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Series 世界
人間を傷つけるな! 土井 香苗
09/12/15

第9回 チェチェン問題をめぐって暗殺が横行するロシア

戦争や虐殺など世界各地で今日もなおつづく人権蹂躙の実情に対して監視の目を光らせる国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)。2009年春開設したHRW東京オフィスの土井香苗ディレクターが問題の実態を語る。

「今すぐ受話器をとって!」
HRWのために調査活動を行っていたロシア・チェチェンの著名な人権活動家ナタリア・エステミロワさんが、今年、2009年7月15日、射殺体で発見されました。
土井
 ナタリアさんは、ロシアの著名な人権NGO「メモリアル」のスタッフで、チェチェンの人権問題の調査を担当し、HRWのために長年調査活動をしていました。彼女の卓越した人権活動を評価して、HRWの人権賞(2007年)をはじめ、アンナ・ポリトフスカヤ賞(2007年)、欧州議会のRobert Schuman Medal (2005年)、スウェーデン政府のRight to Survival賞(2004年)など、これまでに数多くの国際的な賞が彼女に授与されています。
 ナタリアさんは、2009年7月15日の朝8時半頃にチェチェンにある自宅を出た後、何者かに拉致されました。HRWのロシア事務所副代表タニヤ・ロクシナと独立系新聞ノーヴァヤ・ガゼータ紙の記者エレナ・ミラシナさんと一緒にチェチェンで約1週間の聞き取り調査を行った翌日のことでした。近くのビルのバルコニーにいた目撃者2人の話によると、ナタリアさんは、白い車に無理やり乗せられ、その際に悲鳴をあげたそうです。車はそのまま走り去っていきました。ナタリアさんは、その日、チェチェン共和国の隣のイングーシ共和国で射殺体で発見されました。
HRWの人とも活動を共にしていたのですね。
土井
 ナタリアさんが拉致されてまもなく、HRWのロシア担当者から、私たちに対して、悲鳴のような連絡がありました。「ナタリアが拉致された、彼女の命が危ない。今すぐ受話器をとって、世界各地の高官に電話をかけてほしい。そして、ロシア政府にナタリアを殺してはならないと命令してほしいとすぐ伝えて」という内容でした。しかし残念ながら、それから一日もたたずに、ナタリアさんの射殺体が発見されるという最悪の事態となったのです。
 ナタリアさんは、ずっと、チェチェンで暗殺されたり拉致されたりした被害者のために、犯人の捜査と裁判、つまり、法の正義を求めてきました。HRWはロシア当局に対し、ナタリアさん拉致殺害事件について、独立した透明性のある捜査を包括的に行うよう求めています。それが、法の正義を求めつづけたナタリアさんが、私たちに一番望んでいることでもあると思います。
今年暗殺されたロシアの人権活動家は、ナタリアさんだけではありませんね?
土井
 2009年は世界中で、人権活動家、つまりNGOスタッフ、ジャーナリスト、弁護士、署名を集めた人、そのほか何らかの方法で人権侵害の事実を調査・告発したり、被害者を支援した人たち、人権機関に対する攻撃が激しかった年でした。そのなかでも、ロシアでの人権活動家の暗殺は抜きん出ています。ロシア政府は、こうした残虐な犯罪行為を処罰せずに容認しているため、こうした犯罪はとどまることを知りません。
 ロシアで暗殺された人たちの多くには、共通項があります。それは、親ロシアのチェチェン大統領ラムザン・カディロフ率いるチェチェン軍による恣意的拘禁、拷問、暗殺(略式処刑)などについて調査し、告発していたということです。
 7月にナタリアが暗殺されたのに続き、翌8月2日には、チェチェンの首都グロズヌイで、チェチェン紛争の被害者の子どもたちを助けるNGO「セーブ・ザ・ジェネレーション」代表のザレマ・サドゥラエワさんと夫のアリク・ジャブライロフさんが殺害されました。2人は、グロズヌイにある事務所から、法執行官だと名乗る男たちに拉致され、その数時間後に車のトランクの中で遺体となって発見されたのです。
 また、2009年1月には、カディロフ大統領の元護衛で、ヨーロッパ人権裁判所に対し、カディロフ大統領から拷問されたと裁判を起こしていたチェチェン人のウマール・イスライロフさんが、亡命先のオーストリア・ウィーンで、白昼、何者かに暗殺されました。同じく1月、アンナ・ポリトコフスカヤさん(2006年10月に自宅アパートのエレベーター内で暗殺された独立系新聞ノーヴァヤ・ガゼータ紙のチェチェン担当記者。この事件はロシアで最もよく知られた人権活動家暗殺事件。犯人は未だに逮捕されていない)とともに活動していた著名な人権弁護士のスタニスラフ・マルケロフさんが、モスクワでの記者会見を終えた直後に射殺されました。マルケロフさんはロシア軍により殺されたチェチェン女性の遺族など、チェチェンでの人権侵害の被害者の弁護をしていました。
 このとき一緒にいたジャーナリストのアナスタシア・バブローワさんも、彼のそばで銃で撃たれ死亡しました(但し、マルケロフ弁護士暗殺事件の容疑者は、個人的な怨恨による暗殺と主張している。本件暗殺の背景は未だに十分明らかになっていない)。
 そのほか、チェチェンの人権活動家に対し、名誉毀損訴訟の提起など、様々な方法によるいやがらせが行われていますし、ナタリアさんが属していたNGOメモリアルのそのほかのスタッフに対する不穏な動きもあり、人権活動家たちの身の安全が懸念される状況です
ロシア軍とチェチェン独立派双方が民間人を犠牲に
チェチェン問題とは関係のない人も暗殺対象になっているようですが。
土井
 そうです。たとえば、ペトロザヴォーツクのNGO「正義」で汚職撲滅のために活動していたアンドレイ・クラーギンさんは、行方不明になって2ヵ月後の2009年7月、遺体で発見されました。そのほかにも、モスクワ郊外のヒムキで、アルバート・★Albert Pchlelintsevさんが、2人の男に口を打ち抜かれて射殺されました。また、強制失踪の被害者たちの母親でつくるNGO「人権を求めるダゲスタンの母たち」のスタッフたちが暗殺の脅迫を受け、その後8月にオフィスが放火される事件も起きました。6月には、エカテリンブルグの人権活動家アレクセイ・ソコロフさんが濡れ衣を着せられて逮捕され、拘束中に暴行されるという事態も起きています。
ひどい状況なのですね。チェチェンでの人権侵害の実体を告発している人たちが特に標的にされているわけですが、チェチェンににおける人権はどのような状態でしょうか。
土井
 1994年から1996年にかけて第一次チェチェン紛争がおきました。引き続き、第二次チェチェン紛争が1999年に勃発しました。この第二次チェチェン紛争ですが、「エリツィン大統領が自ら指名した後継者のプーチン現首相が世論調査で支持率を上げるために必要」として紛争を開始したという見方がしばしば伝えられています。ロシア政府は、ロシア内でのテロ攻撃の多くをチェチェンの反政府勢力の犯行と発表。チェチェンへの民間人を巻き込んだ攻撃をエスカレートさせていきました。ロシア軍による頻繁な空爆によって、数十万人もの人びとが難民となったほか、ロシアの地上軍もチェチェンに侵攻しました。一方の反政府武装勢力も民間人を巻き込んだ残虐行為を繰り返しています。民間人は、紛争の両当事者の犠牲となっています。
 今では、戦闘そのものは下火になりましたが、それでも、チェチェンでは、超法規的な処刑、懲罰的な家屋の焼き討ち、拉致、恣意的な拘禁など、暴力事件が増加し集団的な懲罰が利用されています。殺害されたナタリアさんは、HRWと共にこれらの事件を調査していました。
戦闘による犠牲という点では、そのほか2008年8月のグルジア紛争も忘れることはできません。
土井
 そうですね、2008年夏、約1ヵ月続いた南オセチアをめぐるグルジア紛争では、戦争中はもちろん、戦争後も、ロシア軍もグルジア軍も、多数の戦争法規違反を犯しました。民間人の死傷者を多数出したほか、民間財産を広く破壊し、重大な国際人権法の違反行為を行ったのです
 グルジア軍とロシア軍双方が、無差別かつ均衡を欠く過度な攻撃を行うとともに、南オセチアのオセット人兵士たちが、南オセチア内のグルジア系マイノリティの村落に対し、意図的かつ組織的な破壊行為を行ないました。ロシア軍は、グルジア領の一部をその実効支配下におきながら、公共の秩序と安全を確保しませんでした。
 グルジアの自治州南オセチアは、国境を接するロシアと極めて親密な関係にあります。武力紛争は2008年8月7日に始まり、8月15日の停戦まで続きました。停戦の結果、グルジア軍が南オセチアから撤退。グルジアに領有権があることについて争いのないグルジア領の一部についてもロシア軍による一時的占領という事態となり、激しい暴力と不安定な状況の中で、数百人もの民間人が殺害されたほか、数万人が、故郷から避難せざるを得なくなりました。
 そして、避難民の多くは、今も南オセチアに帰郷できないままとなっています。HRWが作成した200ページの調査報告書「焼け落ちた村落:南オセチア紛争における国際人道法違反」は、グルジア戦争の後に行った数ヵ月に及ぶ現地調査と460件を超える聞き取り調査に基づいて作成された報告書となっています。
危険と隣り合わせでレポートを出しつづける!
いまロシアでは、NGOなど市民社会に対する統制が厳しいとききましたが。
土井
 ロシア政府は、2006年、新しいNGO法を制定し、平和的な集会に対する干渉やNGOへの嫌がらせなどを強めました。このNGO法とは、定期的な活動報告の提出を義務づけ、これに違反した場合に団体解消を命じる権限を政府に与える法律です。NGOは、懲罰的で細かい監査の対象となり、細かい規則のひとつにでも違反すれば、仮に団体がその違反を訂正したとしても、政府は、2度の警告ののち、団体の解消を命じることができます。実際、政府は、活動報告の提出が遅れたことなどを理由に、いくつかのNGOに解消を命じました。
しかも、「過激派法」の改訂が発効し、政治的意見またはイデオロギーが背景にある犯罪をすべて「過激派」犯罪とすることを可能にしました。これによって、政府を批判することが大変困難になり、政府を監視すべき市民社会の機能が弱体化しています。
 2008年2月、HRWは、この2006年NGO新法を利用した市民社会への嫌がらせの実態をまとめた報告書「ロシア:官僚主義を利用した市民社会の弾圧の実態」を発表。HRWの代表ケネス・ロスが、この報告書のリリースを発表する記者会見をモスクワで開催する予定でしたが、ロシアはロス代表に対するビザ発給を拒否。ソ連崩壊後、HRWのマネジメントに対するビザ発給が拒否されたのは初めてのことで、2006年NGO新法についての報告書の発表とともに、このビザ発給拒否自体も大きなニュースになりました。ロシア入国を拒否されたケネス・ロスは、モスクワの記者会見にビデオで参加しました。
 今年2009年になってからも、たとえば、4月、ロシアの最高裁は、あるNGOの解消を容認しましたが、このNGOは、2007年に活動報告を出していましたが、それ以前の報告書を出していなかったという理由で、解消が容認されてしまいました。
HRWのロシアでの活動は、具体的にどのように行われていますか。
土井
 HRWは、モスクワにオフィスを構えています。このオフィス自体も、2006年NGO新法の規制に合致するため、大変なペーパーワークをこなさなくてはならず、常に、嫌がらせの危険にさらされています。
 その中でも、ロシア担当調査員たちは、旺盛な調査・アドボカシー活動を繰り広げており、今年2009年に入って発表した報告書は6冊。2009年1月に、グルジア紛争下での民間人被害の実態を明らかにした200ページの調査報告書「焼け落ちた村落:南オセチア紛争における国際人道法違反」を発表、2月には、ロシア内の出稼ぎ労働者の搾取の実態を明らかにした"Are You Happy to Cheat Us?: Exploitation of Migrant Construction Workers in Russia"を、4月には、2008年8月のグルジア紛争でのロシア軍・グルジア軍双方によるクラスター爆弾の使用の実態について明らかにした80ページの報告書"A Dying Practice: Use of Cluster Munitions by Russia and Georgia in August 2008"、(写真スライドショーはこちら)を、6月には、NGOに対する弾圧の実態についてフォローアップした68 ページの報告書An Uncivil Approach to Civil Society: Continuing State Curbs on Independent NGOs and Activists in Russiaを、7月にはロシアの治安部隊が、チェチェン武装組織メンバーとみなした人物の親族の家屋を放火するという形式の集団懲罰が横行している実態をまとめた54ページの報告書「『子どもの罪は親の罪』チェチェンで横行する懲罰的な家屋焼き討ち」を発表しました。
 そして、一番最近の報告書は、今年9月に発表した38ページの報告書 「消された息子たち:チェチェンに関して欧州人権裁判所が下した判決のロシアによる履行の実態」。チェチェン関係の欧州裁判所の判決へのロシア政府の対応を検証しています。ちなみに、欧州人権裁判所はこれまでに115件のチェチェン関係の判決をだしていますが、そのほぼ全てにおいて、同裁判所は、ロシアに超法規的処刑、拷問、強制失踪の責任があると示したのみならず、ロシアはそれらの犯罪を捜査してこなかった、と示しています。
 HRWがこの報告書のなかで調査をした33件の中で、ロシアが犯人を訴追した事件は一件もありませんでした。人権侵害を犯した人の氏名や、その黒幕の氏名が欧州裁判所の判決で明らかにされているような事件もありますが、そうした場合ですら、ロシア政府は犯人を訴追していないのです。
 これらのロシアの人権侵害の報告書は、HRWのモスクワ事務所のスタッフたちが、危険をおかしながらまとめた貴重な報告書です。そのほかにも、HRWがこれまでに出したロシア関係の報告書はこちらにまとめてあります
 こうした実態調査をもとに、HRWは、ロシア政府に、欧州人権裁判所の決定に従うように、殺害された人権活動家の事件の捜査をしっかり行うように、NGOへの脅迫をやめるように、ヨーロッパをはじめとする世界各国の政府にロシア政府に圧力をかけてほしいとロビイング活動を行っています。しかし、EUも、残念ながら、ロシアに対する批判をほとんどしなくなっているのが現状で、こうした国際社会の人権侵害を容認する姿勢が、ロシアでの人権侵害の増長につながっていると言えます。
日本のHRWとしてはどのような活動をする予定でしょうか。
土井
  来年2010年4月、HRWのモスクワ事務所の副所長タニヤ・ロクシナと独立系新聞ノーヴァヤ・ガゼータ紙の記者エレナ・ミラシナさんを日本に招き、日本のメディアや一般の皆さんにブリーフィングやスピーチをする機会を設けて、ロシアの人権状況をもっと日本に伝えたいと思っています。ノーヴァヤ・ガゼータ紙の記者エレナ・ミラシナさんは、2006年10月に自宅アパートのエレベーター内で暗殺されたノーヴァヤ・ガゼータ紙の著名な記者アンナ・ポリトフスカヤさんの後輩で、彼女のあとをついてチェチェン取材を担当してきた勇気ある調査報道記者です。彼女は、先輩アンナさんの暗殺事件の追及も続けています。彼女の優れた調査報道と勇気をたたえ、HRWは、2009年の人権アワードを彼女に授与しました。
 そして、タニヤ・ロクシナさんとエレナ・ミラシナさんの来日の際には、日本政府の要人や政治家と会談してもらってロシアの現状をブリーフしてもらい、それをきっかけに、日本政府に、ロシア政府に対して人権侵害の解決に向けた働きかけをしてもらうため、提言をしていきたいと思っています。鳩山首相はもちろん、そのほか、新政権の要人たちもロシア通が多く、鳩山政権下で対ロシア外交に力が入ることも予想されます。その場合、ロシアと日本の二国間の交渉や対話の中で、人権は無視してもよい課題、とすべきではないと思います。
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PROFILE

土井 香苗

1975年神奈川県生まれ。1994年東京大学入学。大学3年生で司法試験に合格し、4年生のときNGOピースボートのボランティアとして、アフリカで一番新しい独立国・エリトリアに赴き、1年間エリトリア法務省で法律作りに従事する。2000年から弁護士活動をする傍ら、日本にいる難民の法的支援や難民認定法改正のためのロビーイングやキャンペーンにかかわる。06年から研究員として国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチのニューヨーク本部に在籍。07年から同NGO日本駐在員。08年9月から同東京ディレクター(日本代表)。
ヒューマン・ライツ・ウォッチのHP:
http://www.hrw.org/
 
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