「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。
高野悦子著『二十歳の原点』より
二十歳のときに『二十歳の原点』を読んだ。当時、私は京都の大学生で、ほかの地方の学生がどうであったかは知らないが、それは、京都の学生ならば、多分、誰もが読んだ一冊であった。
高野悦子の日記で全国に知られることになった喫茶店「シアンクレール」は、私の通っていた大学からそう遠くはないところにあって、私は、暇さえあれば、というよりは、有り余る暇をもてあましては、その店に通い、高野悦子が耳を傾けたかもしれないジャズやクラシックを聴きながら、大学ノートに向かっていた。
70年安保闘争の渦中に立命館大学に入学し、学生運動に青春を翻弄され自死を遂げた高野悦子は、私より12歳年上だった。私が大学に入学したときには、学生運動の大火は遠い過去へと霧消しつつあり、残り火が微かに燻っていただけだった。キャンパスには、ゲバ棒を肩に担いでヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠した少数の人たちが珍しくもなかったが、その姿は、安保闘争を知らない「新人類」と呼ばれた世代に当たる80年代の学生の目には、時代に取り残された化石のように映った。
たった10年の違いで、時代も大学も学生もまったく変わってしまってはいたけれど、高野悦子の死は、当時の私には、風化されていない十分に生々しい出来事だった。高野に起こったことは、いつ自分に起きても不思議ではない。そう感じながら、シアンクレールで高野が日記に記したのと同じようなことを(表現は高野悦子には遠く及ばない未熟で幼稚ではありましたが)綴っていた。「私は独りである」「未熟である」「もっと勉強を」「もっと本を」…。
自分は未熟であり、もっと勉強をしなければいけない。そう思いつつ、何を勉強すれば未熟ではなくなるのか見当がつかずに、勉強するということがどういうことかも分からずに、悩むだけで何もせず、徒に時を過ごしていた。親から経済的に自立するため、アルバイトに明け暮れた。『二十歳の原点』の中には、確かに、等身大の私の姿があった。だから、それを他人事と思って読むことはできなかった。高野悦子の苦悩は、私の苦しみでもあった。
高野自身が書いているように、『二十歳の原点』の高野悦子は、気の毒なほど未熟である。それは、高野一人が未熟であったということではなくて、二十歳という年齢の未熟であり、学生運動や社会主義革命がファッションであった時代の未熟であろう。
思想というのは、織物のように多くの糸で紡ぎあげられなければならないものなのに、高野の思考には読んでいて恐ろしくなるほど一本の糸しかない。安保闘争や大学紛争の問題を突き詰めるのも、恋愛や性愛への憧れや不安も、京大生に劣等感を持つと同時に中卒や高卒の労働者に優越感を持つ自分を見つめる目も、すべて「階級闘争」という一つの糸に絡め取られてしまっている。人間の存在は、それがどのように強い糸であっても一本の糸で支えきれるほど軽いものではなく、あのように一本にしがみついて真面目に自身を突き詰めていけば、切れるしかないのは自明のことであった。高野の死は、未熟で真面目すぎる若者が、革命を信じることなしには、真摯な人間としての誇りを持つことが出来なかった嵐のような時代に、押しつぶされた死であったのではなかろうか。
四半世紀ぶりに『二十歳の原点』を再読したら、季節の変わり目に古傷が痛み出すみたいに、当時の苦悩が蘇ってきて、少し後悔する気持ちになった。驚いたことに、その痛みは、記憶の中に刻印された痛みではなく、まったく癒されてはいない、今も生き続けている私の痛みでもあった。私は未熟である。私は独りである。もっと勉強しなくては。それは、20歳のときから40代の半ばになるまで、私がずっと思い続けていることである。私は、あの頃からまったく変わっていない。その現実を、20歳の高野悦子に、突きつけられたような気がしたのである。二十歳での死を選ばずにその後を生き延びてきたお前は、この25年間、いったい、何をしてきたのか、と。
もちろん、私は、わが身を保ち、豊かに耕すために多くの糸を結ぶ努力はしてきた、と思う。だからこそ、生き延びてくることが出来た。しかし、同時に、それがしっかりと紡がれてはおらず、美しい織物とはなっていないことを認めないわけにもいかない。
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岩本 宣明
1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。
主な著作:
『二十歳の原点』
高野悦子著
(新潮文庫)
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