中、横谷氏の運転する車で案内されて1時間弱、稲穂氏の自宅を訪ねた。隆夫氏によれば、父親の芳蔵氏は独身時代に、辻井氏なる地元の名士に誘われて入植したが、およそ10年で見切りをつけて帰国したという。その際に、大きなのこぎりや自転車をアメリカから持ち帰ったそうだ。
 生前、父親から聞いたというおもしろい話を一つ聞かせてくれた。それは、コロニーにいたとき、強盗のようなものに襲撃されたときのことだった。
「映画でやる西部劇なんていうのは絵空事だ、実際は銃で撃ち込まれると、ただ家の中で怖くて隠れていて、音が止むと音のした方に、こっちからも撃ち返すだけだって言ってましたよ」。そう笑った。この話だけでもコロニーでの暮らしがどんなものか、資料では感じられないことが伝わってくる。

県立宮津高校を訪れたデルレイの高校生
天橋立

 100年以上前にフロリダに鉄道が敷かれ、開発がはじまったのがきっかけで、ニューヨークを経由して海外入植の話が京都の日本海の町に伝わる。そして大志を抱いた男たちが海を渡り、コロニーを作る。結局、当初の計画は挫折し、ほとんどの人々はアメリカの各地に散らばり、新しい生活と家族を作り、それがいまや3世、4世となっている。
 その一方で、一人この地に居続けた森上氏は一代で終わったが、彼だけが確かにフロリダで自分の名前「モリカミ」を残した。それがもとで、いまやアメリカのティーンエイジャーが毎年気軽に宮津を訪れ、ホームステイしながら日本の高校生と交流し、日本三景の一つ、天橋立などを見て回っている。
 酒井氏や森上氏がこんなことを想像できたはずはないといっては言い過ぎかもしれないが、ことの発端から100年後の成果を考えると、人の歴史の不思議さを思わざるを得ない。

  参考ウエブサイト

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