風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
10/03/31

最終回 裸の王様-政治と言葉

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 And so, my fellow Americans… ask not what your country can do for You・・・Ask what you can do for your country.

「わが同胞のアメリカ人たちよ、あなたの国があなたに何をしてくれるかを問わずに、あなたが国のためになにをすることができるかを問うてください」

 これは、1961年1月20日、アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディが行った大統領就任演説のなかの有名な一節である。昨今の日本の政治の迷走ぶりと政治と国民との関係を見ると、この言葉を思い出す。

国民をお客様扱いする政治家

 十数年前、私がワシントンDCに滞在していたときのことだ。激しい雷雨があり、その直後友人が運転する車でDC内に繰り出した。しばらくすると雷で信号機が故障したのだろう、渋滞する交差点にさしかかった。のろのろと進む車の列の先を見ると、路上でビジネススーツにサングラスをかけた女性が、右往左往する車を誘導している。
 彼女はどういう人で、なぜそんなことをしているのだろうか。そう思ってしばらく進むと、また、別の信号故障の現場では、ジーンズ姿の若い男性が同じように交通整理をしている。別のところでも似たような光景を見てようやくわかったのだが、なんてことはない、彼らはただ混乱を避けるためボランティアで交通整理をしていた普通の人たちだった。
 このとき私は、当たり前のことながらなにか新鮮なものを見た気がした。と、同時に日本社会で同じ事態を迎えたら、同じような光景が見られるだろうかと疑った。きっと警察官や消防隊員がくるのを待ってしまうのではないだろうか。そしてなかなか彼らが現場に来なければ、「何をやっているんだ警察は」と、渋滞を前にハンドルを握りながらただ文句を言うかもしれない。
 お上がしてくれるのを待つ、別の見方をすれば、お上のお墨付きなしに勝手に個人が、お上に代わってなにかをすることは控えた方がいいという考えがある。これに対して、ワシントンでの光景は、自分たちが困っていたらまずは自分たちができる手段で解決すればいいという、個人も行政(お上)も平等な位置にあることがわかったから清々しく感じたのだった。

 こうした問題に立ち会ったときに、自分たちの問題として自発的にとりくむ。半世紀前に、ケネディは、この精神を強く国民に求めた。
 なぜこのケネディの言葉を思い出したかと言えば、国こそちがうが日本の政治と有権者との関係が、ケネディが国民に求めた関係とはずいぶんとかけ離れたものに思えるからだ。

 基本的に国民が自発的に問題を解決していこうという姿勢があることが、民主主義国家にふさわしいのは言うまでもない。ところが、日本の政治は国民の自発性を促すというより、国民をお客様扱いしているような気がしてならないのだ。商売人が市場調査をもとにお客の反応を確かめ、また、お客の顔色をうかがっているようなところがある。
 これは政治だけではないのかもしれない。教育・学校というこれもまた市場原理になじまない領域にも、子供や保護者をまるでお客様のように扱っている気配がある。消費者のなかに無謀な要求を振りかざすクレーマーが登場するように、学校にもなにかを要求することを当たり前のように思っている人たちが多々登場している。

無料化よりも優先すべきこと

 政治の話に戻れば、いまの政権に限らず日本の政治は国民に一緒になってなにかを社会の公共の利益のために作り上げようというメッセージを送ってきただろうか。
 先の総選挙でのマニフェスト・公約を競うさまは、まるで家電量販店のチラシ合戦のようでもあり、有権者の方にもどっちに入れれば得かしら、といったような反応があった。こうしたいわば庶民の損得勘定に訴えるような、そして有権者をお客様のように扱う政策とも思えるのが、子供手当の支給、高校の授業料の無料化、高速道路の無料化である。
 あれだけの人材が集まって作った政策なのだから、その正当性については十分な理論武装がされているのだろう。しかし、その理論は一般にはあまり伝わってこない。子供手当については、景況の悪化で収入が減ったり、雇用が不安定になるなかで、「助かる」という家庭の声は十分理解できる。しかし、所得制限を設けることは難しいようだし、果たして親に直接渡ったお金が、子供のためになるのかは疑問がある。子供への虐待は極端な例だとしても、残念ながら手にしたお金が子供ために使われない例が多々出るだろうことは十分予想がつく。
 消費者金融の返済やパチンコの金に使われることもあるだろう。消費者金融やパチンコの広告の盛況ぶりをみれば、その可能性は大である。また、普通の生活をしながら給食費を滞納する親たちもいることを見れば、親が子供を守ることができない家庭は現実に存在するのだ。
 これは子供の責任ではないのはいうまでもなく、こうした子供たちを守るのが社会の役割であり、それを支えるのは国である。順番から言えば、児童養護施設など、児童福祉の分野を充実させることが先だろう。そして次に、こうした現金支給より、その資金で保育園の整備を進めて母親が働きやすい環境を整え、自力での安定収入を確保する政策をとったり、労働基準法違反が蔓延する職場環境を改善させることの方が先決ではないか。子供を預ける保育園が見つからずに、仕事を控えているといった例は数限りないのだ。

 つぎに高校の授業料の無料化だが、いかにほとんどの人が高校へ進学するといってもそれは義務教育ではない。自ら進んで学ぶわけで、学ぶ気力がなければ進学せずに働くのが筋である。そして、また学びたくなったら学校へ戻ればいい。
 ただ、なかには家庭の事情で、授業料が払えない生徒もいる。実際地域によっては、授業料を免除してもらっている家庭はそれほど特殊ではない。従って、学ぶ意欲がある程度あって、経済上の理由から進学を諦めざるを得ない、という生徒には免除の特例を設けるのはいいだろう。だが、一律に無料化するのは乱暴だ。
 ただなんとなく高校へ行く、働くのはいやだし・・・、といった生徒やその保護者のために、なぜ税金が使われなければならないのか、理解に苦しむ人は多いだろう。高校は自ら選んで行くものだし、無料化はその自覚も薄れさせることにもなり、ますます子供たちを幼児化させ、親の自覚も損なう。これでは、逆に子供たち自身が社会性を身につけられないという点で不利益を被ることになる。
 高速道路の無料化では、国の財政危機を憂う国民の方が、無料化による歳入の減少を心配したりしている。緊急な課題ではないという声も大きい。だとすれば有料化による歳入をほかのところにまわすという柔軟な対応も検討できるはずだ。

"裸の王様"になってしまった日本人

 これらの政策に共通して言えるのは、優先して実行されるべき政策かどうかという疑問だ。優先順位としてもっと上位にくるべき政策があるのではないか。崩れかけた年金制度の立て直しや圧倒的に施設不足の高齢者介護問題などへの取り組みである。このほか、長年国策に翻弄されてきた八ッ場ダムをはじめ全国のダム開発の見直しに際しての徹底した補償や、おなじく長年負担を強いられてきた沖縄の基地問題の解決である。
 これら、自民党政権下では変化を期待できなかった問題を切り崩していく新鮮な力がまずは新政権に期待されたのではないか。マニフェストが支持されたから政権を奪取できたというのは思い違いも甚だしい。それが証拠に、政権支持率が下がっても、政権交代の実現自体に対しては、それをはるかに上回る国民の支持がある。
 もうひとつ、これらの政策に共通するのは、結果として国民をお客様扱いするという点である。国民や有権者という存在は、民主主義では絶対的な価値をもち、政治家をはじめマスメディアでもほとんど批判はしない。国民が間違っている、有権者がアホだから、などとは絶対に言えない。しかし、国民が間違った選択をすることや、人気取りの政治に流され、一歩間違えば衆愚政治に陥る危険性は常にあるのは歴史が証明している。
 当たり前のことながら、国民も政治家と同じく、間違える。しかし勇気をもって「有権者は間違っている」と批判できる政治家やマスメディアはほとんどいない。その結果、国民、有権者、あるいは大衆といわれる顔なき無数の人たちは、いつのまにか“裸の王様”になってしまった。
 この王様は、あるときは教育の現場で保護者として、あるときは消費者として、そしてあるときは有権者として、利己的な行動をとる。そして、政治はまるでビジネスのように、この王様をうまく扱おうとする。しかし、これは見方を変えれば、対等に扱っていないことにもなる。

政治家は、もっと対等な呼びかけを

 昨年秋、民主党政権が誕生し、鳩山首相は国会での所信表明演説のなかで、弱者や少数派に対しての配慮を強調し、「・・・友愛政治の原点としてここに宣言させていただきます」と強調した。このコラム「鏡の言葉」のなかで再三にわたって取り上げた「~させていただく」という表現の一例として紹介したのだが、冒頭にあげたケネディの言葉と比べると、国民へ呼びかける力強さという点では雲泥の差がある。
「~させていただく」という「はやりの表現」を使っているに過ぎないという見方もできるが、そのはやりの表現自体がもちろん社会を反映している。閣僚の発言を聞いても「~させていただく」のオンパレードだ。ほんとうに尊敬の念をもち許可を得る必要がある事柄なら「~させていただく」もいいだろう。が、どこか自信がなくへりくだっている感がある。それは誰に対してかといえば、われわれ裸の王様に対してである。
 弱者や少数派への配慮は大切だが、その弱者や少数派をも含めて、広く一緒に社会を作っていこうという能動的な姿勢に欠ける。

 もういい加減へりくだるのはやめたらどうだろう。お客の顔色をうかがうような姿勢をとるのはやめたら・・・。大げさなことを言うようだが、政治家が「~させていただく」などと言っているうちは、世の中は変わらないだろう。言葉は社会の鏡であり、個人の思想の鏡である。
 政治家は、われわれに対等に堂々と呼びかけてほしいし、われわれ大衆は、裸の王様として何かを要求するのではなく、政治家と対等の立場で公共の利益のためとなることを率先して、行えるようになりたいものである。
 この原稿を書く直前、アメリカ各地を取材で回って耳にしたなかに気になったことがあった。アメリカ人のなかに他人に対する、それこそ友愛の精神が薄れてきて、自分の利益のことばかり考える姿勢が目立ってきたというのだ。
 ケネディの言葉と、現実のアメリカ社会とはだんだん離れてしまっているのかもしれない。しかし、というかだからこそ、アメリカの後を追ってきた日本は、その言葉の意味をいま噛みしめる必要がある。妙な言い回しで王様に対してではなく、同じ仲間が仲間に対してまっすぐ対等に呼びかける。そいう政治と国民の関係になれないものだろうか。(終)

BACK NUMBER
PROFILE

川井 龍介

 
PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて