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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
09/03/31

第4回 いらっしゃいませ、こんにちは、ハロー

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 もっているクレジットカードについて、ちょっとしたトラブルが発生したので、カード会社に電話した。だれもが体験したことがあるだろうが、「○○の方は数字の×を押してください」とはじまり、以後何度かこの指示に従って、電話のプッシュボタンを押し、ようやくオペレーターにたどり着く。
 自動車の保険会社への問い合わせなども同様だし、たいていこの種の問い合わせはどこでも、できるだけ機械的に処理して人間同士の直接のコミュニケーションを避けようとする。通販でものを買いたいときの問い合わせには、比較的すぐにつながることを考えると、まったく現金な対応である。
 案内に従って進んでみても、自分が必要としているものに行き着かない場合がある。そこに至って、いままであれこれとかけた手間と時間はなんだったのかとなる。どうしてこういうことになるのか。人件費の節約や、問題を整理せずにとにかく電話をかけてくるような人を篩(ふるい)にかけようということなのだろう。
 合理的といえば合理的だ。また確かに、昨今顧客であるのをいいことに横柄に理不尽な要求や質問をしてくる人が多く、あちこちでクレーマーやモンスター○○として、社会問題にもなっている。しかし、だからといってあまりにバリアーを高くして、マニュアルどおりの決まった形のコミュニケーションしか受け付けないのは、お年寄りなどには不便で優しくない。

「なんだ、留守電か」

 こうした機械的な言葉、あるいはやりとりばかりしていると、人のコミュニケーションに対する感覚も変わってくる。つまり相手を想像もしなければ、見ることもしないで言葉ばかりをやりとりしているとおかしなことになる。

 面白い例がある。愚息が学生時代に宅配寿司のチェーン店でアルバイトしていたころの話だ。新米はバイクで配達に回るのだが、ある程度経験を積むと店の中で電話注文を受け付ける係に昇格するという。大手チェーン店なので顧客への電話対応などもしっかりとマニュアルができている。
 注文受付係になったばかりの愚息が、これを機械的に覚えて迎えたある朝のこと。出勤してしばらくすると電話が鳴った。おそらくお客からの注文の電話だ。それにしても少し時間が早い。緊張しながら彼は、受話器を取りマニュアル通りにはっきりとした声で「ハイ、○○です」と出た。すると、中年の男らしい声がして、ちょっとぶっきらぼうな言い方で尋ねてきた。
「お店はもうやってるの? 何時から?」。そこで、愚息が緊張しながらも間髪入れずマニュアル通りに、「当店の営業時間は○○時からになっております」と、よどみなく答えた。すると、一拍おいて電話の主が次になんと言ったか。男はがっかりしたようにこうつぶやいたのだ。「なんだ、留守電か」。
 これには笑った。しかし、確かにこの種の応対を私も経験したことがある。電話で「ハイ、○○でございます。・・・」というあたりだけを聞いたのでは留守電か人の生きた言葉かがわからないのだ。それにしても、生身の声と録音との区別がつかなくなるとは。

購買意欲をかきたてる作戦か

 では、生身の人間同士の言葉のやりとりはどうかといえば、これもビジネスがからむとますます機械的になっている。焼き肉チェーン店の店員がお客の注文を受けた後に叫ぶ「ハイ、よろこんで」。ファミリー・レストランで、入店してきたお客へ向けての「いらっしゃいませ、ようこそ・・・へ」という反応。
 みんなよくできていて、まるで“パブロフの犬”のように返ってくる。そこで必死に働いている人たちには申し訳ないが、元気はよくても、言葉は虚しく宙を舞っている。だいたい人の顔を見ることがあまりない。来客や注文の合図に使われている言葉でもあるからだ。
 埼玉県の郡部に住む友人は、ときどき行くユニクロの店員の反応を不思議がっていた。なにかといえば、店に入ると「いらっしゃいませ、こんにちは」という声がかかってくる。それも、こちらの顔を見るわけでもなくもくもくと商品を整理しながら、そう言いつづけるのだそうだ。
「マクドナルドのようなファストフード店と同じで、こう言われると入ってきた客は何かを注文するような気分に自然になるんじゃないのか。マクドナルドに入ってきて黙って帰る客がいないのと同じだ」と、感じたという。この客の気配を察知=「いらっしゃいませ、こんにちは」が、購買意欲を自然とかきたてるという見方だ。
 相手が誰であろうと、同じトーンで、同じ文句を言い続ける。そこにはひとり一人の人間に対して顔を見て、微笑んだり気を遣ったりする余裕などない。
 加えて、「いらっしゃいませ、こんにちは」には、違和感を覚えるという声もいくつか聞いた。確かにそうだ。以前はそんな言い方はなかった。「いらっしゃいませ」は、来店するお客に対して店の人間がかける言葉だし、「こんにちは」は、それこそ普通に知人や近所の人などへの挨拶だ。しかし、この二つを一緒にすると変になる。

「へりくだり」+「親しみやすさ」?

 イチゴ大福みたいに、最初は妙な取り合わせだと思ったが食べてみると意外と合う、という例もあるが、この場合は居心地が悪い。「『いらっしゃいませ』(の気持ち)なのか『こんにちは』(の気持ち)なのか、どっちかはっきりしてくれよ」と、言いたくなる。
 要するに、相手を見てどう言うか考えていないからこうなるのでは。いかにもお客然とした人には丁寧に「いらっしゃいませ」と言い、友人のような顧客には親しみを込めて「こんにちは」と言うという区別すら現場でできないから、両方言っておけばうまいこと行くだろうという発想かもしれない。あるいはお客に対するへりくだりと、知人に対してのフランクな親しみやすさを合体させた多機能な言い方だと考えたのか。いずれにしてもビジネス上の挨拶のマニュアルだろう。
 千葉県松戸市に住む友人は日頃使っているクリーニング屋で聞く「いらっしゃいませ、こんにちは」がなんだか妙だと言う。この店で働いているのはフィリピンか東南アジア系と思われる女性店員で、彼がいくといつも満面に笑みを湛えながら変わったイントネーションで「いらっしゃいませー、こんにちはー」と挨拶する。
 おつりを渡すときには、彼の手のひらを包み込むようにする(昨今時々見かける)というから、挨拶の言葉も含めてやはりマニュアルで決められた対応なのだろう。「なんだかすごく丁寧で、『いらっしゃいませー、こんにちはー』のつぎに『ハロー』まで付いてきそうだよ」と、彼は笑う。「いらっしゃいませ、こんにちは、ハロー」か。三つ重なったらすごいことになる。さすがにこれはないだろうが、今後この過剰で機械的な挨拶言葉は「~よろしかったでしょうか」などのビジネス言葉と一緒に広まっていくのかもしれない。
 横道に逸れるがついでに、以前問題にしたこの変な過去形についてまた一つ。知人が仕事で電話をしたら出た相手が「ハイ、○○組合でした」と言ったという。「でした」である。「さすがにあれはどうかと思った」と、穏やかな彼は首を傾げる。いきなり「でした」じゃ、話はそれで終わりだ。

「いらっしゃいませ、こんにちは」へ戻ろう。違和感を感じているのは私の周辺のオヤジだけだろうかと心配になり、ある時よく行く都心の居酒屋で、カウンターに立つ30前の女性に聞いてみた。ここはカウンターだけの店で近くで働く人や住人である常連が多い。店主と彼女だけで切り盛りしている。時折りお客のアイデアを取り入れてメニューを作ってくれるようなくだけた店だ。もちろん「ようこそ」も「ハイ、よろこんで」もない。
「『いらっしゃいませ、こんにちは』っていう、お店の人の言い方は普通かな。こういう言い方する?」
「うーん、『いらっしゃいませ』って言っても、どんなお客さんかによって、次に言うことが違ってくるし・・・」
「そうだよな、その通りだ」
 やはり、客を見ている人は、「今日はお早いですね」とか、「お久しぶりです」とか言うのである。

働く側もお客もシナリオ通りに動くしかない

マクドナルド化する社会
 あれこれ書いたが、かなりビジネス・マニュアルとしての言葉が蔓延しているといっていい。この震源と推測されるのはやはりファストフード店といったチェーン展開のレストラン・ビジネスだろう。これが、言葉だけでなく、さまざまな点で現代社会に影響を与えていることは言われて久しい。
 振り返れば、1990年代に世界中で読まれた『マクドナルド化する社会』(ジョージ・リッツア著・正岡寛司監訳/早稲田大学出版部)では、こうした影響をもたらしたファストフード・ビジネスの諸原理を詳しく分析している。93年にアメリカで最初に出版された本書で、社会学者である著者は「ファストフード・レストランの諸原理がアメリカ社会のみならず世界の国々の、ますます多くの部門で優勢を占めるようになる過程」をマクドナルド化と意味づけている。
 その上で、いまや世界中に広がったマクドナルド化を支える基本次元(戦略・システムなど)として、「効率性」、「計算可能性」、「予測可能性」、「人間の技能を人間によならない技術体系に置き換えることによる制御」の4点を挙げる。
 この最後の「制御」というのは、まず、第一に働く側への徹底したマニュアルの指導であり、同時にミスをなくすためできるだけ作業を非人間化し、客もまた効率よく回転するよう制御されることを示すという。この説明からすれば、まさに「いらっしゃいませ、こんにちは」は、相手構わずに機械的に行われる挨拶であり、これによって客も効率よく回転させるという点で、「制御」ともいえるマニュアルだ。
 基本次元に従えば、いちいち客の声を聞いたり、顔を見てから何か考えて対応してたら効率は悪いし、相手の出方によってその都度対応をしいられるようなことはできるだけ避けなければならない。冒頭の電話の例に戻れば、効率よく応対を進めるには、管理する側のシナリオに沿ってことを運ばせる必要がある。
 だから、本人確認など必要のない質問でも、「それではご本人様確認のために、電話番号と生年月日を・・・」などと聞かなくてはならない。電話対応している人も仕方なくマニュアルに縛られているのかもしれない。一方、聞かれた側は「面倒くさいな」と、思っても答えないと先に進まないのだ。これがシナリオだからだ。逆に、シナリオから逸脱したような質問なり発言をすると、結構暗礁に乗り上げてしまう。
 こうしたマニュアルは、科学的な労働者管理の方法(テーラー・システムなど)が進んでいるアメリカで生まれたものだが、アメリカ社会には移民も数多く、民族も言語も習慣も異なった人たちがいるので、お客への対応を平準化するためには、どうしてもこうしたマニュアルが必要なのかもしれない。
 これに対して日本社会は、もともと規格化したり統一化するのは大の得意であり、日本人はこうしたマニュアル化を効率よく取り入れる能力を持っていると言える。マクドナルド化の能力が高いということだ。そう考えると、「いらっしゃいませ、こんにちは」のような言葉などは今後もあっという間に広まっていくのかもしれない。
 特にこうした業態は、高校生など多くの若年労働者の働く場でもあり、若いうちからこういうところで鍛えられれば、しっかり身に付いてしまう。一方、日本にいる外国人登録者の数も年々増えつつある。こうした人たちもこの種の仕事に多く流れている。彼らもさらにマニュアル化のなかに巻き込まれれば、この先どうなるだろうか。「いらっしゃいませ、こんにちは、ハロー」みたいな挨拶がでてくるのだろうか。怖いもの見たさで、出合ってみたい気もする。

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