僕を忘れた頃に
君を忘れられない
そんな僕の手紙がつく
くもりガラスの窓をたたいて
君の時計をとめてみたい
あヽ 僕の時計はあのときのまま
風に吹きあげられた埃の中
二人の声も消えてしまった
あヽ あれは春だったね
(作詞、田口淑子氏)
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夕立を切って走る少年たち 05年、チアパス州・サパティスタの村で |
大学生のころに聞いたときは、「春だったね」という部分へとあわただしく盛り上がっていく感じが春っぽくて、びゅーびゅーと春風の吹く東京を思ったりした。だが、それから四半世紀が過ぎたいまは、少し違って聞こえる。まず、音が何だか浮ついている感じがする。それにエレキピアノが、ボブ・ディランのLP「ブロンド・オン・ブロンド」の曲に似ていて、少し引っかかる。
この引っかかりとは、「ああ、やっぱり真似かあ」という落胆のようなものだ。井上陽水の曲にも確か、ドゥービー・ブラザースの低音のギターの音によく似たものがあり、後年、それを知ったときも同じ印象を抱いた。
だけど、耳は吉田拓郎の声にすぐになじみ、「ああ、これこれ」と自然に体が動き、思わずベルボトムのブルージーンの腰をたたいて、タンバリンを手にバックコーラスに入りたくなってくる。「似ているからだめだ」などというこだわりも少し馬鹿げている気がする。音楽などたいてい、よその音の影響を受けているものだ。模倣を否定するなら、どこまでさかのぼるべきなのか。バッハか?
改めて聞いてみて、これは青春を振り返った歌だと思った。青春後期あるいは青春をすでに終えた男が、少し距離を置いてその時代を思い出しているのだと思った。25歳くらいの男が、19歳か、15歳のころの恋を振り返っているという風でもあるが、60歳でも70歳でもいいような気がする。それは青いころの失恋を、決して忘れることのない者のつぶやきだ。
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朝、上がったばかりのマグロを船から 買って持ち帰る女性、05年、オアハカ州で |
最近、25歳くらいの女性からメキシコ旅行の感想を送ってもらった。彼女はたまたま観光で来たメキシコが好きになり、就職前の短い間に2度も来た。その彼女に、どこが気に入ったか聞いてみると、
「人の感じが、なんていうのか、どこまでも自由な気がした」
と話していた。
自由? そうだろうか。多少、ひねくれた気分で私は自問した。では、自分はなぜメキシコを好きになったのだろう。
最初は通り道のつもりだった。目的地はアンデスだった。1986年、25歳だった私はアンデスを見ようと思い、東京からロサンゼルスへ飛び、そこから陸路でペルーを目指した。当初の予定ではメキシコ2週間、中米諸国1週間で、コスタリカからリマへ飛ぶ予定にしていた。ところが結局、メキシコと中米に長居し、金が底をつき、3ヵ月後、東京に戻った。
初めて見たメキシコは明るかった。記憶に現れるのは、炎天下の強い日差し、その下で冗談を言い、笑い合う人々だ。言葉もほとんど通じないのに、人々は優しく、誰もが私に微笑みかけた。宿で夜ひとり、カード型のラジオで音を拾うと、あるのは全て、巻き舌で甘ったるくも重々しくも響くスペイン語の聞きなれない曲調だった。アウグスティン・ララをはじめとしたメキシコのロマンチカや、それを現代風にしたパンドラという女性グループの「Como te va mi amor?」がかかり、何度も耳にするものだから、覚えてしまったくらいだ。
当時流行っていた「We are the world」のラテンアメリカ版とでも言うのか「Cantale Cantala」というスペイン語圏のスター総出演の曲もよくかかっていた。私が一番気に入ったのは、フアン・ガブリエルというメキシコを代表する歌手の「ノアノア」という曲だった。
バモサ、ノーアノア、ノーアノア、ノーアノア、ノーア、バモサ・バイラー
という軽く弾むような音でダンスを呼びかける曲で、とにかく明るい。
なぜ、メキシコに魅せられたのかと言えば、多分、こうした音も大きかったのだと思う。それは自分がそれまでに聞いた音とは明らかに違うもので、日本とも米国とも違う、何かワンダーランドとでも呼べそうな地に紛れ込んだみたいな、わくわくする感じがあった。
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早朝、教会前のソカロ(広場)に立つ男性 05年、チアパス州・ サンクリストバルデラスカサス |
最近、メキシコ各地を回り、「米国とメキシコ」というテーマを追う機会に恵まれた。いろいろと考えた末、メキシコが米国の影響でどう変わってきたかに、テーマを絞った。それは、最初のメキシコ行から20年弱、メキシコが変わってしまったと思い続けてきたからだ。音も色も町の輝きも、人々の笑顔も、雰囲気も、何もかもが違うように思えたからだ。そこで、その当時といまとの比較をしてみようと、あちこち出かけてみたが、これはと思うような光景に出会うことがあまりなかった。絵になる風景がない、ということだ。86年に眺めていたような風景はもうない。
よほどの田舎にいかなければ、ワラチ(皮製のサンダル)をはき小さめの白いテンガロン・ハットをかぶった男たちや、白い街のよどんだ昼下がり、そのけだるさと共にある妙なほどの落ち着き、といったものはどこかに消えてしまった。でも、当たり前のことだ。経済が発展すれば、変わって当然だ。
昭和60年ごろの日本に20年ぶりに来て、「ああ、昭和40年ごろの光景はもうない」と外国人が嘆いたところで、「はあ?」というようなものである。
ただ、自分の中では、単に光景だけでなく、その明るさ、光までが薄まったように思えて仕方がない。それは、おそらく記憶の光景の方が、コントラストが強いせいではないかとも思う。自分で記憶を反芻するうちに、日差しはメキシコの写真家、マヌエル・アルバレス・ブラボーやティナ・モドッティのモノクロ写真の光のように極端なほど強くなる。
でも考えてみたら、こうした比較は科学的とは言えない。20年前といまを比べる場合には、観察者の目も同じでなくてはならないからだ。だが、それを見るレンズはすでに古び、曇ってしまっている。その曇りをクリアーにする補正係数のようなものがわかれば話は別だが。
くもりガラスの窓をたたいて
君の時計をとめてみたい
あヽ 僕の時計はあのときのまま
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東部の島イスラムヘーレスから
カンクンへ向かう定期船で、05年 |
この詩の主人公は青春の後期、つまりまだ青春の中にいるからこそ、「時計はあのときのまま」と主張するが、青春からはるか遠く離れた者も「あのときのまま」と言い切れるだろうか。
自分は「ノアノア」の残響の中でメキシコを思いながら舞い戻り、その音を探し求めている。でも、もうあるはずないのだ。
あの時代の空気。冷戦がいつ終わるのか、いや、そろそろ終わるのか、核戦争はもうないと言えるのか、といった微かな不安が影のようにこびりついていた冷戦末期。そういう時代状況も、メキシコの音や明るさに何らかの影響を与えたのかも知れない。
だが、それだけではない。やはり、ごく個人的なこと。25歳という、青春の目で見たものと、いまを比べることなどできないのだ。
20代の女性は言う。
「メキシコの音はアメリカと何も違わないと思った。親しくなったバーテンダーは、メキシコっぽい曲をかけたいんだけど、客が気に入らないから、かけられないと話していた。私はメキシコの曲が好きなんだけど」
でも、どうしてだろう。彼女には特別な直感があるのかもしれない。この国に「自由」を感じたと言う。
「ここはメキシコ。アイデトド(何でもあり)」
という言葉が口癖のように語られ、誰かが、明確に一つの意見を述べたり、未来について楽観、悲観してみせたりするときの
「キエン・サベ(誰がわかるの? 誰もわからない)」
という合いの手。
それが示しているように、底には善悪、功罪と、何に対しても二つの顔を認め、包み込んでしまうような自由さがある。彼女はそれを感じ取ったのだ。
加藤周一氏が60年代前半、初めてメキシコに来た印象をこうつづっている。
「メキシコは私を魅了した。(略)そこには米国とも、日本とも、全くちがう第三の世界があった。(略)私がそこで知ったのは多文化の共存する世界であり、視点を変えることによって得られる世界像の多様性である。そこでは日常生活の到るところに、暴力の影と心の温かさがあり、極端な豊裕と貧困があった。(略)私は日本のことを忘れ、日本社会のそれとはちがうメキシコの人々の行動様式、長い歴史と絡んでの習慣、スペイン人が破壊し尽くそうとして遂に破壊しきれなかった文化の深さを、できるかぎり理解し、できるかぎり味わおうとしていた」
(「『羊の歌』その後」の末尾、「旅の終り」より:『加藤周一セレクション5』平凡社ライブラリー、収録。97年初出)
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早朝、オアハカ市の石畳を歩いていく女性、05年 |
メキシコに対するこの印象、姿勢は、80年代の私のそれとも、21世紀の彼女のそれとも大きな隔たりはない。だとしたら、この両極性を許す自由さがまだこの国の深いところに連綿と生き残っているということだろう。
青春だったからそう見えた、というわけではないのかも知れない。
(一部敬称略、つづく)
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