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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 01 遠いパラダイス
藤原 章生
第1回 裏切りのアミーゴ

 冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

コロンビア西部、カリ

 ある男がこんなことを言った。
「お前はラティーノの本当の底の暗さがまだわかっていない」
 かれこれ10年あまり付き合いのある男が、一つの助言のつもりで吐いた言葉だ。私がいまのすみか、メキシコ市に暮らして半年ほどたち、空き巣に家中の物を盗まれたときの言葉だ。朝、短時間で家に入り込まれ、テレビ、コンピューター、カメラと何から何まで盗られ、半ば呆然としている私に彼は電子メールでこんな伝言を寄せてきた。
 そしてひとり推理を働かしたこの男は、その3カ月ほどの前に引っ越していった私の助手をまず疑った。30代半ば、子持ちの彼女が合鍵を、誰か盗みの専門家に渡して空き巣を働かせたというのが、彼の見方だった。しかし、彼はコロンビア人で、私の助手のことは何も知らない。それどころか彼はメキシコに来たこともない。
「多分、それはないと思うな」と答えると、
「お前はまだわかっていない」と言う。
 犯人はいまだにわからずじまいだが、男の問いかけには二つの大きなテーマが隠されている。ひとつは、民族と地域性をそう簡単に一般化できるのかという問題だ。ここで言うラティーノとは、ラテンアメリカに暮らす人間、広く言えばカリブ諸国も含めた中南米の人間を指す。ここでは、便宜上、ラテン人としておくが、米国や欧州、日本などに暮らす中南米出身者も含まれる。彼はそのラテン人を、“悪い”と断言する。だが、もちろん例外はある。悪くないラテン人もいる。
 何事も一般化は危険であり、それは本来、私が忌み嫌っているはずの民族のステレオタイプ像、あるいは偏見、先入観を助長しかねない。仮に「日本人はずるい」と言われても、もちろんそうでもない日本人もいる。しかし、「日本人はとにかく性根からしてずるい」という見方が一人歩きしてしまえば、嫌な思いをしたり迷惑をこうむる人もいるだろう。だから、民族の定義も境い目も薄まりつつあるいまの世の中では、できればこうしたステレオタイプ像は排除した方が良い。

コロンビア南西部、ハムンディ

 数年前、南アフリカの英国系白人とアフリカーナー系と呼ばれるオランダ系の土着白人の対立についてある作家に聞いたとき、彼は一言で片付けた。「それはステレオタイプの問題ですから」。英国系は、鉱物資源など国の経済を一手に握りながら、人種政策の問題をアフリカーナーに押しつけているのではないか、という私の質問に一言、彼はそう答え、それ以上、話を進めようとはしなかった。つまり、私の問いかけそのものに、ステレオタイプ的な見方があり、問いかけそのものが本来の南アフリカの白人同士の対立とは、別の次元の問題だと、彼は言いたかったのだろう。
 当時私の中にこうした偏見が生まれた理由はさておき、ここでは話を男のラテン人観にもどそう。ただ、その際、話をわかりやすく進めるため、「ラテン人」「日本人」などと一般化してしまうのはやむを得ないと断っておく。
 男の発言に含まれたもうひとつのテーマは、「ラテン人は自らを信用していない」という傾向だ。自らの根に常に何らかの悪が隠されているという自意識が彼らにはある。よくメキシコ市の人間に言われるのは「なぜ、こんなところに暮らしているんだ」という言葉だ。彼らの中にも、やはりステレオタイプがある。
「知性があり勤勉でナイーブな日本人」がなぜこうした怠惰で野蛮で物事がスムースに進まない社会にわざわざ暮らしているのかという素朴な疑問があいさつ代わりのように口をついて出る。つまり、彼らはどこかで自らの性格、国民性のようなものに慣れきってはいても、見慣れない外国人を目にすると、「こんなところに」とつい口走ってしまう。それだけ、私を含めた外国人がナイーブに見えるということだろう。ここで言うナイーブさとは、騙されやすい、世間知らずというラテンの都市では極めて否定的な意味合いだ。
 ラテンアメリカのイメージとして、根っからの陽気さ、楽天性というものがある。ブラジルの貧しい人々が、一年間働いてためたお金を3、4日のカーニバルで着飾るために使い果たす行事が、その例証としてよく取り挙げられる。あすの暮らしは考えない。きょう、いまが幸せならそれで構わない、という感覚は恋愛や酒、麻薬、踊りで酩酊状態になったときなら誰しも、一瞬頭をよぎるものだろう。
 ただ、それがこのラテン世界では都市から地方までまんべんなく広がる日々の感覚としてある、とよそ者は考えがちだ。私も当初はそんな風に考えていた。スペイン語もままならない状態で、この地を初めて旅行した80年代の半ば、むしろこうした楽天性に魅せられ、この地ととことんつき合ってみたいという思いに駆られたものだ。ところが、こうした人生観の裏に、実は巧みなずる賢さ、男の言う「本当のラテン人の底意地の悪さ」が隠されているのもひとつの現実なのだ。
 同胞がしかける嘘や罠、詐欺めいた行為で多かれ少なかれひどい目にあっているラテン人たちは簡単に人を信用しない。同胞だからと肩を抱き合い、アミーゴと呼び合ってもどこかで相手を疑っている。

コロンビア北部アラカタカ

 日本人は旅先で同胞の姿を見かけると、却って目を避けたりする半面、どこかで「まあ日本人だから」と信用しているところがある。米大陸の日系人の集まりが昨年、国を越えたビジネスネットワークづくりを始めた。その主催者も「やはり日系人同士という信用に代わるものはない」と話していた。この感覚も、どこかに日本人の同胞意識に似ている。  西アフリカ、ナイジェリアの少数部族、イチェケリ出身の通信記者、キングズリー・クベインジェは以前、「俺は知らない町に行けばまず、どこにイチェケリの人間がいるか探す。全幅の信頼は置けなくても、ある程度は信頼できるから」と話していたが、こうしたアフリカにありがちな感覚をあえて「部族意識」と呼べば、日本人同士の妙な信頼関係も「部族意識」に近いものと思える。日本人の「部族性」についてもおいおい触れるとにして、ここでは話を先に進める。
 サッカーや祭りで国民が一体感を、民族主義のようなものを確認しあう一方、ラテン人たちは肩を組んだすぐ脇の人物の底意地の悪さをどこかで疑っている。アフリカに暮らしていたころは、人間同士の密な関係、つまり友情や友人といった言葉をしばしばコラムなどで使ったものだが、ラテン世界に暮らし始めてから、むしろ避けるようになった。多分、友情などと呼ばれるものは、一つの状態に過ぎず、長く続く関係性ではないと思い始めたからだろう。ほんの些細なきっかけで消え去ってしまうものなら、あえて、ひけらかす必要はない。自分の勝手な感情で時にふくらみ時にしぼむ、そんな感覚など、どこか胸の中にでもしまいこんでおけば良い、と思うようになったせいだろう。
 ところが、このラテン世界では、あるラテン好きの日本の知人が「アミーゴ○○」などとペンネームをつける位、「友情」が大安売りされている。ちょっと知り合った位でもうアミーゴである。

コロンビア北部、カルタヘナ

 あるときこんなことがあった。コロンビアからメキシコに戻ったとき、私のカメラがなくなっていた。後に記憶をたどると、空港に着いた際、カメラはバッグの中に確かにあったため、税関で巧みに抜き取られたという結論にいたった。だが、あわてていた私は前夜、パーティーを開いてくれたコロンビアの知人の家にまず電話を入れた。すると、地方官僚をしているその男、カルロスは間髪をいれずこう答えた。
「多分、ホルヘの仕業じゃないか。あいつ、いつも金に困ってるし、一緒にいた友人の運転手も昔から手癖が悪い。だけど、取り戻すのは慎重にした方がいい。本人は絶対に認めないだろうから」
 ホルヘというのは、カルロスと同じく私が10年ほど前から知っている技師だ。そしてホルヘはカルロスの20年来の「友人」でもある。互いに、アミーゴと呼び合う関係だ。そのホルヘに電話を入れると、少し慎重ながら、言い憎そうにこんな推理を働かせた。
「前に辞書をカルロスに貸したら、失くしたといって返してくれなかった。でも、別の日に行ったら本棚の一番目立たない隅に裏返しにして置いてあった。まあ長年の友人だから疑いたくはないが、状況からみてカルロスだろう。欲しくなるとつい手が出る。病気みたいなものだ。でも、それを友人に使っちゃあ、だめだ」
 こうも簡単に相手を疑う友情関係とは何だろう。それは、そのときの私の感覚からはとても友情と呼べるものではなかった。彼らに対する疑いが晴れるまでのほんの短い間だが、私は気が滅入り、普段はそんなことをしないのに、空ばかりながめていた。
 ラテン人はすぐに同胞を疑う。それをまるでカムフラージュし表面的に陽気なつきあいを続けるために友人という言葉をしきりに使いたがるのではないだろうか。それでいて、人の悪さも確信犯的でないため、アモール(愛)という言葉と同じく、どこかアミーゴという響きに酔っているようなところもある。
 男が言うようにラテン人が悪いとしても、それを悪いラテン人自身が言い募るところにも何か胡散臭さを感じる。クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。ではクレタ人は嘘つきか、という例のパラドックスに近い言いようが、そこにはある。
 では、その悪を認めたとして、ラテン人の悪さはどこから来るものなのか。これにはメキシコの詩人、オクタビオ・パスをはじめさまざまなラテン人が説明を試みている。次回は、その点に触れてみようと思う。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。 北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。

主な著作:
『世界はいま
どう動いているか』

(共著、岩波ジュニア新書)

世界はいまどう動いているか

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