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Series 世界
世界のなかの日本と世界 川井 龍介
10/04/30

第1回 (前編):フロリダの日本庭園とコスプレ

咸臨丸がアメリカに渡ってから150年、日本が近代社会へ移行してからいままで、多くの日本人が世界でその足跡を刻んできた。日本の遺産を引き継ぎながら、もうひとつの国や文化を受け入れて生きる。国家という枠組みを超えて日本とつながりをもつ人たちの世界をアメリカを中心に追い、日本人とはなにか、アイデンティティとはなにかを考える。

 アメリカのフロリダ州と聞いてなにを想像するだろうか。暖かい気候に包まれたビーチリゾートか。それともときどき訪れるハリケーンか。いや、最近ならニュースにもよく登場したケネディー宇宙センターかもしれない。最南端にあるキーウェストと文豪ヘミングウェイを思い浮かべる人もなかにはいるだろう。
 そのキーウェストからさらに南のキューバまではわずか90マイル(145キロ)。東は大西洋、西はメキシコ湾に面した半島の形をした州は、同じアメリカの諸州のなかで日本からはもっとも遠く感じる。かつて移民としてアメリカに渡った日本人もほとんどが西海岸に集中しており、それに比べれば東部にはその足跡は少ない。
 まして、南のフロリダにはそんなものはないだろう、多少アメリカに詳しい人や移民を研究している人でもそう思かもしれない。しかし、実はこの半島南部にかつて小さな日本移民のコロニーがあり、それがもとになっていまでは立派な日本庭園とミュージアムがあるのだ。

フロリダにヤマト・ロード?

 いまから24年前、私はフロリダの大西洋岸中部に位置するデイトナ・ビーチというまちで1年間暮らしていた。あるとき半島を南北に走るハイウェイ95号をマイアミまでドライブして南下した。マイアミまであと70キロくらいになったとき、ハイウェイと交差する道路の名前を示す標識に「Yamato Rd」と読めるサインを見た。
「ヤマト・ロード? Yamato とは日本の大和のことだろうか、でもまさかここに大和はないだろう。インディアンの言葉じゃないか?」と、思った。それまで日本人移民の話など聞いたことはなかったし、フロリダにはセミノールというインディアンがいて、いまもその居留地があることは知っていたからだった。
 それから数年して、再びフロリダを訪れたとき、例の標識を見た近くに、「モリカミ」と呼ばれる日本の美術品などを展示しているミュージアムと日本庭園があるのをだれかに教えられた。そして、あのときのYamatoが日本の「大和」であることがわかった。
 モリカミはデルレイ・ビーチ(Delray Beach)というまちにあり、かつてここで農業を営んでいた森上助次なる日本人の名前をとってモリカミと名付けられたミュージアムであり庭園だった。

ヤマト・ロードの標識(デルレイ・ビーチ)

 森上氏は生涯を独身で通し、他界する前に所有する土地をすべて地元に寄贈した。それをうけてミュージアムなどがつくられたと最初は聞いた。リゾート地として発展していったフロリダのこと、おそらく戦後にリゾートブームが起きて、森上氏の所有していた土地も高騰してひと財産を築いた。家族のいない彼はそれを寄付したのだろう。そんなふうに私は勝手に想像していた。
 一方で、森上氏が現在の京都府宮津市の出身で、彼の功績によってデルレイ・ビーチ市と宮津市は姉妹都市の関係を結んだということは確認した。また、同市にはいまも彼の親戚が暮らしていることもわかった。
 私は自分がフロリダに住んでいたということもあるが、なにより、どうして日本から遠く離れた、日本とはこれといった関係も想像できない地に1世紀も前に彼はやってきたのか、その暮らしはどんなものだったのか、また、彼の財産はいったいどんなミュージアムと日本庭園に形を変えたのかといったことに長年興味をもっていた。そして、機会があればぜひモリカミを訪れたいと思っていた。
 今年の3月それがようやく実現した。その前にモリカミの正式な名称はThe Morikami Museum and Japanese Gardensとわかり、そのサイトをウェブで調べてみると、モリカミは1977年に開館し、地元パームビーチ郡などが運営、管理しているという。そして、3月末に「HATSUME FAIR」と呼ばれるお祭りがあることがわかった。HATSUMEは初芽であり、草木が芽を吹くころの祭りで、和太鼓や茶の湯など日本の伝統文化を紹介するイベントや展示が大々的に行われ、周辺からは多くの人たちが訪れるという。

 また、そこには20世紀の初めに森上氏のほか日本人の移民17家族が入植し、Yamato Colony(ヤマト・コロニー)なる小さなコミュニティーを形成していたこともわかった。これがあのヤマト・ロードにつながったのだ。
 幸いモリカミには、夫妻で副理事長の任にあるジェームズ三堀氏と三堀千栄子氏というここの歴史を知る2人がいた。彼らと何度かメールでやりとりをした後、いよいよ謎だったモリカミを2日にわたって取材をすることになった。
 あのヤマト・ロードの標識はまだあるだろうか。どれほどのミュージアムであり、また、森上助次とは何者なのだろうか。十数年ぶりのフロリダと再びヤマト・ロードに出合うのを楽しみに、私は今回のアメリカ取材・調査の最初の地であるニューヨークを午前11時前に発ち約3時間半でフロリダの大リゾート地の一つ、大西洋岸のフォート・ローダーデールの空港に降りた。ここから車でデルレイ・ビーチへ向かうためだ。

入植当時のフロリダに思いを馳せながら

 その日は金曜日ということもあって、空港内のレンタカー・カウンターは長蛇の列。待つことおよそ1時間余、ようやく三菱のセダンで空港を出たのは午後3時半を過ぎていた。この時期のフロリダにしては、それほど暑くはなくさわやかな陽射しがふり注いでいる。

フォート・ローダーデールのビーチ沿いを走る

 デルレイ・ビーチまではすぐにハイウェイ95号にのって北上した方が時間はかからないのだが、リゾート地として名だたるフォート・ローダーデールのまちを見ようと、まずは海岸沿いを走るA1Aという道に出て、道路の両側につづく南国情緒を醸し出すパームツリーの間を走る車の列に加わった。右には砂浜と薄い青緑の海が見え、左にはホテルやレストランが建ち並ぶ。どちらにも人があふれていた。
 この時期は学生にとってはスプリング・ブレイク(春休み)で、各地から学生たちがフロリダを目指してやってきて騒ぎ、楽しむのは長年の慣習になっていた。なかでもデイトナ・ビーチやフォート・ローダーデールはそのメッカだった。

 そうした学生たちも大勢いるのだろう、人通りでにぎわう繁華街を抜けてしばらくすると、海岸線とほぼ並行してゆったりと川が左手に流れている。川沿いには瀟洒な家々が建ち並び、それぞれが桟橋を突き出し、ボートやクルーザーを係留している。なんとも優雅なアメリカらしいリゾートの景色だ。
 そろそろデルレイ・ビーチに近づくので、海を離れ内陸へ向かった。そして地図で確認ずみのヤマト・ロードのサインを見つけた。東西に走るこのヤマト・ロードは、あとで知ったのだが、モリカミができるときに、ハイウェイからつながる道としてそう名付けられたのだった。
 95号から片側3車線のこの道路に入ってしばらくして、北に向かったところにモリカミは位置する。私はこの日はハイウェイ近くのホテルに泊まり、翌朝、「HATSUME FAIR」の開催に合わせて会場であるモリカミを訪ねることにしていた。

モリカミ・ミュージアムへ

 祭りの当日、そのヤマト・ロードに沿って車を走らせると、「YAMATO OFFICE CENTER」というビルがある。道路の名前を冠したのだろうが、Yamatoはなかなか有名なようだ。「MORIKAMI MUSEUM」という案内表示もある。しかし、ホテルのスタッフに「ヤマト・ロードのヤマトは日本語だというのを知っていましたか」と、聞くと「いや、知らなかった」という。
 あたりは典型的なフロリダの風景が広がる。平坦で森を切り開いたように開発、造成された住宅地や低層のオフィスビルなどが並ぶ。整然としているさまは、いかにも現代人が合理的にデザインしたという町並みだ。
 おそらく半世紀前は、原野に等しかったのではないだろうか。湿地帯が点在するこの地はワニも生息しているし、なにより小さな虫たちが無数に飛び交う。フロリダを走る車のなかにはフロントグリルに細かい網の目のようなマスクをかけて走っているのを以前よく見かけたが、これは虫除けのためだと聞いたことがある。森上氏らはこの地に100年以上前に入植したというのだから、その暮らしぶりは想像を絶する。

あらためて気づく日本文化の魅力

 周りの緑が目立つころ、ひとつ道を曲がって、さらに木立に囲まれてカーブを描く細い道を進むと、モリカミの中心となる建物の前にでた。すでに近くでは開園を待つ人たちが並んでいる。あちこちで交通整理などで動き回っているのはボランティア・スタッフだろう。
 この建物を抜けた屋外で千栄子さんが、「Tea Ceremony」としてお茶をたてて訪れた客に披露するという場に、三堀夫妻を訪ねたのだが、眼前の光景にはっとした。遠くまでつづく水辺とそれを囲む植栽。想像していたよりはるかに広い立派な都市公園のような景色が広がっている。
 茶の湯が始まるまでの間、まずは三堀氏に案内されてひととおり回ってみると、日本庭園を形成する要素が随所に顔をのぞかせる。欄干が目立つ橋、曲がりくねった小道や小さな滝壺、そして水を貯めた竹が石をコツンと打つ鹿脅しがある。竹林をつくり岩を配し、石を敷き詰めた石庭もあれば、見事な盆栽がずらりと並べられている一角がある。

庭園内の中心を占める湖

 ときどきベンチで一服しながら人々は思い思いに散策を楽しむ。スピリチュアルなパワースポットだと考えているのだろうか、龍安寺にあるような石庭の周りでは、集団でなにやら庭に向けて手を掲げている数人のグループがあった。
 配布されている資料などからすると、広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にしてそれらをぐるりと回りながら、6つの区域に分かれてさまざまな表情を見せる庭園を楽しむことができる。ざっとまわっても1・2キロくらいの散歩道だ。

遊歩道は行き交う人々でにぎわう

 歩きながらふと感じたのは、オレゴン州ポートランドにある日本庭園を訪れたときもそうだったが、日本文化のもつ特性や魅力である。海外に来てようやく思い知るというのもなさけない。しかし、こうした経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。だからこそわれわれは日本を離れて日本を見る必要があり、海外で日本文化を紹介する意義もまたあるのだろう。
 また、静けさや無という日本文化の魅力についても考えた。日々の暮らしはさまざまな音に満ちあふれ、遊びも含めていつもなにかをすることで時間を過ごす。そうした現代人の生活で、なにもせずただ静かに美しい庭を眺めて過ごす場としての日本庭園が実に味わい深いものだと実感した。
 実際、アメリカ人のなかにも、ここへ来て心の病を癒して帰る人たちがいることを三堀氏は教えてくれた。

庭園のなかをコスプレのティーンエイジャーたちが・・・

石庭で人々は足をとめる

 敷地内には黒い瓦屋根の本館と最初にできた平屋の建物がある。本館には、木版や着物、陶器など日本の美術品が展示されているほか、茶室が設えられている。ユニークなのは、畳の間で茶の湯を行っているときに、お茶を点てるその模様を鑑賞できるようにと、開放された部屋の外に階段状の客席がつくられているところだ。
 本館内には225人を収容できるシアターもあるし、カフェではお寿司をはじめ日本食が楽しめる。日本の工芸品や贈答品などが販売されるショップも、この場所にしてはなかなか充実している。
 この建物とは別に、庭園の中程にある平屋の建物では二つの常設の展示がある。一つは「子供たちの目を通した日本」と題した、日本のいまの社会を知るためのもので、小学校の教室の様子や一般家庭のダイニングキッチンなどを紹介している。
 もう一つは、ヤマト・コロニーの歴史が古い写真や新聞記事などとともに理解できるようになっているものだ。

日本の小学校の教室を再現

 午前中のうちに庭園内は来客がひっきりなしに行き交うほどになった。そのなかでとりわけ目を引いたのが、なにやら派手なコスチュームに身を包んだティーンエイジャーたちだった。その数は時間とともにどんどん増えてくる。
 いったい何だろうと思っていると、この日のイベントの一つとして開かれる「コスプレ・コンテスト」に登場する若者たちだった。話には聞いていたが、いまや日本のアニメやマンガが外国の若者へ与える影響力は絶大なようで、私にはいったい彼らがどんなキャラクターに扮しているのかまったくわからなかったが、とにかく想像の世界から飛び出した色鮮やかで奇抜な姿が、しっとりとした日本庭園のなかを歩き回っているのだ。不似合いと言えばそれまでだが、その光景はおもしろいコントラストでもあった。

コスプレ・コンテストに出場するアメリカの少女

 大きなテントを張った特設の会場でのコンテストが大いに盛り上がったのは言うまでもない。加えて会場ではアニメのグッズやおもちゃの日本刀などが束になって売られているのも不思議なことだった。
 地元のある中学生に「日本に行ってみたい?」ときくと「もちろん!」と答えが返ってきた。

 伝統的な日本の文化、芸能ももちろん注目を集めていた。とくにこうした祭りやイベントではよく行われる和太鼓は、音とパフォーマンスの力強さがアメリカ人に受けるのだろう、初めて見る人には新鮮に映ったようだった。
 また、千栄子さんがリーダーとなって披露する野点(Tea Ceremony)にもたくさんの人だかりができた。着物に身を包んだ彼女がまず、茶の湯というものについて英語で説明をしてからお茶を点てる。そして、大きな傘の下で待つそのお弟子さんたちにふるまう一連の"儀式"を集まった人たちの前で淡々と繰り返した。青空の下で、静かにゆったりと進む動作に、観衆も静かに見入っていた。

三堀千栄子さんがお茶を点てる

 敷地内には、日本的な食べ物や日本の古本なども売られるなど、出店も集まって、終日大盛況。西海岸のこうした日本をテーマにしたイベントに比べると、東洋人の姿が実に少ないのが印象的だった。

 モリカミでは、このHATSUME FAIRのほかに、お正月には餅つきをしたり、お盆には精霊流しや花火を打ち上げるといった季節の催事を開いている。また、年間を通して、生け花教室や茶道教室を開いたり、料理や日本の庭作りを紹介する。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め、人々との交流を図っている。
 週末の2日間にわたって行われた、今春のFAIRは天候にも恵まれ約1万人が訪れるほどのにぎわいだった。日本的なものがあまり目立たないこの地のアメリカ人が、日本的なものについてこれほど関心があることは少々驚きだった。しかし、それ以上に心に残ったのは、かつてのヤマト・コロニーの歴史と、森上氏の生涯であり、彼の名前を冠したこの立派な庭園ができるまでのストーリーだった。
 次回は、コロニーとモリカミが誕生する、偶然のようないきさつともいえる話をしてみたい。

  参考ウエブサイト

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