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Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
09/11/30

第10回 傷つきたくないから「もらっていいですか」?

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 先日、ある金曜日の朝、新幹線で東京から神戸へ向かった。「のぞみ」に乗ってあらかじめ予約しておいた三人掛けの窓側の席に座る。前夜ほとんど眠ってなく、ゆっくり眠ろうかと思っていると、斜め後ろから声が届いた。
「すいません、ちょっと、座席、直してもらっていいですか」
 来たぞ。「~もらっていいですか」だ。このコラムを書き始めてから、内容よりも言葉遣いがまず気になってしまう。声をかけてきた若者は、私の後部の座席を回転させるために、私がリクライニングで倒している背もたれをもとにもどしてほしかったのだ。嫌だという理由もないのですぐに直すと、座席を向かい合わせにして、それ以後延々京都まで、向かい合った男女6人の若者は平日朝の静かな新幹線の車両で、かなり気に障る大きさの声で話し続けた。
「もう少し、静かな声で話してもらっていいですか」
とは言わなかったが、妙ではあるがそれなりに気を遣った丁寧語を使うのだったら、もう少し態度をなんとかしてほしかった。
 ふつうのいまの若者は周りの反応をとても気にしながらコミュニケーションをするということは以前も書いた。態度はともかく、この気にしたり遠慮がちな気持ちを表すのが「~もらっていいですか」である。
 その例として、ファミリーレストランで聞いた「水って、もらっていいですか」をとりあげた。婉曲な表現をするため「水って」「もらって」になったり、「お水をいただけますか」と、「いただく」という敬語を使えない(か、使わない)ために「もらって」が出てくるのではないかと、そのときは記した。
 これに対して、読者のひとりからこの表現についての意見をいただいた。この人は20代の女性で、若者がなぜレストランなどで「水って、もらっていいですか」という表現をしてしまうのかについて実に細かい分析、考察をしてくれたので、いつか紹介したいと思っていた。
 その前に、この「もらっていいですか」表現については、昨今の日本語問題のきっかけにもなった『問題な日本語』(北原保雄編著、大修館書店)の続編『続弾!問題な日本語』(同)でも取り上げていた。「ご住所書いてもらっていいですか」という言い方を例にあげて、いろいろ解説はされているが、要点は「依頼の表現を使うべきところに許可を求める表現がつかわれたことが原因」としている。

『変わる日本語その感性』
(町田健著、青灯社)

 確かに、「~していいですか」は、ふつう許可を求める言い方なのに対して、「もらって」は、「もらえますか?」から推測すれば依頼の意味があり、これらが混同している感じがするといえばいえる。今年7月に出版された『変わる日本語その感性』(町田健著、青灯社)では、別の観点からこれを考察している。
「連絡してもらっていいですか」を例にとって、「ご連絡ください」ということができるのに、この「ご連絡」の「ご」をつかうことができないか、あるいはつかいたくないとすると、このような表現になるのではないかと指摘している。また、この表現は間接的な依頼であることを相手に感じさせるため、それほどいやな思いをさせないですむという話し手の持ちがあらわれているのではないかという。

20代女性が分析する、若者の自尊心と言葉の関係

 このように「~してもらっていいですか」をめぐってもいろいろ専門家の意見はあるが、これからご紹介する意見は、若者が遭遇するファミレスなどのいくつかの場面を想定しての、言葉と気持ちの関係をさぐって分析している点でユニークだ。以下、できるだけいただいた“投書”のままご紹介したい。

                ※     ※     ※

 若者は対人関係、言葉遣いに自信がないのは、確かなことだと思います。それは、私も例外ではありません。そして、それらをきっかけにする自分の失敗、自分の評価の下落にひどくおびえているのもご承知のとおりです。若者がそれらにおびえるのには、自分の会話能力不足、語彙不足も感じていますが、それに拍車をかける社会現象があると私は思っています。

「水ってもらっていいですか?」と言った男性は、なぜ、「水『って』」という表現をするに至ったのか、それは自分の言葉遣いに自信がない、言葉を婉曲に使ってできるだけ嫌われたくない、ということに加え、若者の心にそういう言葉を使いたがらせてしまうような最近のフードサービス業の多様化があると私は考えています。
 地方ならともかく、東京など大都市圏では、ファミリーレストランだけでも数十種類あると思います。ファミリーレストランと限定しなければ、フードサービス業の店は数え切れない種類があると思います。その種類ごとに、お店でのサービスが違います。年々熾烈になるサービス戦争は、お店の生き残りをかけた作戦であり、オリジナリティーを表現する手段でもありますので、お店の種類だけ異なるサービスが存在すると考えてもよいと思います。
 お店がサービスとして提供する飲み物が水とは限らないのは、ご承知のとおりです。たとえば、蕎麦・うどん屋は入店したら、たいていお茶が運ばれてきます。また、ファミリーレストランでも、"和食"を謳うところでは、お水ではなく、お茶が運ばれてきます。若者が好むファミリーレストランでさえ、無料の飲み物がお茶の場合があるのです。そうすると、若者は飲食店に入店し着席したら、飲み物について、「ここのお店は、何の飲み物が無料なのだろうか、あるいは、何も無料ではないのだろうか」という疑問が発生するのだと思います。

 その疑問を具体的に分解すると、
1.サービスの飲み物は何か
2.サービスの飲み物がある場合、店員さんが持ってきてくれるのか
3.サービスの飲み物はあるが、セルフサービスなのだろうか
4.そもそも無料の飲み物はないのだろうか

 といった考察ができます。この考察に従って若者の心情を代弁させてください。
 若者が「水『って』」ではなく、「お水『を』」と断言できないのは、上記1.の疑問によるものだと私は考えています。若者がフードサービス業の多様化に巻き込まれた結果、そのお店がサービスとして提供している飲み物がわからないのです。「お水を」と言ったとき、その店がサービスとして提供している飲み物がお茶だった場合、店員は「当店ではお水ではなく、お茶をご用意しております」と言うと思います。
 この場合、編集長と私の感覚(と言わせてください)では、そうか、このお店はお茶かと思い、「それではお茶をお願いします」と、一言告げて済むことだと思います。しかし、若者は「当店ではお水ではなく、お茶をご用意しております」と店員に言われたこと、私達から見るとほんの些細なことで自尊心が傷つけられてしまうようです。
 ましてや、一人ではなく、異性や、あまり親交のない人と入店したならば、その傷は深いようです。一緒に入店した相手に、「この人、この店の無料ドリンクを水だと決め付けていた『自己中』『勘違いな人』」に見られたかもしれない、などと、やや被害妄想気味に思い込んでしまうように、私には見えます。
 仮に私のそのような推測が当たっていて、その若者が万が一本当に「勘違いな人」と異性に思われてしまったなら、「それではお茶をお願いします」の一言で、相手からの予期せぬ低評価を挽回できます。そして、心の傷は少しずつ癒えることでしょう。しかし挽回できないのは、編集長のご指摘のとおり、若者に語彙や会話能力が足らないためです。会話能力がなければ、挽回することすら気づかず、会話能力があっても語彙が足らなければ、挽回の仕方がわからないのです。

 そして、若者が「水を『もらっていいですか』」と言わざるを得ないのは、上記2.3.4.によるものだと私は考えています。2.のとき、「水を『ください』」と言うと、店員は「ただいまお持ちいたしますので、少々お待ちください」と言うと思います。しかしまた、若者はここで気にし始めるのです。一緒に入店した相手に、「自分は、相手が今まさにサービスしようとしていた空気を読めず、相手のサービスを待ちきれなかった『態度の大きな奴』」と思われてしまったかもしれない、と。

 3.のとき、店員は「当店はセルフサービス式です」と返答すると思います。そして再び、若者は自尊心を自分で傷つけてしまうのです。「自分はこの店がセルフサービス式の店にもかかわらず、店員に水をもってこいと要求してしまった、クレーマーのような『勘違い野郎』」だと思われてしまったかもしれない、と。
 4.にいたっては、ご説明するまでもなく、「水をください」と言ってしまったものならば、現代の繊細な若者は立ち直れないかもしれないほど、傷ついてしまうと思います。
(※たとえば、某有名コーヒーチェーン店は、同じ系列店でありながら、ある店舗では給水器があり自由に水をお替わりできますが、別の店舗では給水器すらない、という場合があります)

 これらはいずれも、さきほどのとおり、編集長と私の感覚では、そのような場合、そうか、ここはセルフサービス式かと単純に思い、「そうですか。どちらにお水のポットが置いてありますか」などのように、自然に店員と会話し、一緒に入店した相手も飲み物をほしそうにしていたならば、たとえば私の場合を例にして恐縮ですが、「私がお水を持ってくるから、その間にメニューを見ててね」と一緒に入店した相手に言います。
 この発言は私のオリジナルですので、若者それぞれが、挽回する独自の術を身につけていればいいのですが、それもさきほどのとおり、私が見る限りにおいては、若者は挽回できるチャンスがあることに気づいていない、もしくは挽回できるチャンスがあることはわかっていても、その力がないようです。
 若者はそういう、自分への思わぬ低評価を挽回できない自分の語彙や会話の力量の無さを知っているからこそ、最初から失敗したくないのです。そして悲しいことに、自分の力量を正しく知っている若者こそ、正しい言葉遣いのできる素養をもともと持っていて、おそらく子供のうちから環境を整えてあげることさえできていれば、若いうちから正しい言葉遣いができた人間なのだと私は感じています。そして、本人もそのことに、意識下、無意識下にかかわらず、気づいているのだと私は思っています。

 怪しげな言葉を使う若者を憂う編集長も、現代の若者の頼りなさに悔しく思われていると思いますが、若者も若者なりに自分に悔しいのです。青さを残したまま大人になってしまったことに気づき、悩んでいるのです。その若者が育ってきた環境に、正しい言葉を使う大人たちがいなかった、無機質な言い方をすると、「正しい言葉のサンプル」を見聞きする機会がなく、自分はそのまま大人になってしまった、と気づいているのです。だからこそ、悔しいのです。
 そこに青さを残しているのは、自分は大人として正しい言葉を使いたい、正しい言葉を使える能力があったかもしれないのに環境が悪かった、だから自分は正しい言葉を話せない、と多少環境のせいにしているところなのかもしれないと私は思っています。それは恥ずかしながら、私も例外ではありません。言葉遣いで悩む若者は、自分の言葉遣いの能力を知っているからこそ、言葉遣いでミスをすると、大人たちの予想以上に自分で自尊心を傷つけてしまうのだと私は感じています。
 すべての若者がそうとは限らないのも事実ですが、自分の怪しげな言葉遣いに疑問をもち、悩んでいる若者もいるということを、ぜひご理解ください。

                ※    ※    ※

 以上、かなり若者心理のナイーブな側面をとらえているという印象はあるが、彼女の細部にわたる分析は、「ここまで深く見るか」というくらい興味深い。また、現代の若者にとって他人とのコミュニケーションの仕方が大きなテーマだという現実(実際、新書にもこうしたテーマの本が多い)が少しわかるような気がする。
 もちろんこれは一つの私論であり他の見方もいろいろあるだろう。ただ、想像を逞しくて若者の心理に入り込んでみると、こんなふうに社会と言葉と心理の関係がみえてくるのだと気がつく。たんなる敬語の使い方の問題などではなく、やはり言葉は社会の鏡であり、心の鏡なのだなあ。

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