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Series フォト&エッセイ
遠いパラダイス 藤原 章生
06/02/15

第19回 薔薇色の魂

冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そう考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族、人種に閉じこもり始めた。人々が鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

ブラジル、サンパウロ郊外のスラム街で、02年

 私がラテンアメリカに関わりだしたのは、今からちょうど20年前のことだ。何が気に入ったのか。後からいろいろと考えてみると、音楽や文学ばかりでなく、やはりそこに暮らす人々の人間性に惹かれたのだろう。
  私はそのころ飢えていた、というか、腹が減っていた。米国からメキシコに入り最初に覚えたスペイン語の言い回しは、
「ドンデ・エスタ・レストランテ?(レストランはどこですか)」
  という表現だ。
  国境の街なら、かなり英語が通じるだろう、と高をくくっていた私は、まったく通じないことを知り、異次元に迷い込んだような気がして、なぜか嬉しかった。そして、ロサンゼルスに飛ぶ前に日本の空港で買った緑色の六ヵ国会話集を取り出し、少しずつスペイン語を覚え始めた。そして腹を減らして町を歩きながら、人々にたずねた。
「ドンデ・エスタ・レストランテ?」
  人々は私の「レストランテ」の音が聞き取れず、大方が
「ドンデ? ドンデ?」
  と聞き返してきた。そのためか私はレストランテの「レ」のRの巻き舌音を早々に会得した。そして日本語では下町の喧嘩でしか使わないような巻き舌が気に入った。
  人々は私の言葉の意味を理解するとほんの少し考え顔になってから、それ以上何も話せない私の手を引っぱり、レストランか食堂まで連れて行ってくれた。

 人との最初の関わりは、メキシコ北西部にあるマサトランという町でのことだった。薄暗く長い廊下のある古びたホテルの受付で、やはり同じ言葉を繰り返していると、たまたまそこにいた泊まり客の子連れの女性が、一言二言私に何か言うと、私の手をとりタクシーで中国料理のレストランまで連れて行ってくれた。
  中国料理店で私たちは要領の得ない会話を続け、女性が高校の教員をしており、小学生の子供2人と犬1匹を伴い、これからカリブ海に行くということがようやくわかった。だが、私はそんなことよりも、4人分の料金を払わなくてはならないということで少し「参ったなあ」という気持ちになっていた。こういう場合は割り勘にならないのだろうか、とも考えたが、それをどう表現すればいいのか、一人悩んでいると、彼女が
「バモス(行きましょう)」
  と号令をかけた。私はその時点で「バモス」の意味も知らなかったが、彼女はすでにトイレに行ったついでに代金を払っていた。おごってくれたのだ。
  その後、4人で町を歩き、結局その晩、私たちは辞書を見合いながら語り明かすことになった。私は彼女たちと別ルートを経て内陸の町に入る予定だったので、翌昼、女性は子供2人と犬を伴い、バス停まで私を見送ってくれた。
  バス停に向かう前、ホテルの部屋で彼女は子供たちとしきりに、
「バモス、バモス」
  と繰り返していた。後から思うと、彼女は
「私たちと一緒にカリブへ行きましょう」
  と主張していたようだった。なぜなら、言葉をほとんど理解しない私を見ながら、彼女が何度かため息をついたからだ。
  私が乗った長距離バスはスモークガラスになっており、外から中が見えない。でも、中にいる私からは彼女たちがよく見える。バスが動き出すと、スモークガラスに向かい目をこらしていた女性が急に涙ぐんだ。そして、背を伸ばし手を振った。つられて子供たちも必死になって両手を振る。私はバスの中から手を振ったが、彼女は最後まで、視線を泳がせ、結局私たちは、目を合わせないまま別れた。

ボリビアのオタバロで、05年

 バスがエンジンをふかし町を離れるとき、私はひどく後悔した。なぜ、彼女たちと残らなかったのかと。そして、
「これはいったいなんだろう。自分の人生でこんなこと、あったろうか」
  と考えていた。たまたま出合い、たった一日、共に過ごしただけなのに、なぜ彼女は泣いたのか。
「やはり言葉ではないのだ。気持ちなのだ。言葉など通じなくたって、何かが通じたのだ」
  そんなふうにも思った。すると、私はアルマロサ、直訳すれば「薔薇色の魂」という名のその美しい三十そこそこの女性が急に恋しくなった。情はいつも時間をおいてやってくる。
  私は日本ではいい加減な方だと思っていたが、ラテン世界ではまだ硬い方だった。
「会ったばかりの女性と、しかも会話もよくできない相手といきなり夏を過ごすなどあっていいものだろうか。夫を亡くしたとは言え、彼女は子連れである。『お母さん、どうしてこのおじさんがいつも一緒にいるの?』などと聞かれたら、思春期前の子供になんと言えばいいのか。子供や犬に厳しいアルマロサの威厳も形無しじゃないか。しかもアルマロサは私につられて、やめていたタバコまで吸い始めている。教育上、よくないんじゃないか」
  と、そんなふうに考え、
「やはり残らなくて良かったのだ」
 と、バスの中で旅愁をかみ締めた。

 それから10年余りが過ぎ、ペルーのリマで親しくなった弁護士の女友達にこの話をすると、彼女はにべもなくこう言った。
「その女性と行かなくて良かったよ。行ってたら、迫られて面倒なことになってたわよ。ラテンの女よ。そこまで計算してたはずよ」
「それもいいじゃないか」
「いいったってあなた、25歳でいきなり2人の子持ちになるのよ」
  でも、それほど計算していたとしたら、なぜ最後になって涙など流したのだろう。それも計算なのだろうか。いや違う。彼女の中には多分、バカンスを楽しむための一時の情熱とは違った、何か別の高ぶりがあったのだろう。
  私がラテン世界に心惹かれたのは、後先や場の状況をあまり考えず、衝動的とも言える感情を見せる人々の人間らしさだったように思う。酔った勢いやカーニバルの羽目はずしとも違う。それは日常の中、突如として現れる。しかも、頻度も高い。

 アルマロサに限らず、言葉を解さない私に対してメキシコの人々はとにかく優しかった。彼女と別れた翌朝、新しい町でローカルバスに乗り込むと、まじめそうな青年が片言の英語を交え、声をかけてきた。私は彼に導かれるままホテルの部屋を決め、午後には彼が恋人の女の子を伴い、昼寝をしていた私の部屋に現れた。私たちは言葉少なに町や植物園を歩き、夕暮れまで、共に過ごした。そして、彼らは私をやはりバスターミナルまで送ってくれた。
  つまり、言葉が何一つできずに、フラフラと漂っていても、ラテン世界では人々がよそ者を運んでくれる。私の初めての中米旅行は、どこに行っても人々の善意に導かれ、彼らの感情の高ぶりを垣間見る経験だった。

メキシコ北部マタモロスの縫製工場で、05年

「なんだか、アメリカみたい・・・」
  最近メキシコを初めて訪れた日本女性が、こう感想を漏らした。
  そう。今のメキシコはグローバリズムの影響をもろに受け、ずいぶん変わってしまった。見知らぬ旅行者を受け入れる優しさや包容力は20年という時代をはさんで薄らいだ。グローバリズムとあえて言ったのは、多くの人々が米国を行き来する自由貿易の最先端、メキシコが真っ先にラテンらしさを失ってしまったように思えるからだ。

 一方、南米に行けば、人々の底にはまだ、彼らの核となる性質が残っている。
  最近、コロンビアのカルタヘナの中心街で泊まったホテルのオーナーとこんな会話をした。
「イタリア人だって?」
「そう、ベニスから来たんだ」
「ベニスはいい町だってね。こっちとどう?」
「まあ、ここもいいよ。やっぱり基本は同じだから。ま、同じラテン、ラティーノだから」
「そうね、ラテンね」
  この会話でのラテンの定義は、自分の人生を考え、細かなことに囚われず、悠然と歩いていくといったセルフイメージにつながる。
「じゃあ、フランス辺りまではまだいいんだ。イタリア、スペインはもちろんそうだし」
「そうそう」
「イギリスは?」
「だめだめ」

チリ、サンチャゴの政治集会で、06年

 ラテン人。ときにお金のことになると結構細かいところもあるが、それ以外にはかなりおおらかで大雑把な人々の集まりという気もする。カトリックがきれい事を唱える一方、教会そのものがかなりのリベラルさを備え、住民もそれを許容してしまう社会である。
  許容とはたやすいようでいてそうでもない。自分とは異なる者たち、あるいは少数派を認める寛容さでもあるからだ。
  ここ最近、「南米の左傾化」という言葉をよく耳にする。左というと「何をいまごろ」という気もするが、それを支持するのは貧困層ばかりではない。中間層や富裕層からも似たような声をよく聞く。彼らがよく口にするのは「反グローバリズム」というスローガンだ。平たく考えれば、左傾化とは、グローバリズムを推し進める米英勢、いわばアングロ圏に対するラテン圏の抗いという気もしてくる。
  確かにマクロ経済は伸び、中間層以上の実質収入は上がったかもしれない。でも、昔を振り返ると、日々の暮らし、感覚はずいぶん変わってしまっている。それは、本当に楽しいものと言えるのだろうか。
  アングロを中心とする多国籍企業などの管理方法が取り入れられ、もうシエステ(昼寝)や家族との食事を楽しむこともできない。たまたま出合った、言葉を知らない外国人に半日つきあってみようなどという無駄な時間を楽しむこともない。そこに情が生まれ、感情の高ぶりを見せるのも、映画の中の出来事になってしまった。
  そんな自身の生き方を見つめ、ラテン人自身がラテンらしさを懐かしんでいる。反グローバリズムの底にはそんな回顧も隠れている気がする。果たして、ラテンに勝ち目はあるだろうか。

チリのコンセプシオンで、02年

 別れてから数年後、アルマロサから手紙が届いた。犬が死んでしまい、悲しみにくれている。子供たちは今でもときどきあの日のことを話していると、そんな内容だった。
  私はもう結婚していた。会いに行って何になるだろう。そんなことをすれば、自分の結婚相手が悲しむかもしれない。心からラテン人にはなり切れない私は、一人で余計なことを心配し、内容のない返事を書き、それっきりになった。
  でも、一つわかったことがある。彼女は何も計算していなかった。あの窓の向こう、涙は自然に流れたのだ。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。
北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。05年、第3回開高健ノンフィクション賞受賞。

主な著作:
『世界はいま どう動いているか』
(共著、岩波ジュニア新書)

『絵はがきにされた少年』
(集英社)

絵はがきにされた少年

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