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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
09/01/31

第2回 「させていただきます」ウイルスの蔓延

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

言葉だけが妙に優しくなった社会

 記憶に間違いがなければ、いつだったか作家の嵐山光三郎氏が、失業対策についての新聞広告のなかで使われた言葉に怒りを露わにしていた。国が出した広告だったと思うが、そこで失業者のことを「失業された方」とか「失業された人」といったように、「失業された~」といういい方をしていた。これに対して嵐山氏は「失業は“される”ものじゃなない、“する”ものだ」と怒っていた。
 彼がどういう理由で怒っていたか詳しくは忘れたが、いわんとしていることは共感できた。失業するということは、失業した本人にとっては大変なことで、それは「~される」といった尊敬語をつかっていい表すような質のものではない。失業した人に対してそれはかえって失礼だし、同時に厳しい事実をカモフラージュしている。「ホームレスになられた方」というのがおかしいのと似ているところがある。
 このことを思い出して、厚生労働省のウェブサイトをみると、「離職によりお住まいにお困りの方へ」と書かれたページがあった。「離職により、社員寮等からの退去を余儀なくされ、お住まいにお困りの求職中の方について、全国の雇用促進住宅への入居のあっせんを行っています」と呼びかけている。
 別におかしくないといえばおかしくない。ちょっと丁寧すぎるかなという気はするが、日本語そのものとしては問題はない。しかし、何か違和感を感じる。どうしてか考えてみると、どこか歯が浮いたような響きがあるからだ。つまり、今日の派遣労働の問題をみても、国の労働行政の失敗であることは明らかである。こうした事態は派遣労働をとりまく法制度と経済環境の変化から十分予測できたはずでもある。にもかかわらず、適切な手段をとらなかった。
 行政の失態という点では、長年にわたる年金のずさんな管理により、国(厚労省)の失策は国民の目に晒され続けてきた。しかし、あれだけの怠慢な業務で国民に大損失を与えながら、関係する公務員は職も失わないで済むのである。もちろん住むところにも困らない。その一方で国の失政もあって職を失った人に対して、「離職によってお住まいにお困りの方」といって、いかにものんきに良心的な配慮をしているようないい方をするから「言葉だけ」ととられたり、どこか神経を逆なでする感があるのだ。
 もし、国(厚労省)が自らの失政を認めて真摯に反省・謝罪した上で、こうしたいい方をするのであれば、気持ちはある程度伝わる。が、ただ単に丁寧ないい方をされても、「そもそもの原因はお前らにだってあるのに、妙ないい方でごまかすな」とでもいいたくなるだろう。言葉少なくいうのなら、むしろ、「失業して、住むところがない方は相談に来てください」と、素直にわかりやすくする方がよっぽどいい。
 格差の拡大に象徴的に表れているように、日本社会はいま弱者に対して優しさを欠いている。それなのに、もののいい方だけ妙に優しかったり、へりくだったりするところがどうも気になる。それは現実をカモフラージュしたり、一方で失政の責任を問われるのを、前もって防御するような策に聞こえることが多々あるのだ。

首相もスポーツ選手も販売員も「許し」を求めている?!

「へりくだる」という点でいえば、責任転嫁というほどではないが、受け身的で控えめなニュアンスをあわせて出す言葉としてどうも気になるいい方がある。ある日突然広まり、いまややたらめったらと使われる「~させていただきます」といういい回しだ。
 テレビで俳優が「一緒にドラマに出演させていただきました」といったりとか、会社員が「わが社の方で用意させていただきました」など、とにかくこの「~させていただきます」表現は、いたる場面で耳にする。日本の社会はいま「~させていただく」ことばかりだ。自分の意志で、確信をもってする行為ですら「~させていただく」ようだ。こういっておけば、とりあえず謙虚にとられるというのだろうか。
「させていただく」のなかの「させる」という言葉は助動詞で、「駐車違反をやめさせる」とか「子供にピアノを習わせる」といったように「使役」の意味でつかわれることが多い。これとは違って、「~させていただく」、「させてもらう」といういい方のなかでつかわれるときは、「相手方の許しを求めて行動する意をこめ、相手への敬意を表す(「大辞泉」より)」意味である。
「許しを得て、敬意を表す」。これが「させていただく」の意味の基本である。しかし、恐らくいま使われている「~させていただく」は、「許しを得る必要」の有無があるような場面の話ではなく、とにかく「こういっておけば丁寧だろう」といった感じで、なんだかみんな癖になっているようにつかっている。麻生総理も施政方針演説のなかで「説明させていただきます」と話し、若きプロゴルファーの石川遼選手もこのほど「~確定申告をさせていただきました」とインタビューに答えていた。確定申告は彼の場合義務であり、「させていただく」ような質のものではないと思うのだが、やはり周りの影響だろう。
 ときに、いくらなんでもそれは「させていただく」でなくてもいいだろうという例に遭遇する。例えば、スーパーで買い物をしていたら、店内アナウンスの声がコブシをきかせてこう叫んでいた。「ただいまより~、タイムサービスとして~、○○を30%引きとさせていただきます!」。
 値段を下げるという、買い物客にとってはとてもよろこばしいことなのに、なんで「~させていただきます」なんだろう。「いいことなんだから遠慮しないでどんどんやりなよ」と、肩でも叩いてやりたくなる。それに、このいい方は、とりようによっては恩着せがましく聞こえる。
 テレビのサッカー番組で、解説の元プロサッカー選手が海外の有名競技場での日本選手のプレーについて触れた折、「僕も以前この競技場で蹴らせてもらいましたが・・・」といっていた。もちろん、彼はこの競技場で試合をしたことをいいたかったわけで、ここでボールを蹴りたくて、競技場に許可を得てひとりでボールを蹴ったわけではない。ならば「この競技場で蹴ったことがある」でいいではないか。たぶん、みんなのいい方が、ウィルスのように彼にも自然とうつってしまったのだろう。
 場面は変わって、国内線の飛行機のなかでのこと。日本航空である。全日空もそうだが伝統ある日本の航空会社のフライト・アテンダントは、言葉の使い方など接客マナーでは、上品で接客業のお手本になると私は長らく思っていたし、いまも思っている。個人的にはほとんど不快な思いなどしたことがない(オフタイムのときの彼らについてはよく知らないが)。
 ただひとつだけいえば、目的地に到着して機内から降りるときにアナウンスで「どなたさまも、・・・・お仕事にお励みください」という声をきいたときだった。励ましてくれるのは嬉しいが、なかには「出張を兼ねて骨休めをしよう」とか「今日はさぼっちゃおう」と思っている人もいるかもしれない。そこへ「お励みになって」では、なんだか教頭先生に見張られている生徒になったようで、ちょっと鬱陶しい。

“ウィルス”はマニュアルにも“感染”した

 話は戻って、昨年のことだがこのお手本的言葉遣いの機内で、「これより、機内販売をさせていただきます」というようなアナウンスがあった。「機内販売をいたします」といういい方ではなく、「させていただきます」が出てきた。別に今日ではおかしな表現ではないが、航空会社は言葉ひとつにも厳しいマニュアルがあるだろうと思ったので、帰り際に女性アテンダントにきいてみた。
「すいません、つかぬことをお伺いしますが、さきほど、『機内販売をさせていただきます』とアナウンスがありましたが、『させていただきます』というのは、案内のマニュアルにあるんでしょうか。ちょっと、言葉の使い方に関心があるので、できれば知りたいと思いまして・・・」。決してうるさいオヤジの嫌みに聞こえないように低姿勢で声をかけた。
 すると、まだ職務経験の浅いと思われる若い彼女は笑顔をつくって「私ではわかりませんので、すぐにきいて参ります」といって、先輩のところへ小走りに行ってしまった。「そこまでしてもらわなくても」と思ったが、答えを楽しみに待った。ほどなくして戻ってきた彼女がいう。「そういういい方は、マニュアルにはないということでした。すいません」と、笑顔で教えてくれた。
 謝られたのには恐縮したが、つまり、本来は違ういい方があったのをアナウンスする女性が自分でそうアレンジして表現したらしい。彼女だけでないとすれば、厳しいマニュアルのあるこの職場へも「させていただきます」ウイルスは浸透していたことになる。(もし、違うようでしたら日航の方教えてください)
 テレビのレポーターなどは、「させていただきます」の連続だが、あるとき、つけなくてもいいようなところで、無理に「させていただきます」をつけようとして、「~やらさせさせ・・・・」と、しどろもどろになってしまったのを見たときはおかしかった。明らかに無理があったのだ。

 この「させていただく」言葉について、編集者でコラムニストの深澤真紀さんが2007年11月の著書『思わず使ってしまう おバカな日本語』(祥伝社新書)で考察している。現代のおもに若い人がつかう日本語のなかで、著者が気になる表現がどうして生まれたのか、どこから来たのかなど、その言葉の背景を探り、どうして“おバカ”と感じるのかをまとめている。
 表現が間違いだとか、よくないとか決めるつけることなく、言葉の使い方は世代や時代によって変わるものであること、そしてあくまで好みと感じ方の問題であることを踏まえての考察なので嫌みはなく、楽しみながら読むことができる。
 深澤さんは、「させていただく」を、いくつかのほかの言葉と一緒に「代理店語」と呼んでいる。「○○社さんとは、よくお仕事させていただいています」という表現を例にとって、「○○社さん」の「さん」も、「させていただきます」も関西弁と広告代理店用語から来ているのではないかと見る。
 広告代理店というテレビ局や芸能事務所と関係の深い「ギョーカイ」のつかう言葉が、テレビなどに広がってつかわれるようになったというのが彼女の意見。その上で「さん」といういい方については、正しいとか間違っているという問題ではなく「むやみに媚びているようで妙に居心地が悪い」という。しかし、一方で周りがみなつかっているとひとりだけ「さん」をつけないと乱暴な感じに聞こえて、つい「さん」をつかってしまう心情を説明する。
 問題の「させていただきく」については、「どうにも好きになれない」という深澤さんは「~一番イヤだと思うのは、この言い方には『自分が選んでいるわけではない、受け身である』とアピールしているところを感じるからです」と苦言を呈する。なるほどそういう見方もある。「私、○○さんと結婚を前提におつき合いさせていただいているんです」を例にとって、丁寧な感じはあるが、「どんどん『当事者性』がなくなり、責任主体を遠ざけている感じがどうしてもするのです」と批判的だ。
 確かに自分で決めていることなのに、わざわざ持って回ってこんなふうにいう理由はないだろう。よく、営業活動である地域を回っている人が、他人の家を訪問して「いま、この辺を毎日回らせていただいています」などという。そもそも用件もいわずただ自分が何をしているかを赤の他人に話しているだけなので「それはそれは、ご苦労さんです」とでも応えるしかないのだが、この辺を主体的に歩くだけなのに、いちいち「回らせていただく」もないだろうにと思う。「この地域の方に、本社の製品である○○について、是非説明したいと思い回っています」と、堂々といった方が主体も目的もはっきりして気持ちいいではないか。
 CDの販売促進のために全国を回っているアーティストも、「いま、全国を回らせていただいています」という。積極的にキャンペーンをしているのだから「回っています」でいいのになぁ。やっぱりウイルスに冒されているのだろう。

単純な表現は細やかな文化を破壊する!

 深澤さんのいう受け身に加えて、私は、「持って回ったいい方」であるところが気になる。では、なぜ持って回ったいい方をするかと考えると、前回のコラムで取り上げた婉曲な表現をする理由と同様に、「回っています」などとストレートにいった場合、それが失礼ないい方になるのではないかという言葉遣いの上での自信のなさがあり、加えて、不適当ないい方だったりして批判されることを恐れ防御意識がつよく働くからではないか。とにかく最大限に丁寧にへりくだっていれば、失礼にあたることはないという意識があると思う。
「○○社さん」というのも、直接その会社の人に向かって会社のことを指す場合に「御社」や「貴社」といういい方があるのを知らないこともあるだろう。また、直接その会社の人に対してではない場合は、「○○出版社」とか「○○証券」といっても問題はないのに、心配だから「○○証券さん」といってしまうのではないか。
 丁寧すぎることは、きつい表現になってしまうことに比べれば、受け入れられるのはいうまでもない。しかし、ものには限度というものがある。必要以上に媚びたり、へりくだったり、持って回ったり、過剰に美化したりする言葉が蔓延すると、表現が単純化する。単純化は文化の質(細やかさ)の低下に繋がる。なにより、そんな言葉が蔓延したら鬱陶しくて仕方ない。
 これだけ「させていただきます」をはじめ妙に丁寧だったり、媚びたり、へりくだったりする表現が蔓延すると、いまに厳しい現実をストレートに伝えるべきテレビ・ニュース番組もこの種のウイルスに冒されるのではないかと心配する。
「住まいを失われたホームレスさんたちに、○○社さんのご協力により、炊き出しのサービスをされているボランティアさんの活動を報告させていただきました」。こんな現場レポートが読み上げられたらもはや重篤だ。

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