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Series コラム
鏡の言葉 川井 龍介
08/12/31

第1回 水ってもらっていいですか

言葉は人の心を映す鏡であり、社会を映す鏡でもある。気になる言葉、問題な言葉、悲しい言葉など、いまの世の中で人の心や社会を映すような言葉の周辺を探ってみる。

 あるとき、都心のファミリーレストランで食事をしていると、隣のテーブルにいた若いカップルのうち、男性の方がウェイトレスを呼んだ。そして、水のほとんど入っていない自分のグラスに手をかけて言う。「すいません、水ってもらっていいですか」。ウェイトレスは「はい」と答えて、水をつぎはじめた。
 何か違和感を覚えた。「水ってもらっていいですか」にだ。なぜ、「水」ではなく、「水って」なのだろう。なぜ「もらって」なのだろう。よーく考えてみた。
 まず、「水って」ということで、直接的に言うことを避けようとしている。婉曲な表現、あるいは柔らかさを持たせていると思われるが、なにか幼稚な響だ。「私ってすごく辛いのが苦手な人じゃないですか」などというおかしげな表現のなかにある、「私って」に似ている。
 次に「もらって」だが、「いただく」という「もらう」の謙譲(丁寧)語が使えないか、あるいは、知らないから出てくるのだろう。「ください」という言葉でもいいのだが。さらに「もらえますか」ではなく「もらっていいですか」で、「水って」と同じ婉曲な表現をしようとしてる。もちろんこれも幼稚さが漂う。回りくどくいうことで、柔らかさを出そうとするのなら、言葉そのものを換えればいいのだが、語彙が不足しているのだろう。
 同じように、湘南、平塚の小さなイタリアン・レストランで聞こえた言葉も「?」と、頭に引っかかった。これも店に入ってきた若いカップルだった。入り口のそばのテーブルが空いていた。すると、男の方が店の人にきいた。「ここ、大丈夫ですか」。さて、これに違和感を覚える人とそうでない人がいるだろう。いいたいのは、よく聞かれる「大丈夫」という言葉の使い方だ。
 もちろんこの男性は「この席が空いていますか」という意味で「大丈夫ですか」と言ったのだろう。だったら「空いてますか」、あるいは「ここ、いいですか」などと、もっと適当な表現があるかと思うのだが、「大丈夫」という言葉で代用するんだな、これが。 
「しっかりしている」という意味のほかに、「大丈夫」には「確かだ」という意味があるので「このテーブルについていいですか。確かですか」といいたかったのだろう。
「大丈夫」という言葉。便利といえば便利だがちょっと範囲を広げて使いすぎではないか。ある夜のこと、居酒屋で「コートをどこに置いたらいいですかね」と聞くと、「大丈夫ですよ、預かりますから」と明るい声がかえってくる。帰りにタクシーに乗って降りるとき「細かいのがないんですが……」と運転手に言うと、「大丈夫ですよ」と来る。これは許容範囲だが、とにかく「OK」という意味で「大丈夫」が乱発される。まさにこの世はどこでも「大丈夫」だ。
 いくらなんでもこれは、と思ったのが、仕事場で、自分のデスクに向かって仕事をしているとき、当時仕事を手伝ってくれた30代の女性が、何か用があるらしくやってきて言った。「川井さん、いま大丈夫ですか」。「?」だ。言いたいことはわかるといえば、わかる。しかし、そこまでねじれてくると、一拍おいて「あー、俺は大丈夫だ。すこぶる元気だ」と、答えたくなるではないか。
「いま、時間がありますか」とか「お話しできますか」と言ってくれればいいのに。せっかくいろいろ言葉があるのだから、乱暴に代用するのはいかがなものか、まして言葉に関わる仕事をしているのであれば。ついでに言えば、この人は同じように私のデスクに近づき、「いま、話しかけてもいいですか」ときいてきたことがあった。すでに話しかけていることはみなさんお気づきだろう。「泣いてもいいですか」といいながら涙を流してようなものだ。まあ、その方は、文学的で許されるか。

「コーヒーの方になります」

 婉曲な言い方のうち妙なものについて話を戻せば、よく例として挙げられるものに「○○の方(ほう)」という言い方がある。レストランなどでウェイトレスから「コーヒーの方になります」などと、カップをテーブルに置かれることがある。なんで「方(ほう)」がつくのか。あなた、一つしか持ってきてないではないか。おまけにだ、なんで「なります」なんだ。「コーヒーになる前はなんだったんだ、アイスコーヒーか?」と、意地悪な突っ込みを入れてみたくなる。
 丁寧に言えば、「コーヒーをお持ちしました」がいい。適当な語彙が見つからない、それでいてストレートに言うのはなんだか丁寧ではないようなので、何か余計なもの、「方」とか「なります」をつけるのでは。さすがにこの場合「~とか」はつけるのは余り聞いたことがないが。

『かなり気がかりな日本語』(野口恵子著、集英社新書)には、授業中に大学生が、エアコンが切られた教室で、「暑いかもしれない」と言った例を、昨今の日本の大学生の遠慮がちな性質の一面を表す、一風変わった婉曲な表現として挙げている。実に面白い例だが、遠慮がちというだけでなく、これは妙な言い方ではないか。「ちょっと暑い気がしますが・・・」とか、「暑くないですか?」というのならわかる。こう言っている本人が「暑い」と感じていることは周りにも明らかで、ただ表現の仕方で遠慮しているとわかる。
 これに対して「暑いかもしれない」となると、「暑い」と感じている本人の感覚自体を自分で疑っているような妙なニュアンスがある。暑いか暑くないかは、本人の感覚ではっきりすることなのだから、「そんなことまで推量するのかよ」と言いたくなる。転んで頭を打ったら「痛いかもしれない」なのか。え、どうなんだ?
 別に怒っているわけではない。若い人は、友人たちとのコミュニケーションにとても神経質だと言われているというから、自分の意見がもし周囲に受け入れられなかったらどうしようかと、気を遣う余りこの「かもしれない」が出てくるのかな。「痛い!」とか「暑い!」と言ってしまった後に、「そんなことないだろ!」と反論された場合を恐れて、また、「ああ、そうだよね」と萎縮したくないために、初めから「かもしれない」と、謙虚にしているのでは。
 こうした持って回ったような妙な言い方は、周囲に気を遣いすぎてぎこちなくなってしまった若い人の心の表れのような気がする。
 一方、この気遣い的なものをしないで済むように、言い換えれば、「そんなことないだろ!」と言われないために、先手を打っておくような言い方がある。これも昨今の言葉遣いについて話題になるときさんざん出てくるものだが、「○○でよろしかったでしょうか」という言い方である。
 私自身は十年ほど前に青森市のコンビニや商店でこの表現を何度か聞いたのが最初だった気がする。だから、ある種の方言なのかと思っていた。しかし、それからしばらくして若い人がレジで働くお店の多くで聞くようになった。「千円からお預かりします」の「~から」と一緒になってである。なぜ、現在進行していることなのに「よろしい」ではなく、「よろしかった」と過去形にするのか、これも妙だ。
 だれがいったいいつこんな言い方をしはじめたのか。テレビなどメディアの影響か、あるいは会社がなにかのマニュアルで使い出したのか。私はどうも、この言い回しが出てきたのと同じ頃話題になってきた「クレーマー」の出現、増加とそれへの対応と関係があるのではないかという気がする。
 文句(クレーム)が後で出てくるのを恐れて、進行中の事実を過去形で表して、終わったことにしてしまうという気持ちの表れではないか。「○○でよろしかったですね」とは、「いいですね、これでもう確認しましたよ、過ぎたことですよ、後から文句をいってもダメですよ」という念を押しているように聞こえるのだ。ビジネス・マニュアルから出てきた言い方だとすれば、こう解釈すると納得できる。

言葉は社会のよくない変化も映しだす

 言葉が時代とともに変わってくるのはあたりまえだし、使い方も変わってくる。それは社会の鏡でもある。であれば、こういう社会の変わり方はいいけれど、こういう社会の変わり方はよくない、ということもあるわけだから、言葉によっては、「こういう言葉の変化は嫌だな」と思うこともあって当然である。と、私は理論武装したい。
 例えば、流行語として昨今の若者は良くも悪くも、気持ちを強く動かされたとき「やばい」とか「やばくない?」という。この手のものは、「まじかよ」とか古くは「うっそー!」といったものと同じで、新語に慣れないその時代の大人にとっては耳障りなことがあるだろう。だが、その時代の感覚を表すので仕方ないと思う。アメリカでも同じような表現が近年あって、なんでも心を動かされたとき「Awesome!(オーサム)」というのが若者の間で使われているようで、これが年配者からするとなんでもかんでも「オーサム!」なので嫌な感じがするらしい。が、これも流行感覚の表れだ。
 これらに対して、先に挙げたいくつかの例は、嫌な社会の変化を映しているようでどうも気に入らない。「細かいこというオヤジだな」と、若い人(いや、そのほかの世代にも)から忌避されそうだが、それでもひきつづき言わせていただく。
 やたらと若い人が婉曲な表現をつかって周囲に気を遣ったり、権利や利益を守るために過剰反応したりする。それも語彙が不足していて繊細な表現ができないから、荒っぽい妙な言い方になる。木工細工などで使う、あのサンドペーパーに喩えれば、木目の細かなものでなく、ざらざらした、商品番号の小さなもののようだ。力はあるかもしれないが、乱暴で後の仕上がりは雑だ。
 話は少し堅くなるが、戦後10年余りして生まれた私は、時代の変化のなかで世の中はより自由に、公平に進歩して行く、いや、行かなくてはならないとなんとなく肌で感じていた。ムラ社会的な組織の個人への圧力や個人の側からすれば組織への隷属的とも言える帰属意識、そして異ったものを排除したり他人の目に対しての過剰な反応など、自由や公平を阻害するような因習は、世代が変わるにつれて薄れていくのだという思いを抱いていた。しかし、どうやらそう単純な話ではないようだった。世代は変わっても、人々は組織やコミュニティーのなかで、必要以上に気を遣い、相変わらず陰湿な村八分的な醜態は大人の世界でも子供の世界でも続いている。
 一方、個人の商行為が大規模チェーン店に代表されるような企業「ビジネス」となり、合理性を追求するなかで仕事はマニュアル化される。例えば製造業のなかで職人が機械的な単純作業に変わっていったように、コンビニなど画一的な小売りビジネスの仕事はすべてマニュアル化され、その中の「接客対応」の象徴である言葉もマニュアル化される。
 お客に対する感謝などあろうがなかろうが、まずは形ができている必要がある。そつなくこなす方法が大事であり、働くものには考えることより覚えることが先に求められる。覚えればいいからそこで働くものの報酬(時給など)は低い。だから若者がアルバイトで使われる。そして彼らを通してマニュアル言葉が世に広く出てくるのではないか。

「私って、タルタルソースが得意じゃないから……」

 いずれにしても、言葉は鏡となって、社会や人の心を映している。同年代の物書きの友人も、これには同調する。しかし、「それを気に入らないからといって、いちいちあげつらっても仕方ない。おもしろおかしく楽しめばいいじゃないか」と、彼は言う。「そういうものか」と、こちらのテンションもいったんは下がった。しかし、その翌日、神田小川町で昼飯を食べていると、隣に座った30代のカップルのうち女性の方が、店の人に言うのだ。
「お茶ってもらっていいですか」と。「!」。やっぱり気に入らないな。おまけに彼女は、魚のフライの話をしながら、こんなことを言った。「私って、タルタルソースが、得意じゃないから……」。こうなると、回し蹴りの一つも食らわしてやりたくなる。(あくまで気持ちの問題です)。
「私って」だと?「得意じゃない」だと? 「得意」の使い方も変だろう。「私、タルタルソースが苦手です」とか「好きじゃない」と言えばいいのに。思えば、わが国のリーダーすら、中学、高校生程度の漢字が読めないのだから仕方ないといえば仕方ないのか。いや、ここは敢えて、当コラムで今後も問題として考えていきたいと思うのである。
 次回は、「ウーロン茶」のようにある日突然登場して一気に広まったというか、メジャーリーグのスタジアムのスタンド・ウェーブのように押し寄せてきた「~させていただきます」言葉と、朝でもなんでも「お疲れ様でーす」という変な挨拶言葉を中心に、言葉と心、言葉と社会を考察したい。

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