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Series コラム
名著との再会 岩本 宣明
05/08/31

第1回 『ジャン・クリストフ』

一冊の本との出会い…。同じ本でも、いつ、どこで、どのような状況で読むかによって、受け取るものは違ってくる。時を経て、再びその書物を手にしたとき、今度はまったく別のものを見いだすこともある。岩本宣明氏が、かつて読み、心に残った名著との再会を通じてその魅力を紹介する。

『ジャン・クリストフ』
 ロマン・ローラン著
 豊島与志雄訳
 岩波文庫

 彼はもう生きてることができなかった。いく時間も窓にもたれ、中庭の舗石を眺めながら、幼いころのように、生の苦しみをのがれる道が一つあることを、思い耽っていた。そこに、眼前に、直接に、慰謝があった。

『ジャン・クリストフ』を読んだのは、十九歳のときだった。そのとき、私は大学受験浪人中にも関わらず、もう何もかも厭になって、受験勉強を投げ出して、放浪していた。
 十九歳の青年が何もかも厭になって放浪するのだから、その訳は失恋と相場は決まっている。私の母が大叔母に語ったところによると、私は「恋愛に命を懸ける」子供だったので、失恋があまりにも辛くて、受験勉強どころではなくなってしまったのだった。
 失恋して、何もかも厭になって放浪しているのだから、悲しくてくよくよしている以外何もすることはなく、仕方がないので私は本ばかり読んでいた。一瞬の間でも、辛いことを思い出さずにいられることが、何よりもありがたかった。
 私は、自分が世界で一番不幸であることを疑っていなかった。もの凄く無知で想像力に乏しく愚かだったから、こんなに苦しい思いをしたことがある人は世界中どこを探してもいるはずがない、誰もこの苦しみを分かってくれるはずなどないと思い込んで、誰とも会わず、誰とも話さず、一人孤独な日々を過ごした。青春である。
 そんなとき、『ジャン・クリストフ』を読んだ。読みながら、私は大笑いした。おかしくておかしくて堪らず、ゲラゲラと、大声を上げて笑ったことを、昨日のことのように思い出す。
 そこには、私の悲しみのすべてが書いてあった。悲しみばかりか、悲しみに至るまでの、幸せな時間や、その幸せな時間に至るまでの不安や畏れや、ドキドキとした気持ちまでも、私の恋愛が、余すことなく正確に描かれていた。私が失恋して死にたくなって旅をしていたのが一九八〇年、ロマン・ローランが『ジャン・クリストフ』を書いたのは一九〇四年から一二年にかけてのことだった。
 自分は一人ではないのだ。ぼくとおなじ悲しみを悲しんだ人が七十年も前にいたのだ、という発見は、もちろん、それで失恋の痛手が氷解したということでは全然ないけれど、私の傷ついた心を慰めてくれた。今思い出しても、両手を合わせたいほど感謝に堪えない。
 あれから二十年以上もたった今、私は、その悲しみがロマン・ローランと私だけの悲しみではないことを知っている。無駄に馬齢を重ねただけではなかったのである。目出度いことだ。
『ジャン・クリストフ』を読み返してみて(パラパラとですが)、あの饒舌なロマン・ローランが、失恋の悲しみについては、とても簡潔に書き記していることに、とても驚いた。私の印象では、十九歳の私がとてもくよくよ悲しみに耽っていたように、ロマン・ローランもその悲しみについて饒舌の限りを尽くしていたと思い込んでいたのである。長年一緒に暮らした仲のよい夫婦とか、仕事のパートナーなんかが、一言で互いの気持ちが分かり合えるのと同じで、ジャンと同じ悲しみを悲しんでいた当時の私には、ロマン・ローランの一言で、すべてを知ることができたのに違いない。その悲しみを遠い思い出としか実感できない今は、失恋についての想像力が足りなくなってしまっているので、とても物足りなく感じてしまったりするのだ。だから、失恋の痛手に悲しんでいる若い人に「時間が解決してくれるよ」などと、お気楽なことをつい口走ってしまって反省しなければならないのである。
 本には刺激と慰めがある。初めて訪れた国の町を目にした驚きや新鮮さのように、自分が全く知らない世界のことを教えてくれる刺激。それから、同じような悩みを悩み、同じ苦しみを苦しんだ人がいることを知ることで、自分は一人ではないのだ、ということを優しく包み込むようにそっと知らせてくれる慰めだ。それは、刺激を与えてくれる種類の本と、慰めを与えてくれる種類の本が別々にあるということではなく、一冊の本が、いくつのとき、どこで、どのような状況で読むかによって、刺激になったり慰めになったりするのである。そのような本こそ、生涯の友となる価値ある一冊である。『ジャン・クリストフ』には、失恋のことだけではなく、一人の高潔な魂の生涯を通して、人生の何たるかの全てが書かれている。
 『ジャン・クリストフ』を勧めてくれたのは父であった。生意気盛りで、父が勧める本など読んだことがなかったのに、なぜか、そのときは全八冊
(注)を手に取った。そのときは思ってもみなかったけれど、父もまた、当然のこととは言え、失恋の何たるかを知っていたのであろう。

ロマン・ローラン Romain Rolland
(1866年1月29日 − 1944年12月30日)

1866年フランス中部の町クラムシー生まれ。父は公証人。パリ高等師範学校で歴史を専攻。ローマ留学を経て母校の教授に。1903年発表した『ベートーベンの生涯』で名声を得る。1904年からパリ大学で音楽史を担当。1904年から1912年にかけて執筆したベートーベンをモデルとした大河小説『ジャン・クリストフ』などの作品により1915年ノーベル文学賞を受賞。他に『魅せられたる魂』などの作品がある。
人類の自由と平和、調和を理想としたロマン・ローランの作品は、日本を含む世界の文壇に大きな精神的影響を与えたと言われる。

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PROFILE

岩本 宣明

1961年生まれ。毎日新聞社会部記者などを経て93年文筆家として独立。同年、現代劇戯曲『新聞記者』で菊池寛ドラマ賞受賞。

主な著作:

新宿・リトルバンコク

ジャン・クリストフ 全4冊

『ジャン・クリストフ』 全4冊
ロマン・ローラン著
豊島与志雄訳
岩波文庫

(注)
岩波文庫版の『ジャン・クリストフ』は従来8分冊だったが、1986年6月に4分冊にあらためられた。

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