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Series コラム
名著との再会 岩本 宣明
06/01/31

第6回 『変身』

一冊の本との出会い…。同じ本でも、いつ、どこで、どのような状況で読むかによって、受け取るものは違ってくる。時を経て、再びその書物を手にしたとき、今度はまったく別のものを見いだすこともある。岩本宣明氏が、かつて読み、心に残った名著との再会を通じてその魅力を紹介する。

『変身』
 フランツ・カフカ著
 高橋義孝訳
 新潮文庫

 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。彼は鎧のように固い背を下にして、仰向けに横たわっていた。

『変身』(1966年改版)より

 19世紀末から20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国に生きたフランツ・カフカの『変身』は、あまりにも有名な作品である。最後まで読んだかどうかは別として、カフカの名前と、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたという、冒頭部分の衝撃的な設定ぐらいは、知っている人が多いのではなかろうか。
 私が高校生だった1970年代の後半には、『変身』は夏休みの課題図書の定番で、多くの高校生が、新潮文庫の黄土色のおどろおどろしいカバーを手にしたはずである。『変身』は人気の高い課題図書だった。
 人気の秘密は、おそらく、その薄さにあったのではなかろうか、と推測する。他の課題図書、例えば、漱石の『こころ』やドストエフスキーの『罪と罰』などに比べ、『変身』は、あまり読書が好きとは言えない高校生には、思わず手にとって頬ずりしたくなるほど、魅力的なまでに薄かったのである。
 しかし、そのような動機で『変身』を手にした高校生は、数頁めくるだけで困惑しなければならなかったはずである。でも、まあ、課題図書だから途中で投げ出すわけにもいかず(賢明な高校生ならば、2、3頁で諦め、別の本にするという軌道修正をしたはずだが)、最後まで読んで、一層途方にくれたことであろう。『変身』を読んで、いったい、読書感想文に何を書けばよいのか?
 締め切りを勘違いしていて、あわてて、その薄さに惹かれて『変身』を二十数年ぶりに読み返した私も、かつての高校生と全く同じ気分である。途方にくれた。いったい、どのような「名著再会」を書けばよいのか??
 冒頭に紹介したように、『変身』は、没落した一家(両親と妹)の生活を支えている外交販売員(それなりの収入を得ている)が、ある朝、自室で目覚めると、巨大な毒虫に変わっているのを発見する、という非現実的な設定で始まる。初めて読む読者は、冗談なのか、暗喩なのか、後でどんでん返しがあるのかと、困惑気味に頁を追わなければならない。が、それは冗談でも暗喩でもなく、その後の経過は、日常の出来事として淡々と報告されていく。
 多くの読者は、私もだが、ここで途方にくれる。ある朝、目覚めたら虫になっていた、というような事実(であるはずはないが、物語上の事実)であるならば、途方もなく衝撃的な出来事なのに、なぜ、グレゴールが虫にならなければならなかったか、ということについて、カフカは何の説明も与えないのである。小説を読み通せば、なんらかの答えが得られるというのでもない。どんでん返しがあるわけでもない。そのような、物語のあり方に、私たちは途方にくれる。因果応報という言葉があるように、目が覚めたら虫になっているというような出来事には、そのような目に遭わなければならない何か特段の理由があるはずであって、その原因を示してくれなければ、感想文を書けと言われても、困ってしまうのである。
 しかし、先回りして言ってしまえば、それが不条理である。不条理に理由はなく、理由がないから不条理なのである。そして、世の中は実は、因果応報などとは簡単に説明してはいけない、不条理な出来事で満たされているのであって、それを、単調で退屈な物語で見事に表現したのが『変身』なのであり、それがこの作品の魅力である。
 それにしても、と思う。主人公のグレゴールにしても、その家族にしても、ある日突然自分や息子、兄が虫に変身しているという不条理を、それが、あたかも、驚天動地するには及ばない、どこにでもありえる出来事であるかのように、すんなりと受容しているのはなぜなのか? ある朝、虫になっていたことよりも、それに「パニくる」こともなく、淡々とその宿命を受けていることのほうが、よほど衝撃的である。

フランツ・カフカ
(1883年7月3日 − 1924年6月3日)
詩人、小説家

1883年、当時、オーストリア・ハンガリー帝国の都市だったプラハで宝石商を営むユダヤ人家庭に生まれる。公用語はドイツ語で、教育もドイツ語で受けたため、作品はドイツ語で発表している。家庭は西欧的な同化ユダヤ人だったため、カフカは青年期まで自分をユダヤ人と意識することはほとんどなかったという。
プラハ大学で法学博士号を取得した後、地方裁判所の研修を経てベーメン王立労災保険局に勤務。表面は平凡な市民生活のうちに一生を過した。
1924年、結核のためウィーン近郊のキールリングで没した。享年41。
不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品により、生前より名声を得ていたが、死後の1958年、友人の編集した全集が刊行されるや、サルトルらに絶賛され、世界的なブームとなった。
『変身』の他に、『城』『審判』などの代表作がある。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

変身

『変身』
フランツ・カフカ著
高橋義孝訳
新潮文庫

変身

黄土色の表紙だった
『変身』の旧版

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