冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。
新聞記者、ジャーナリストにとってインタビューはその仕事の大部分を占める。ただ、私が思うに、インタビューとはとても難しい情報入手の手段であり、これで十分だとか、完璧だったと思うことはまずない。いつも、消化不良のまま終わる運命にある気がする。
でも考えてみたら当たり前の話だ。そうでない場合もあるが、インタビューは大体が初対面同士の対話となる。しかも、大方の場合、わかり切ったことをあえて聞くことはない。例えば、「あなたの年収はいくらですか」といったデータだけを取るのならいいが、普通は、即答できない曖昧なことについて、言葉を重ねていくのがインタビューの主な目的と言える。つまり、インタビュアーは予想もしない言葉が出てくるのを待っているのだ。
ところが、初対面の2人の場合、言葉一つでさえ共通の定義を持ち合わせているとは言いがたい。例えば「自由」「民主主義」「左翼」「自己の責任」「色気」などという言葉をあげてみても、初対面の2人が同じ意味で使っていることはまずない。込み入った話をすればするほど、それぞれがどういうニュアンスで使われているのかを探り合うだけで終わってしまう。こうした理由から、インタビューはあまり生産的ではないと考える人も多い。
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カーニバルの行進を見に来た女の子 00年、ギニアビサウの首都ビサウ |
1997年、南アフリカの作家、J・M・クッツェー氏に初めて会い、一時間ほど雑談をした。原稿を頼みに行くのが主な理由だったが、私はそれまで読んでいた作品について感想を述べ、いろいろと質問をした。とても誠実に応じ、言葉を選んで話をする人、というのがそのときの印象だった。
ところが、当時クッツェー氏は、南アフリカのメディアで「極端なインタビュー嫌い、社交嫌い」と言われていた。実際、2002年にノーベル賞を受賞した際も、ストックホルムで開かれた受賞後の共同会見に一度現れただけで、インタビュー記事は一本もなかった。
クッツェー氏は、インタビューを嫌う理由を、Doubling the point(注1)という本の中でこう述べている。
通り一遍(casual)だったり、プロ意識に欠ける者も多い。中には好奇心や興味もないのにインタビューする人もいる。相手の本の表紙さえ読む暇もないジャーナリスト。他の人と会うのと同様、ちょっとついでに寄りましたといった学生たち。招待旅行でアフリカを周り、ついでにインタビューを試みる海外の学者たち。(「ところで、南アフリカの作家の役割とは何だと思いますか?」――など、言葉を発する前に予想できるつまらない質問)
(筆者訳)
ただ、いくら事前にその人について調べ、質問項目を細かく用意しても、必ずしもうまくいくわけではない。まったく相手のことを知らず何も用意していなくても、話が通じ合い、面白くて、気がついたら、お茶や食事をはさみ、初対面の人と10時間も話していたということもある。英語ではこれを単にケミストリー(化学)というが、多分、人間同士の交流は会話だけではないのだろう。「波長が合う」という言い方もあるが、それぞれが出し合っている波のようなもので、心地よくなることもあるのかもしれない。
ただ、クッツェー氏の場合、対話で何か真実を探るということにそもそも懐疑的だ。ジャーナリストは、裁判所の尋問、あるいは宣教師の審問、心理療法のように相手に言葉を吐き出させることで真実をつかもうとするが、氏はこれに異を唱える。
「私にとって、真実とは沈黙や述懐、書くという実践の中にあるものだ。語りは真実を生み出す泉ではない。それは、書く行為の青臭い一時的な亜種(バージョン)に過ぎない。判事やインタビュアーが言葉を引き出すために使う驚きの一突きは、真実を探るための道具ではない。それは、取引というものに根っから備わっている対立という武器だ」
対話からは、本質に近いこと、真実をあぶりだすことなどできない、と語っているように思える。だが、そうだろうか。
私は、アフリカで年配の人から何時間も話を聞く中で、ときに想像もできないような詩的な言葉に出合うことがあった。それは私にとって、今も宝のようなものだ。だから、吐き出される言葉のいくつかに、時に魂のようなものが込められていると察知したとき、それをさっと掴みとり、持ち帰るのが自分の仕事だと私は思うようにしている。
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『フロール』より Gatomonte:Mexico,1998 ©Flor Garduño |
振り返ってみて、完璧とはいえないが、それに近い経験が一つだけある。それはメキシコの写真家、フロール・ガルドゥーニョ氏(注2)とのインタビューだった。
テポストランという山間の町にある彼女の自宅で、2時間ほどの対話だった。
成功したと思うのは自分本位かも知れないが、そのときの記事(注3)に珍しく多くの好意的な反響があったからだ。多分、読んだ人にとっても私が感じたのと同じような、心に響くものがあったのだろう。
では、なぜ彼女とのインタビューがうまくいったのか。
それは、聞き手である私が彼女に心酔していたことや、インタビューの10年以上も前から何度となく、心の中で彼女に問いかけてきたからだろう。つまり、聞き手の中に真に聞きたいことがあったというのが大きい気がする。
私は普段、自分で人に質問をしていて、自分は本当にそんなことを知りたいのだろうか、などと思うことがある。それに、長いことインタビューを申し込んでいた政治家などから会見が許されて、初めて、はて、自分は何を聞きたいのだろう、と思うこともある。
特に今のように、多少間違いはあっても大体のことはインターネットや書籍で知りうる時代となれば、インタビューの意義は単に言葉での交流や情報入手ではなく、より原初的な、人と人との出会い、身近に触れてこそ感じ取れる何かに重きが置かれているように思う。
「フロール・ガルドゥーニョ」
私はアフリカで仕事をしていたころ、心の中で何度となくその名を呼んだ。
「フロール・ガルドゥーニョ。あなたなら、どうする? この光景を前に何を感じる? そして、どんな絵をつかみとる?」
驚くような、見たこともない光景を目にする度に、そんなことを呪文のように唱えた。
作家の卵が熱に浮かされたように「小説を書いてみたい」と思うのは、やはりいい作品に出合うときだろう。「こんなものを書いてみたい」あるいは「これは、まさに自分のことじゃないか」と思うからこそ、創造欲が生まれる。例えば、太宰治の『人間失格』を読んで、「これは、私のことだ。こんな風に自分のことを正直に書いてもいいんだ」などと思った人は結構いるんじゃないだろうか。そういう思いが、「書いてみよう」という気持ちをかきたてる。
私が、鑑賞と撮影の両面で写真に興味を持つようになったのは、フロール・ガルドゥーニョの影響が大きい。目の前の対象をどう見るか、あるいは写真や文章表現が人に与える影響について、彼女の作品から多くを学んだ。
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遠くの友人に合図を送る男性 00年、南アフリカ東北部の村、ミンガ |
ガルドゥーニョ作品に出合ったのは1992年のことだ。写真批評家の福島辰夫氏の杉並の自宅で初めて目にした。
1929年生まれの福島氏は、50年代に細江英公氏を見出したのをはじめ、戦後の日本写真界をけん引してきた一人といえる。福島氏と知り合ったのは偶然だった。91年暮れ、カムチャッカに暮らす写真家についての私の記事を目にした福島氏が、新聞社を通じて連絡してくれた。「一度会えませんか」という話になり、私は上京の折、渋谷の喫茶店で初めて会った。
それをきっかけに氏に写真や写真批評の教えを請うようになり、機会があれば写真集がぎっしり詰まった書斎に通った。
福島氏は50年代から国内の数々の写真家を世に紹介する一方、実際にパリでともに過ごした故人の写真家、エドバン・デル・エルスケンら海外の作品を展覧会や写真批評を通じて日本にもたらしてきた。私が出会った当時は、海外の学芸員や編集者から日本の写真史の執筆を頼まれていたころで、北海道開拓団が撮影した写真などについて論じていた。氏はそれまで私が出会った中ではおそらく一番といえるほど無私の人だった。
周辺に請われても、50年代から執筆したものをまとめて出版しようといった気は毛頭なく、常に欧米をはじめ内外の写真展を回り、新しい写真を見続けることに精力を傾けていた。そして、彼が良しとする新しい写真家をどうしたら日本で紹介できるだろうかということをいつも考えていた。それは写真に限らず、日本人の美術鑑賞の目を育てたいという啓蒙家としての思いもあったからだろう。
デパートや新聞社が主催するのは、ロバート・キャパやアンセル・アダムス、アンリ・カルティエ・ブレッソンなど、とりあえず人が集まる、使い古されたビッグネームばかりで、新しい現代の写真家を日本に紹介したいという熱意のある学芸員がほとんどいない現状を嘆いていた。
そのころ、福島氏は2年に一度、米テキサス州で開かれる「ヒューストン・フォト・フェスト」に学芸員的な役割で深くかかわっていた。その経験から、「いま、ラテンアメリカの写真家が面白い」とよく私に話してくれた。
そして、そのとき初めてチャンビ(ペルー)やセバスチャン・サルガド(ブラジル)とともに、フロール・ガルドゥーニョの写真をフォト・フェストのカタログで目にした。
「これが、いいですね」「あ、これは・・」
などと私が感嘆の声を上げるたびに福島氏は目を細め
「あ、そうね」「それね」
とページを止める手元を眺めて、私の反応を楽しんでいるようだった。語気を強めるということの決してない氏は、多くを語り解説するということもなく、おそらく、知識欲にあふれた、というよりも、美術鑑賞という点では空っぽに等しかった私に何かを伝播しようとしていたのだと思う。
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『時代の証人』より Canasta de luzSumpango, Sacatepequez, Guatemala 1989. ©Flor Garduño |
ラテンアメリカの先住民や農村を撮ったガルドゥーニョの作品集『時代の証人』が発表されるのは92年のことだが、日本に出回るのはまだまだ先のことだった。今も日本語のホームページを調べる限り、フロール・ガルドゥーニョの名が出てくるのは皆無に等しい。英語版で1000件もヒットすることから、内外でのその著名度の格差は相当なものだ。福島氏のおかげで私はその写真家の作品に、おそらく一番大事なときに出合うことができた。
写真というのは、ある面とても恐ろしい。私は福島氏の部屋で見たガルドゥーニョの作品の数枚をいまもはっきりと覚えている。そしてそれは、夢の中や普段ぼんやしている時、繰り返し現れる。その後、見よう見真似で写真を撮るようになったが、ときどき自分の写真で「お、これは」と印象に残るものがあったりすると、ガルドゥーニョ作品とまったく同じ構図だった、などということが何度もあった。
写真とは人にそんな効果をもたらすのだろう。荒木経惟の写真で私が好きなのは、『センチメンタルな旅』(1971)という初期のもので、20歳のころ、知人の家で目にした。新婚旅行のときの妻を撮った写真集の中に一枚、ボートに横たわる妻の写真があった。
そのときは何も気づかず本を放り出したが、その一枚だけはしつこいほど自分の脳裏に現れ、今もときおり夢や薄ぼんやりした覚醒時にぱっと現れる。そういう面で、写真は詩に通じるものがあるのだろう。人間の記憶の透き間に入り込む、理性では説明のできないおぼろげな存在。
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砂漠の中を微笑みながら通り過ぎる女性 97年、モーリタニアの首都ヌアクショット |
1993年にメキシコに留学した私は、グアダラハラの修道院の展覧会で、彼女の作品をまとめて見る機会に恵まれた。そのとき、修道院に何度も足を運び、なぜ彼女の作品がこれほど人を惹きつけるのかと考えてみた。
それは多分、対象が先住民であれ、農民であれ、女性の体であれ、その日常の中に、ともすれば見過ごしてしまうような他愛のない光景の中に、はっと光るものを見出し、それに一気に近づきカメラを構えるからではないだろうか。それが作り物のモデル撮影であれ、自然な瞬間であれ何であれ、彼女にとって手法や背景などどうでもいいことなのだ。
貧しさや惨めさ、彼女はそんなものを描きたいのではない。その点、やはり中南米を舞台にしたモノクロ写真を送り出してきたサルガドやマグナムフォトのアッバス(イラン)らとは決定的に違うところだ。例えば、紅茶の葉を摘みすぎてささくれ立ちギザギザになった労働者の手をそのまま真正面から写し「これを見よ」と呼びかけるのがサルガドの作品だとすれば、ガルドゥーニョのそれは、その手の脇に手のささくれとよく似た植物や置物などをあしらい、むしろ人間の部位をコミカルに描こうとするものだ。
アッバスとガルドゥーニョの比較論は95年に「インディオを視る」(月刊誌「詩学」掲載)というエッセイで取り上げているので、ここで詳しくは書かないが、偶然にも両者が80年代に撮った「インディオの眠り」を描いた作品に、違いが端的に表れてる。
アッバスは作品集『オアパンへの回帰』(1986)(注4)で、老いた農夫の眠りを写している。彼は地面にうつ伏せで眠り、その脇に似たようなガラガラのやせ犬が寝ている。そこにあるのは、何だろう。眠りの中でさえ惨めな老人の生。一目見て浮かぶのは、そんな言葉だ。一方のガルドゥーニョは『時代の証人』で、胸をさらして仰向けに寝る中年女のまどろみを描いている。彼女の脇にはその体の湾曲を模した、干したトカゲが2匹置かれている。トカゲの乾きが、女の艶や肌の光沢をより美しく見せ、観る者に彼女のまどろみの中、夢の中にあるものへの憧れをもたらす。
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南アフリカのヨハネスブルク近郊のソウェトで 98年 |
ガルドゥーニョが見ようとしているのは、まずは美しいものだ。そして、どこか滑稽なもの。本来、何のかかわりもない日常の二つの事物、人、動物が一瞬、重なったときを彼女は見逃さない。そういう一瞬に事物が互いに輝くことがあると信じているからだろう。
そして、美しいものは、彼女に言わせれば、どうしてだか失われゆくものの中にある。時代とともに流され消えゆくものの中に。それゆえ、彼女は先住民の写真をたまたま追いかけたに過ぎない。それは滅び、崩れ行くハバナを描くキューバの作家たちとも重なる部分だ。
「写真は風のよう」
と彼女は言った。それは一瞬にして向きを変え消えてゆく風を撮ること、ともとれる。その大きな風に吹かれ、地面とともに引き剥がされ、ひとりひとり消えていく世界。インディオたちの世界に目を向けたのは彼女の必然だったのかもしれない。
会見で面白かったのは、細部は別にせよ、私が何年も思い続けてきた問いに対する彼女の答えに、意外性や大きな驚きがなかったことだ。むしろ会見後、すべて自分が想像していた通りの答えだったとさえ思えたほどだ。それは自分の中にいる架空のフロール・ガルドゥーニョと語り合うことで、私なりに答えを見出してきたからだろう。そういう意味で、彼女は私の師であった。インタビューが成功したのは、“師弟間”の対話だったから、とも言える。
「禅のこころと同じ。何かをためすぎて、頭の中をいっぱいにして取り掛かってもうまくいかない。自分を空にして、欲を捨て、そして目の前のものに挑むの」
「私の時間は夜明けあとの15分と日没前の15分。その時間、淡い光ととも全てのものが輝くから」
少なくともこの2点で、私はいまも彼女の教えに従っている。
写真と同じように、私が彼女自身に惹かれた理由を、もう一人の師、福島辰夫氏が半世紀も前にうまく記している(注5)。
「(写真家の集団をおこした)1956年の時点で、われわれはお互いに仲間を見つけるのに、たいして手間どらなかった。(略)そして会って見ると、写真で判断しても、会って話してみても結局は同じことで、写真で感じられたことは、会って感じられることと見事に重なるのだった」
(敬称略、つづく)
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